牛車で往く

日記や漫画・音楽などについて書いていきます 電車に乗ってるときなどの暇つぶしにでも読んでください

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旅行代理店の前を通るときの気持ちと、うしろのほうの海

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旅行代理店の前を通るたびに、店の前に出された様々な旅行先のパンフレットが気になってしまう。そして、旅行に行けたとして年に最大2~3回ぐらいかなあと考えると、この先いろんなところに行くためには全然時間が足りないじゃないかということに気がつく。この夏、どこかに旅行に行きたいなあ。そして、去年の夏の旅行のことを思い出す。8月に行った旅行、暑すぎて楽しさよりもしんどさの方が勝っていたんじゃないか。もちろん思い出の中では楽しいものになっているんだけれど。そんな夏の旅行について考えていると、1ヶ月以上の長期休暇なんてこの先の人生においてもう全く訪れないんだろうなと、おそらくこれまで何人もの人が考えたことを、ご多分に漏れず自分も考えてしまった。そんなことを考えたからといって、夏休みをたっぷり取れるような人生に変えて行こうとどうこうするつもりはないんだけれど、急に精神的にしんどいなあなんて思ってしまった。かといって、膨大な時間を与えられていた大学時代の夏休みを有意義に過ごせていたかと問われてみれば、イエスとは答えられない。そして、仮に今の自分がタイムスリップして大学時代の夏休みを過ごせるようになったとして、何をしたらいいかは全く思いつかない。う~ん、悲しいね。でも、これに似たようなことは毎週末味わっていて、休日が始まったばかりの土曜日はダラダラしてしまい、休日が終わろうとする日曜日の夜に『ああ、この休日の間にあれやっとけば良かった・・・』なんて思ってしまうことが多い。そしてこの経験が次の週の土日に活かされることなんてほとんどない。タイムスリップしても、私は今の自分とさほど変わらない人生を歩んでしまう気がする。それどころか今よりも・・・。


土曜日に、スズリという誰でも簡単にオリジナルデザインのTシャツを作成して販売できるサイトを眺めていた。

 

suzuri.jp

 

いろんな人たちが、オシャレなデザイン、はたまたユニークなデザインのTシャツを作っては販売している。そんな中、不特定多数の誰かに販売するためではなく、特定の誰かへ個人的にプレゼントするためにデザインされたTシャツを時折見つける。多くの人に買ってもらおうとかそんな考えは一切感じられない、ただプレゼントする人ひとりのために考えられたデザイン。おそらく仲のいい友人の若い頃の写真や、その人たちにしか理解できないメッセージなどが載せられたTシャツ。明らかにその他のTシャツとは趣が異なっており、はっきり言ってめちゃくちゃ浮いている。そんなTシャツたちがやたらと目につくのと同時に、なぜか憧れのような感情を抱いてしまう。


そんな風にスズリを眺めながら、Lantern Paradeの「花」を聴く。

 

 

ビートルズのハーモニーもスライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンのファンキーもカーティス・メイフィールドのメロウネスも夢中にならない人のほうがはるかに多いという歌詞。確かに周りにはビートルズは知っていても、スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンとカーティス・メイフィールドは知らない人の方が多い。そして自分自身、ビートルズのハーモニーやスライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンのファンキー、カーティス・メイフィールドのメロウネスに夢中になっているかと言われれば、そんなことはない。世の中には自分よりももっと色んなアーティストを知っている人たちは当たり前のようにたくさんいて、そしてさらに、その人たちよりももっと詳しい人たちがいて・・・。色んな作品を知っていなくても、自分にとって意味のある作品だけを知っていたらそれでいいんじゃないかと思うこともある。それでも外から見れば、もっと世の中には良いものがあふれているのにと思われてしまうんだろうか。私たちはどこまで行ってもすべての作品を聴いたり、見たり、触れたりすることはできない。そんな事実に途方もなさを感じると同時に、私にとって人生を変えうるほどの決定的な作品であったかもしれないのに、日の目を浴びずに埋もれてしまった作品もこの世にはあったのだろうかといったことまで考えてしまう。売れなかったから埋もれてしまった作品。世間の人には受け入れられなかったけれど、私個人には刺さっていたかもしれない作品。とはいえ、そもそも何かに人生を変えられるほど私は感受性が豊かなのだろうか。私には他人にオススメされた作品を素直に受け入れることができないところがある。自分にとっては良い作品とは思えないから、それはもうしょうがないことだと思ってしまうんだけれど、逆に自分の好きな作品の良さが友人に伝わらないときは、本当に理解できない気持ちになる。『なんでこんなに良いのに、面白いのに、素晴らしいのに分からへんねやろう?』って。私は、心のどこかで自分自身の感性は絶対であると信じているんだろう。それは傲慢かもしれないが、自分の感性が信じられなくなったら生きていけないじゃないかって思うときもある。そして、友人たちも私が彼らからオススメされたものの良さが分からないときに、同じような感情を抱いているんだろうか。思ってんだろうね、多分。


日曜日には、永田紅の「ぼんやりしているうちに」を読んだ。

 

ぼんやりしているうちに―永田紅歌集 (21世紀歌人シリーズ)

ぼんやりしているうちに―永田紅歌集 (21世紀歌人シリーズ)

 

 

夏に長らく海に行っていない。嘘。沖縄には結構行っていて、そのたびに海には入っている。でもそれはマリンスポーツの類いであり、海水浴は長らくしていない。それでも永田紅の短歌の

 

袋から出すときタオルのあたたかく湿りて海はうしろのほうよ


で呼び起こされる感覚が確かにある。私はあの湿ってあったかい水着とかタオルが気持ち悪くて嫌いだったな。でもこの歌を読んで、あのあたたかさは、先ほどまで入っていた海を引き連れていたんだということに気づかされた。海はうしろのほうよという部分からは、海水浴を終えて海から遠ざかっていく物理的距離とともに、もう入らなくなり思い出すだけになってしまった海との心理的距離を私は感じてしまう。夏のノスタルジー。春にも秋にも冬にもそれぞれのノスタルジーを感じている気がするけれど。andymoriの「すごい速さ」の歌詞

 

そのセンチメンタルはいつかお前の身を滅ぼすのかもしれないよ

感傷中毒の患者 禁断症状 映画館へ走る


の部分を聴いて、自分は感傷に浸りたくて無理矢理いろんなことを思い出そうとしてるんじゃないかって思うときがある。

 


andymori "すごい速さ"

 

それでもやめられないから、自分はもう感傷中毒の患者なんでしょう。いつからなんだろう。

 

学生の最後の年となりぬれど牛のようには懐古するまい

永田紅

 
学生じゃなくなって、はや数年です。

 

夏風邪が呼び起こした大学生のころの暇な昼間の記憶

先週、風邪をひいてしまった。夏風邪なんて人生で初めてかもしれないというくらい、この時期に風邪をひいた記憶がない。なんでも咳が止まらないタイプのものであった。ということで、一日会社を休んで病院へ。わたしは基本的に仕事なんて好きじゃないから、風邪をひいているとはいえ会社を休めて少し嬉しかった。朝、布団の上で目を覚ますと身体がいつもよりも重い。そしてのどがやけにイガイガする。これまで生きてきた経験から「これはもう風邪でしょう・・・」とすぐに分かった。正直、無理をすれば働けるぐらいのしんどさではあったが、「周りの人に風邪をうつしてしまっても悪いし・・・」というのは建前であって、会社を休む口実ができたので休もうと即座に決心した。いざ会社に連絡し、今日は休むということを告げると、それだけでもう幾分か身体が楽になった。どんだけ働きたくないねんと自分で思わないこともないが、平常時でも働くのはしんどいのに、しんどいときに働くなんてもっとしんどいから、もう働きたくないのだ。もはや子どもが駄々をこねているようなものではあるが、これは本当にそうだからもう仕方がない。とはいえ、確実に風邪をひいてはいるので、お昼前ぐらいに電車に乗って最寄りの病院へと向かった。

 

家を出て駅に向かっていると、夏なのにそんなに暑くないなと感じた。とはいえ汗は絶えず噴き出てくる。ホームにて電車を待っている間、やはり少し身体が重く感じられた。しんどさっていうのは動いているときよりも、止まっているときのほうが感じやすいような気がする。歩いているときはそんなにしんどくなかったのに。中学の部活のときもそうであった。球拾いをして動いているときはしんどくなかったのに、集合がかかって後ろに手を組んで先生の話を立って聞いていると急にしんどさが顕在化してきた。急に暑さとか疲れとかがジワァーっと頭の中を満たしてくるような感覚。ただ、思ったよりも電車はすぐに来てくれたため助かった。クーラーの効いた車内に座ると「フゥー」と大げさに息をつきたくなった。各駅停車の電車が動き出し、車内の様子を見渡すとお年寄りと子ども連れの母親が多いことに気づく。それでもやはり平日の真昼間ということで会社で働いている人が多いのであろう、車両の中はガラガラであった。人がガラガラで進行方向と直交する向きに座るタイプの座席であったから、向かい側の窓の景色を座りながら堂々と眺めることができた。窓の外の景色を見ていると、空に浮かんでいる雲はほとんど動かないのに、軒先の景色は次々と横へと流れていった。ああ、ここの駅は学生っぽい人がよく乗ってくるから大学でもあるんだろうな。お昼に高校生がいるけど今ってテスト期間で早く学校が終わったんだろうか。もしかしてサボり?など、色んなことを考えてしまった。そしてふと、なんかこの感じ、大学生の暇なころの昼からしか授業が入ってなかった一日に似ていて懐かしいなと思った。なんだかそれに気づくと急に嬉しい気持ちが湧いてきて、あのころは確かに暇で退屈でこんな毎日いつまで続くねんって思っていたけれど、社会人になった今、そんなころの空気がふと顔をのぞかせるとこんな感情になってしまうなんて、思い出補正は恐ろしいなと感じる。思い出は美化されて全てがフィクションっぽくてそれっぽいワンシーンになってしまう。まあでもそれで心が軽くなったのも事実、そんな感傷が呼び水となり、大学生の夏によく聴いていたThe Beach Boysの「California Feelin'」をウォークマンで再生した。

 

 

懐かしい。なんといってもコーラスが最高。YouTubeに別バージョンのPVが上がっているのだが、私はこのアルバムバージョンが好きなのである。あのころ考えていた、このまま何者にもならずにフラフラしたまま生きれたらいいのにという感情まで呼び起こされる。そしてなぜか、思い切って仕事をやめてもどうにかなるんじゃないかという浅はかな考えまで頭に浮かんできた。どうにもならんよ、ノープランのノービジョンじゃあ。それにやめる勇気もないだろう、自分よ。それにしても車内はクーラーが効いていて心地よく、このままずっと乗っていられるなあなんて思った。

 

病院のある駅に着き、受付に行って問診票を受け取った。その際に自分の受付番号を教えられ、およそ1時間後ぐらいに呼ぶことになると告げられた。まあまあ待つなと思ったが、こんなときのために小説を持って来ていたから、どうにか暇は潰せそうだ。長嶋有の「夕子ちゃんの近道」を読む。

 

夕子ちゃんの近道 (講談社文庫)

夕子ちゃんの近道 (講談社文庫)

 

 

この小説の主人公は、「フラココ屋」という名の骨董屋の2階に住んでいて、その骨董屋の手伝いをしながら生活している、いわゆるほぼほぼプー太郎のような感じの人物である。先ほどの電車内において浮かんだ「仕事やめてもどうにかなるんじゃないか」という考えは、少なからずこの小説から受けた影響が起因している。自分にとって都合の良い部分だけに影響を受けてしまうのはいかがなものかと自分でも思うが、なんだかそんなことを繰り返しながら生きてきた気もする。それはさておき、私はこの「夕子ちゃんの近道」の収録されている一篇「瑞枝さんの原付」において、瑞枝さんが主人公を心配してストーブを運んでくるシーンがとてつもなく好きなのだ。重そうにストーブを運んでくる瑞枝さんの姿を、フラココ屋の2階から見つけた主人公が「手伝いにいかなくては」と思いながらも動かなかったこと。主人公のためにストーブを持って来てくれた瑞枝さんの姿を見て、今ここで庇護されているのは、ストーブを与えられようとしている自分のほうではなくて、瑞枝さんのほうだと錯覚してしまったこと。人のやさしさに感動するも、そんなやさしい人の姿がなぜか、とてもか弱いものに見えてしまうといった気持ちがものすごく分かる。なんなんだろう、この感情は。本当の本当にやさしい人っていうのはそんなにいるわけじゃなくて、でもやさしい人について考えたときに何人かの顔は頭に浮かんで来る。そんな頭に浮かんだやさしい人たちのやさしさを純粋な"やさしさ"としてそのまま素直に受け止めてくれる人って、一体どれだけいるのだろうか。そのやさしさにつけこむと言ってはなんだか違うかもしれないが、あまりにも無防備なそのやさしさが利用されることもあるんじゃないかと心配になってしまうときもある。それでもそんな彼らの無垢なやさしさ、やさしい姿はやはり尊いものであり、愛おしくて抱きしめたくなる。

 

小説を読んでいるうちに自分の順番がきて、先生に診察してもらった。自分の家に体温計がないため体温を測定できていないが、おそらく熱はないだろうと先生に伝えた。すると、念のため測っておきましょうということになり、いざ測ってみるとゴリゴリに熱があった。道理で外に出てもそんなに暑さを感じなかったわけだ。あとで夕方の天気予報を見て知ったが、この日は普通に気温が30度を超えており真夏日であったようだ。そして、熱があると自覚すると急にしんどくなってきた。知らないほうが幸せってこともある。処方箋をもらい、薬局で薬をもらってとりあえず帰宅した。

 

家に着くやいなや、すぐに布団に倒れこんだ。手持ち無沙汰になりスマホをいじるが気分が悪くなってくる。風邪をひいたときや二日酔いのときにスマホをいじると気持ちが悪くなる。熱があると知って急にしんどくなり、スマホを手放して目を閉じ眠りについた。目が覚めたころには夕方になっており、眠る前よりも身体が熱く、本格的に熱が出ているようであった。晩ごはんに冷凍うどんを作り食べた。風邪をひいたときって、なんだか感覚が冴えているような気がする。元気な時よりもうどんの味がはっきりと分かる。いつも冷凍うどんを美味しいなあと思いながら食べていたが、今日は味の細かいところまで分かってなんだか不味い。それでも、少しでも栄養をということで残さずに食べたが、果たしてうどんにどれだけの栄養があるのだろうか。うどんを食べ終わって、また寝ようかと思ったが、今度は咳が止まらない。咳が止まらないから眠れない。最悪だ。とりあえず部屋の電気を消して横になる。すると、普段は意識しない周りの音が急に気になってきて余計に眠れなくなった。冷蔵庫ってこんなにモーター音がしてたっけ。家の前を原付が通っただけでうるさいなあって思う。しまいにゃあ、なにか分からない「ボコッ」という音。眠れなさが焦りを生んで、より眠れなくなる。それでもこまめに時計を見ると、意外と時間が進んでいない。夜って結構長いんやなあということに今さら気づいた。そして気が付けば眠りに落ちており、朝、目が覚めたときには身体はずいぶん楽になっていた。

 

風邪をひいてしんどいといえばしんどかったが、なんだかゆっくりできたような気もする。ひいて良かったとまでは思わないが、ひいても悪くはなかったような気がする。そんな気がするということで終わりです。風邪をひくたびにバンプの「supernova」を思い出し、名曲だと思うことも書いておきます。

 

感動するというよりは気づくという感じ(オカヤイヅミ「ものするひと」)

オカヤイヅミの「ものするひと」という漫画を買った。

 

ものするひと 1 (ビームコミックス)

ものするひと 1 (ビームコミックス)

 

 

30歳の小説家の日常を描いたこの作品。本屋で見つけてなんとなく気になって一巻だけを買った。帯の紹介文に自分の好きな小説家である柴崎友香が感想を書いていたことにも影響されて。主人公が街の景色や人々の行動を見て様々な物思いに耽るのだが、その思考を漫画を読みながら一緒にたどるのが何とも心地よくて楽しい。なんか読んでたら落ち着くんよなあ。気づけばこの作品が好きになっていて、続きを買おうと思い調べたところ、なんと全3巻で既に完結していた。『え~、あと2巻だけなんや。』と思いつつも、次の日にはすぐに買いそろえて全部読んでしまいました。最後まで面白かった。わたしなんかはすぐに影響を受けまして、この漫画を読んだ次の日には、通勤途中の河川敷の景色を自転車を漕ぎながら、やたらと観察してしまった。河川敷に沿って電柱が並んでいることに気づいて、まあ正確には河川敷沿いを降りた道路に沿ってなんだけれども、そんな電柱の並びにも、はじまりの一本と終わりの一本があることを知った。そういえば、電柱の電線が途切れてるとこなんて初めて見たな。途切れてるかどうかなんて今まで意識したことがなかった。かといって全ての電柱が何かしらでつながっていて、「全ての道はローマに通ず」といった具合になっていると思っていたわけではないけれど。と思うと、電線が川を渡ってつながっている電柱同士もあって、なんだかそれは大げさに思えてしまった。『ここをわざわざ繋がなあかんかったん?大変やったやろ?』なんて余計な心配までしてしまった。そして、この電線の存在に気づいてから、この下を通るときは少し窮屈な感じがするようになってしまい、何にでも気を配って観察するのも考え物だなと思った。とはいえ、こんな気分は漫画を読んだ後の数日間しか続かないのであろう。数日後には普通になにも考えずに通勤するようになっている現実。それでも数日間でもこのような期間があったということを忘れないために日記を書こう。

 

帯に紹介文を書いていたこと、そしてこの漫画のように日常を淡々と描写している様子が似ているということで柴崎友香の小説を読みたくなり、「次の町まで、きみはどんな歌をうたうの?」を読み返した。

 

次の町まで、きみはどんな歌をうたうの? (河出文庫)

次の町まで、きみはどんな歌をうたうの? (河出文庫)

 

 

東京を目指して走る車の中の男3人、女1人の会話を中心として書かれたこの小説。この関西弁をそのまま放り込んでる感じが良い。柴崎友香の作品は何が良いって聞かれると答えるのが難しい。多分自分の友達にオススメすると、「これといったストーリーがないしオチもないから、なんか物足りんかったわ。」と言われる気がする。ストーリーにオチって・・・、ねえ?まあ言いたいことが分からんでもないけど。でも何も起きないのが良いところやねんけどなあ。なんにでもストーリーとオチがあるわけじゃないし。ていうか自分の人生にストーリーもオチもあるんだろうか。「第一部 完」っていう感じすら一回もなかったぐらいにヌルヌルっと自分の人生は続いている。『ああ、ここがおれの人生の転換期やな。』なんて思える瞬間がこの先待っているんだろうか。多分ないでしょうよ。あったとしても、その瞬間を大分通り過ぎてから思うようになるんやろな、なんとなく。こんなことを考えていたら、歌人の山田航が書いたブログの記事を思い出した。

 

bokutachi.hatenadiary.jp

 

むしろ自分の周りでは泣きたいから映画を見たり、漫画を読んだりする、山田航の言う"詐欺"に自らハマりに行っている人は結構いる。それが自覚的に"詐欺"に合っているのか、無意識のうちに"詐欺"られることに夢中になっているのかどうかは分からないが。まあ私は詐欺とまでは思わないけれど、ある作品のストーリーに人工的な香りを感じて少し冷めてしまう瞬間はあるので、山田航の意見にある程度賛同できる。そして柴崎友香の小説は、そういった感動させる、人の心を動かすポイントを狙って演出しているといった感じは、比較的薄い気がする。ていうか薄いでしょうよ。あくまで人の様子を自然に誇張せずにそのまま描いている。感動する場面を作者が「ここですよ」と提示しているというよりは、読者が勝手に気づいた部分が人それぞれの感動する部分であるといったような。思えば生きていて日常生活で感動するのは、誰かに心を動かされるというよりも、こっちが勝手に感じて感動するといったことが多い気がする。受動的ではなくて、能動的というか。そりゃあドキュメンタリー番組とかを見せられたら感動してしまうけれど、そういったことではなくて。ストーリーによって導かれて気持ちをお膳立てされた感動ではなくて、その日の気分がたまたまその日のある場面と一致して、もしかしたら1日前に同じような場面に出くわしていたら何も感じなかった可能性もあるかもしれなくて、そういったものが日常における感動と思わずにはいられない。まあ、映画とかもその日の気分によって感動するしないはあるけれど、もっと瞬間瞬間の話というか。なんとなく真面目なコンビニのレジの店員に感動してしまうみたいな。結局、言いたいことが整理できなくて訳が分からなくなってしまった。

ハトとスズメはハトのほうが少し賢い気がする

最近川の土手を自転車で走っていたら、生い茂っている草と舗道の境目、草際とでも言おうか、そこにミミズの死骸がめちゃくちゃ落ちているのを目にする。

 

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怖い。何が起きているんだ、ミミズたちに。と思っていたら、その草と舗道の境目にスズメが数羽いるではないか。なるほど、おそらくミミズの死体はスズメが食べ残した残骸であろう。にしてもミミズが結構丸ごと残っている。スズメは小食なんだろうか。確かに身体は小さいけれど。どうせそんなに食べないのなら、ことあるごとにミミズを掘り返さなくてもいいのにと思ってしまう。スズメたちの世界に、エサのミミズの鮮度などの問題があるのだろうか、などという少しグロテスクな想像をしてしまう。

 

このスズメたち、私が自転車で脇を通り過ぎようとすると、別にぶつかりそうにもないのに飛んで逃げようとする。飛んで逃げようとするのはいいのだが、飛ぶ方向が問題なのである。私がいる方向に飛んでくるのである。だからもう、そこにおってくれたらいいのに飛んだほうがぶつかりそうになるという、よく分からないことになっている。「何かが近づいている」⇒「危ない」⇒「逃げる」までのシステムは組み込まれているが、逃げる方向まではちゃんと考えられないのだろうか。そしてなんだか、歌人の穂村弘が、車が来ているにもかかわらずいきなり道路に飛び出す、その死を恐れない猫の行動に憧れるといっていたことを思い出した。その点、ハトはまだ少し賢い、というか厚かましい。ハトはよく舗道の真ん中で堂々とエサを食べている。私がぶつかりそうだなあと思いながら自転車で脇を通ろうとしても、ハトたちはギリギリまで飛んでいかない。けれども、こちらがどこから近づいてきているかはしっかり認識しており、私から遠ざかる方向に少しずつ歩いていく。ハトとスズメだったらハトのほうが賢いんだろうな。

 

生き物の賢さ自体(賢さと書いたら曖昧な表現にはなるが)は、脳の大きさに左右されると思われがちだが、その脳が備わっている容れ物、つまりは身体の構造が重要であるとは池谷裕二さんの本で読んだ。

 

進化しすぎた脳―中高生と語る「大脳生理学」の最前線 (ブルーバックス)

進化しすぎた脳―中高生と語る「大脳生理学」の最前線 (ブルーバックス)

 

 

脳は身体の構造によって使う領域が変化し、イルカの脳は大きいけれど身体の構造自体は人間ほど複雑ではないから 、脳のポテンシャルをすべて活かしきれてないんだったっけ。もしイルカに手足や指が生えていたら、もっと賢くなっていたかもしれないといったことが書かれていた気がする。また読み直そう。

 

最近はすっかり暑くなって、先週の土日は半袖でも十分なぐらいであった。ゴールデンウィークが終わってしまって、仕事が始まるのが嫌だなあと思いながらも、いざ始まると割とすんなりいけてしまう。いつでも嫌なのは久しぶりに仕事が始まるその最初の日だけだ。とはいえ、モチベーションは確実に低いままであり、五月病とまでは言わないがやる気は出ませぬ。正直、ゴールデンウィークが始まる前からその感じはあったけれども。終わってしまったゴールデンウィークは、もはやフィクションだったように思える今日この頃。

 

 

キリンジの「五月病」、めちゃくちゃ好きだ。タイトルとは裏腹に爽やかな曲調。歌詞の意味は全く分からない。なにが五月病なんだ・・・。そしてこっちのファミコンアレンジも可愛くて好きです。

 


キリンジをファミコンアレンジ 「五月病」

 

音程が外れている気がするのはわざとなんでしょうか。

 

「五月病」が収録されているキリンジのファーストアルバム、「ペイパー・ドライヴァーズ・ミュージック」もめちゃくちゃいい。個人的に捨て曲なしの名盤。

 

ペイパー・ドライヴァーズ・ミュージック

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  • アーティスト: キリンジ,堀込泰行,堀込高樹
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今思えば「捨て曲」っていう表現、えげつないな。キリンジを聴きながらのらりくらりと五月病をやり過ごそう。

 

雨の横浜中華街はまさに北京ダックの世界観(神奈川旅行 1日目)

ゴールデンウィークの中盤に神奈川県へと2泊3日の旅行に行ってきました。

 

まず旅行前日。天気予報を調べてみると、前半の2日間は雨の予報。もうこの時点で少しテンションが下がってしまう。10連休のよりによって旅行に行く2日間がピンポイントで雨。何してくれてんねんお天道様。とはいっても天に唾を吐いたところで自分に返ってくるだけであるので、気持ちを切り替えて明日からの旅行に備える。旅行に出発する直前になると急に家にいたくなる気持ち、なんなんだろう。ちょっと前まであんなに楽しみであったのに、すごく家にいたい。

 

そして旅行1日目。目が覚めると雨は降っていなかった。どうやら関西の天気は曇りのようだ。早速スマホで神奈川県の天気予報を調べると午後から雨とのこと。どうあがいても雨は降ってしまうようだ。とりあえず新幹線に乗って新横浜へ。途中の駅から友達が乗車し、一緒にしゃべりながら目的地へと向かう。「新幹線よりも飛行機のほうが旅感がでるよな。」とか「荷物そんなにないのになんとなくキャリーバッグで来てもうたわ。おかげで中身スッカスカやのにかさばるわ。」とか、そんな話をしながら2時間ほどで新横浜へと到着した。

 

電車を乗り換えて赤レンガ倉庫へと向かう。ゴールデンウィークの期間中、赤レンガ倉庫にて開催されているドイツの春祭り「フリューリングスフェスト」に行く。

 

www.yokohama-akarenga.jp

 

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色んな出店が出ていて、そこでビールやらソーセージやらを買って食事を外で楽しむといったもの。天気は曇りだがまだ雨は降っていない。外に設営されているテーブルに座って、みんなで乾杯する。特別ビールが好きというわけではなく、昼間からビールを飲んでダラダラするということへの憧れが我々をフリューリングスフェストへと誘ったのだ。そして、個人的には最近読んでいたチャールズブコウスキーの小説「勝手に生きろ!」の影響も多大にある。

 

勝手に生きろ! (河出文庫)

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  • 作者: チャールズブコウスキー,Charles Bukowski,都甲幸治
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
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ああクズ人間になってしまいたいなんて、本当のクズ人間がどんなものかも知らずに思ってしまう。

 

それでも1時間ぐらい会話を楽しんでいると雨が降ってきてしまい、すぐさま赤レンガ倉庫内へと避難した。ゴールデンウィークということもあって、人がごった返していて自分もそんな大群の構成要員の一部であるにもかかわらず、棚に上げて「なんでこんなに人多いねん。家でじっとしとけよ。」だなんて思ってしまう。この日の天気は降ったり止んだりといった不安定なものであった。雨が止んだスキを狙って赤レンガ倉庫周辺を歩いて観光した。

 

赤レンガ倉庫の観光が終わると、横浜中華街へと場所を移動。

 

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細野晴臣がライブをした同發新館の外観をパシャリ。

 

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そういえばカネコアヤノもここでライブをしていたな。細野さんがライブをしたということで、ある種アーティストにとっては憧れの場所となっているのだろうか。アーティストでもなんでもないパンピーのわたしは写真を撮っただけでかなり興奮してしまったけれども。そして、今さらどうせなら晩御飯の予約を同發新館にしておけば良かったと後悔する。そうすれば中の様子も見れたのに。

 

予約している晩御飯までまだ時間があったので中華街をブラブラと歩いていると武器屋なるお店を見つけた。なんか急にRPGの世界っぽいなとワクワクしてきて、青龍刀や三節棍など中国っぽい武器が売っているんだろうかと気になり入ってみると、中国っぽい武器以外にも普通に銃とかも売られていた。幅広くやってますわ。らんまが履いているようなカンフーシューズなるものが1000円で売られており『おおっ』と少し心を揺さぶられてしまったが、勢いで買ってしまうほど若くもないので踏み止まることができた。小学生のころに宮島で木刀を買った子がいたことを思い出し、その子がその頃にここに修学旅行で来ていたとしたら、どの武器を選んでいたんだろうなんて考えてしまった。どの武器を選ぶにせよ、何かしらの武器を買うのは確実でしょうよ。

 

特に装備を整えることもなく武器屋を出ると、パラパラと雨が降っていた。雨の横浜中華街。これはまさしく細野さんの「北京ダック」の

 

横浜 光る街

雨が降る

まるで古い映画さ

"Singin' in the Rain"

雨男 唄う

 

といった歌詞のとおりではないかとひとり興奮する。

 

 

さらにはPANDA 1/2の「中華街ウキウキ通り」も思い出して、友達と一緒にいるけれど急激に音楽が聴きたくなってきた。

 


PANDA 1/2  / 「中華街ウキウキ通り」

 

ただ、『北京ダックの歌詞と一緒や!』と興奮したとはいえやっぱり雨はめんどくさい。ただでさえゴールデンウィークで人が多いのに、みんなが傘を差すと余計に窮屈になってしまう。晴れが一番だなあ。

 

18時になり、予約していた中華料理屋へ晩御飯を食べに行く。3000円で時間無制限食べ放題。北京ダックに小籠包、回鍋肉に青椒肉絲とモリモリ食べる。青島ビールも飲んでしまった。友達と円卓を囲みながら食べる中華は、とても美味しく幸せな気分になった。色んな料理をみんなで分けあえるところが中華のいいところであるなあとつくづく思う。

 

ご飯も食べ終わり外に出ると、空の色は真っ暗で夜になっていた。ベタではあるが、夜の中華街は雰囲気がいい。

 

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お腹もいっぱいになり、上機嫌で中華街を歩く。中華街を離れたあとは宿泊するホテルへと向かった。チェックインを済ませて部屋でゆっくりする。友達がお風呂に入っている隙に細野さんの「トロピカル・ダンディー」を聴く。

 

トロピカルダンディー(紙ジャケット仕様)

トロピカルダンディー(紙ジャケット仕様)

 

 

「HONEY MOON」を聴いているとなんとも言えない幸福感で満たされてしまった。

 

 

みんながお風呂に入ったあとはコンビニで買ってきたお酒を飲みながら談笑を楽しむ。『ああ、こういう時間が自分にとってはやっぱり必要だなあ』としみじみと思いました。まだ1日目が終わったばかりだけれども、あっという間であった。楽しい時間は一瞬で過ぎてしまうから、なんとかしてそんな時間にしがみつこうとして、なかなか寝ずに喋り続ける。こんな時間が一生続けばいいだなんて本当に思いますけれども、そうもいかないのが世知辛いところ。残り2日間も楽しみではあるが来てしまうと終わってしまうという複雑な思いを抱きながら眠りにつきました。

清見オレンジと芥川龍之介の「蜜柑」

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冬は寒くていやだ、早く春になってほしいと散々このブログに書いておきながら、いざ冬が終わってしまうと思うとなんだか名残惜しい。なんて勝手なことをいっているんだと自分でも思うが、いやな思い出もいつかは笑い話になるがごとく、寒い冬の辛さはあまり印象に残らず、鍋を食べたり、こたつでダラダラしたり、年末に実家に帰って色んな人に会ったりしたことばかりが思い出される。最近は冬が終わると思うと、なんだか後ろ髪を引かれるような気分になって、マッキーの「北風 ~君にとどきますように~」をしがみつくように聴きまくっている。

 


槇原敬之 - 北風 ~君にとどきますように~

 

今年は雪が降った日は3日ぐらいしかなかった気がする。なんだかんだいって暖冬であったなあ。さらには冷凍庫にある水餃子を消費するべく、毎週金曜日にキムチ鍋を食べ続けている。キムチ鍋は最高だ。〆はキム兄がいっていた出前一丁がめちゃくちゃ美味しい。ごまラー油の香りの良さよ。

 

そして、冬の鉄板、こたつにみかん。この組み合わせ、輸出しましょう。毎年、こたつは春になってもずるずると出したままになってしまう。三寒四温とはよくいったもので春は思い出したように寒い日が来ることがある。だから、こたつを片付けるタイミングがなかなか掴めない。

 

最近、スーパーに買い物に行ったときに見つけた清見オレンジが美味しそうで、衝動的に買ってしまった。ただこの清見オレンジ、皮が分厚くて剥きにくいこと、剥きにくいこと。調べると包丁で切って食べる方法がオススメと出てくるが、わざわざ切るのも面倒であるし、切った包丁を洗うのもめんどくさい。というか、こたつでダラダラしていて『なんか口がさびしいな』と思ったときに、ちょっと手を伸ばしてすぐに食べられるのがみかんの良さなのだ。だからもう皮は分厚いけれども意地になって手で剥いて食べている。2分ぐらいかけて剥いているから、食べるのが億劫になる。包丁を使ったほうが確実に早いが、なんだかそうする気が起きない。包丁使えばいいのに、自分。でもいいねん、ほっといてくれ、自分よ。そして、苦労して剥いた末に食べる清見オレンジの美味しさよ。この美味しさを味わうためにあえて手で剥いているというのは、どう考えても過言である。包丁使おう。

 

それにしてもこの清見オレンジ、果たしてみかんなのかオレンジなのか。中の果実の味や見た目はみかんに近い気がするが、皮の剥きづらさはオレンジっぽい。調べると、温州みかんとオレンジを交配させたハイブリッドタイプの果物のようだ。

 

 

www.maruka-ishikawa.co.jp

 

どうでもいいが温州を"うんしゅう"と読めるようになったのはいつからだろうか。清見オレンジの"清見"は、誕生地である静岡県の清見潟にちなんで付けられたらしい。みかんの要素は名前から完全に消え去っている。みかん Don't Cry。

 


安室奈美恵 / 「Baby Don't Cry」Music Video

 

ホンマに名曲。

 

そしてみかんといえば、芥川龍之介の「蜜柑」。

 

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わたしはこの話が大人になってから好きになった。確か小学生か中学生のころに、国語の授業で一度読んだのだが、そのときは全くいいと思わなかった。だが、大人になってから読むと、話の中で小娘が投げた蜜柑の「心を躍らすばかり暖な日の色」というものをありありと思い浮かべることができるようになった。この芥川龍之介の「蜜柑」は、短い文字数で、ものすごく綺麗にまとめられていて無駄がない。汽車の中での主人公の数々の描写。

 

私の頭の中には云いようのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のようなどんよりした影を落していた。私は外套のポッケットへじっと両手をつっこんだまま、そこにはいっている夕刊を出して見ようと云う元気さえ起らなかった。

 

私はこの小娘の下品な顔だちを好まなかった。それから彼女の服装が不潔なのもやはり不快だった。最後にその二等と三等との区別さえも弁えない愚鈍な心が腹立たしかった。だから巻煙草に火をつけた私は、一つにはこの小娘の存在を忘れたいと云う心もちもあって、今度はポッケットの夕刊を漫然と膝の上へひろげて見た。

 

この隧道(トンネル)の中の汽車と、この田舎者の小娘と、そうして又この平凡な記事に埋っている夕刊と、――これが象徴でなくて何であろう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であろう。私は一切がくだらなくなって、読みかけた夕刊を抛り出すと、又窓枠に頭を靠せながら、死んだように眼をつぶって、うつらうつらし始めた。

 

これらの描写はいずれも、疲れて電車に乗った際に誰もが一度は抱いたことのある感情ではないだろうか。持ってきた小説を読む気も起きないほど疲れている日もある。そして、二つ目に引用したようなことを芥川龍之介はしっかりと書いてくれるから、わたしは彼の小説が好きなのかもしれない。実際、わたしも電車に乗っていて自分の隣の席に見た目の悪い人が座ってくると少し不快に感じることがある。人を見かけで判断してはならない、それはもちろん絶対にそうである。ただ、この小説でも描写されているように、疲れているときは、小さなことが全て鬱陶しく思えるときがある。疲れているときの自分の心の狭さ、汚さ。そして、疲れていないときのこんなことを思わない自分が本当の自分というわけではなくて、疲れたときに汚い考え方をしてしまうといった表裏を一体に含んだものが人間であると、芥川龍之介の小説を読むたびに意識させられるのだ。

 

「蜜柑」で書かれている汽車の中での憂鬱で退屈な時間。そんな時間はわたしが生きている現実世界にも存在していて、その時間の中でもときおり目にする、この小娘や弟たちのような純粋で他人を思いやる人々。それを目にしたとき、わたしの心にはその姿が小娘が投げた蜜柑のように印象的に刻まれる。

 

ただやはり、この「蜜柑」の素晴らしさが分かるようになるといったことは、同時に人生の憂鬱で退屈な時間も味わうようになったということだろう。当時、小学生もしくは中学生だったわたしが、この「蜜柑」の素晴らしさを理解できなかったのも無理はないように思える。理解できるようになったことが良いことなのか、悪いことなのかは分からないが。

思考する時間においてのみ人生は自分に近づいてくる(保坂和志「人生を感じる時間」)

小説家の保坂和志が人生について考えたこの本。

 

文庫 人生を感じる時間 (草思社文庫)

文庫 人生を感じる時間 (草思社文庫)

 

 

保坂さんの考えを書いた本には共感することが多い。そして、保坂さんの本を読むと、自分が抱いているうまく言葉に表せないモヤモヤをはっきりと認識できるようになる。

 

大人とは

保坂さんの大人に関する考え方には、ひどく共感できる。

 

(中略)大人には二つのタイプがあって、ひとつは進んで大人になった大人で、もうひとつは子どもじゃなくなったために大人としか名乗れなくなった大人ーーーで、私は間違いなく後者だ。  p76

 

これは大人にとっての遊びについて考えた際に書かれた文章である。なにかモノを買ったり、お金を賭けたり、お酒を飲んだりといった行為が、果たして本当に遊びといえるのだろうかと保坂さんは言う。引用した文章に書かれているように、仮に自ら進んで大人になった大人というものが、買ったり、賭けたり、飲んだりといった行為を積極的に行うことによってなれるものであるならば、あまりそれらの行為をしない私は、間違いなく保坂さんと同じ後者のタイプの大人に該当することになるだろう。私はモノを買うことでそれほど満たされはしないし、賭け事もしない。お酒など飲まなくても、仲のいい友人との食事は十分に楽しい。ただ、就職して会社の人に誘われるのは実際、麻雀や競馬、飲み会ばかりだ。確かにそれらが楽しくないわけではない。しかし、少年時代に行っていた遊びと比較すると、なにかが決定的に不足している。大学生のころ、友達に麻雀を教えてもらっていて、ふと外に出ると、ものすごく天気が良かったことを思い出す。そのときに抱いた「こんなに晴れてるのに、なんで外で遊ばないんだろう」という違和感。そのあと、麻雀をするためにみんなのもとに戻ったが、全然楽しめなくなってしまっていた。それに比べて、講義と講義の間でしたキャッチボールの楽しさは自然であった。確かに大人にとっての遊ぶとは、楽しいから遊ぶといったものではなく、楽しくないことがあるから遊ぶというような、消極的な動機に思えることがしばしばある。それは子どものころの遊びと比較すると、自然な行為ではなく、無理してるよなあと思ってしまうものである。大人になってから抱く、遊びの時間を浪費している感覚。この感覚こそ、大人になり消費というシステムを叩き込まれた証拠なのかもしれない。

 

そもそも大人ってなんなんだとは常々思う。みんな大人になりたいのだろうか。いや、そもそもこの疑問は「大人」というものがどういったものであるのか、はっきりしていない時点で正しくないのかもしれない。大学生のころ、親から「まだまだ考え方が子どもやな」と言われたときに「そもそも大人とは?あなたのような人のことを大人というのか?」と腑に落ちなかったことを思い出す。そして、あなたたちは今の私と同じように、「大人とはなんだろう?」と考えたことがあるのかと思った。ポール・ヴァレリーは「テスト氏」という作品で、青年期の特徴を

 

わたしは正確さを追い求めるという急性の病にかかっていた。

 

と表現した。人生において抱くモヤモヤに対して、ポール・ヴァレリーのいう青年期の特徴のように、それが何なのかを考えることなく、なんとなく受け入れて生きていくことが、大人になるということなのだろうか。やっぱり私にはそうは思えなくて、保坂さんが

 

 子どもというのは大人が思うよりずっと、いろいろなことがわかっているもので、「大人に訊けばわかる疑問」と「大人に訊いてもわからない疑問」の区別がけっこうちゃんとついていて、自分がわだかまりと感じていることが「大人に訊いてもわからない疑問」の方だと思ったら、大人に訊かず、自分の心にしまい込む。そしてやっぱり実際に自分が大人になってもわからなくて、わだかまりはわだかまりのままになっている・・・・・・ p90 

 

と表現したように、子どものころに抱いていたわだかまりを残したまま生きているのが大人だと私は思うのだ。そして、

 

 古い映画の話で恐縮だが、『ゴーストバスターズ』で、ビル・マーレー演じるマッド・サイエンティストが仲間から機械の使用に際しての注意を受けたときに、

「きちんと説明してくれないか。私はいい事と悪い事の区別がつかないんだ。」

 と言うところがあるが、この台詞を聞いて私は嬉しくなった。「そうなんだよ!こういうことが自然に言い合える環境の中で生きたかったんだよ、俺は!」という気持ちだった。 p92 

 

というエピソードに共感を覚えて仕方がない。ビル・マーレー演じたマッド・サイエンティストが言ったようなことを日常生活で言うと「はあ?」と思われてしまうだろう。しかし、芸術作品の中ではそのようなことが言える。そして、そのようなことを言ってくれる作品に出会えた時に、私は救われた気持ちになるのだ。さらには日常生活でそんな台詞を言ってくれる人を目の前にしたら、感動して友達になってほしいとさえ思うだろう。

 

言葉とは

それでは大人というものを理解するためには、どうすればいいのだろう。そもそも「大人」と「子ども」は対となる言葉なのだろうか。言葉には、表記上では対の意味を成す組み合わせが存在するが、それぞれの言葉の意味、中身は他のどの言葉とも簡単に対を成す関係にはならない。このことはこの本にも「おいしい」と「まずい」という言葉を例として書かれている。「おいしい」と「まずい」といった言葉は、この二つの組み合わせが便宜上、対になっているように思われる。しかし、それぞれ「おいしい」と「まずい」という言葉の意味、中身は独立して厳然と成り立っている。「おいしい」という言葉を使うときに自分が感じている感覚と、「まずい」という言葉を使うときに自分が感じている感覚は、単純にそれぞれの言葉の反対を意味する感覚ではないということだ。「おいしくない」のが「まずい」のではなく、「まずくない」のが「おいしい」のではない。それぞれの言葉の意味はもっと複雑な感覚を意味している。

 

これを受けて「死」という言葉について考えてみる。我々は「死」という言葉を使うが、その言葉の中身を決して知ることはできない。それでもやはり、「死」というものが「死」という言葉として存在しているから、なんとなく分かったように「死」という言葉を使う。この本では、この「死」という言葉以外の様々な言葉についても、同様のことが書かれている。そして、このような決して中身を知り得ない言葉を、知っているかのように使うことに、保坂さんは警鐘を鳴らす。

 

 <死>とか<永遠>とか、あるいは<無限>とか<無>とか、それらの言葉を知っているかのように使ってしまったら、私が最初に書いた意味での「思考」を放棄したことになる。 p134

 

保坂さんがここで言う思考とは、世界がどういったものであり、世界と自分はどういった関係であるのかを考えることを指す。<死>や<永遠>といった言葉の中身は本来、絶対に知りえないものである。そして、私はこれらの言葉と並んで、先ほどの「大人」と「子ども」に関しても同様のことがいえるのではないかと考えている。それだけではなく、保坂さんは、そもそも私たちのこの身体それ自体が「理解できないもの」、「知りえないもの」ではないだろうかという。我々の身体は、言葉の記号性におさまるようなものではない、言葉だけで説明できるものではないと。そんな「理解できないもの」、「知りえないもの」とは分かっておきながらも、思考を続けることが大事だと保坂さんは言う。私はこの思考するということを次のように考えた。確かに、言葉で「死」というものを表すことはできない。この「死」という言葉だけで「死」が一体どういったものかを理解することはできない。しかし、理解しえないとは言え、「死」に関して考えを巡らせるときに、「死」というものがグッと自分の方に近寄ってくるような気はしないだろうか。漠然としてはいるが、単に「死」という言葉を見たときとは異なり、「死」について思考している間、「死」というものが身近に感じられないだろうか。このような感覚をひたすらに手繰り寄せ続けることを、思考を続けるというのではないかと私は感じた。

 

思考する

そして、思考するという行為は単に言葉のみによって行われるものではない。

 

 「こういうことは音楽でしか表現できない」と感じたときに、私たちはその音楽を通じて、世界についてのイマジネーションを得ているのだ。世界というのは言葉を超えたもので、音楽のイマジネーションや絵画のイマジネーションによって、それを予感することしかできない。 p214 

 

それぞれが自分の経験によって得た世界像や、世界と自分との関りを、音楽や絵の形にするという行為をもって思考することもあるのだ。そして、小説も単に言葉というものではないと保坂さんは言う。

 

ことあるごとに言っていることだが、小説もまた本質においては言葉を超えたものであって、小説に流れる時間のうねりのようなものによって読者は遠いところまで連れて行かれて、その時間の渦の中にいるときだけ世界についてのイマジネーションが与えられる。 p214 

 

保坂さんは別の著書においても、小説は小説を読んでいる間しか存在しないと言っている。これは小説を読んでいる間にのみ、小説に流れる時間のうねりのようなものによって思考が生み出され、世界に対する感覚を手繰り寄せることができるということではないだろうか。

 

 

思考を放棄してしまえば、世界は途端につまらないものになってしまうのではないか。思考し続ける、それが人生を感じられる唯一の方法であると、この本から学べた気がする。

科学的であることの重要性、そして科学的であるためには(森博嗣「科学的とはどういう意味か」)

森博嗣のこの本、読み返すたびに考え方がいい方向にリセットされる。

 

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)

 

 

タイトルは一見して難しそうではあるが、内容においてはそれほど難解な言葉が使われているわけではない。むしろかなり読みやすい文体で、「科学的である」とはどういうことかといったことが書かれている。

 

言葉がもつイメージ

我々は言葉によって様々なことを理解している。いや、正確には理解したつもりになっている。ここが言葉のやっかいな点なのである。著者は言葉をただ単に覚えるだけでは問題があると主張している。

 

言葉を覚えることで、無意識のうちに「立ち入らない」境界を作ってしまう。名称を知っていることと、それを理解していることとは同義ではない、という認識を常に持たなければならない。 p38 

 

言葉、ここでは単語と言ったほうが分かりやすいかもしれないが、それを知っているだけではそれ自体が何を意味しているのか、どういったものであるのかを理解していることにはつながらないと著者はいう。その具体例として、東日本大震災でも多くの人の命を奪った「津波」を挙げて説明している。

 

 (中略)専門家は津波現象を理解しているから名称がどうのこうのという問題は生じない。けれど、一般の人はその「波」という言葉だけで認識してしまう危険がある。

 (中略)普通の波は主に風によって起こる現象で、水面近くで水が上下に運動し、これが水平方向へ伝播する。ビッグウェーブに乗っているサーファの映像を見たことがあるだろう。(中略)しかし、津波というのは、そういう「波」ではない。

 地震によって沖合で海面が持ち上がる。(中略)数百メートル、数キロメートルという範囲で海面が持ち上がるので、その持ち上がった水量というのは、莫大な体積になる。そして、それだけの水が重力で下がる運動が伝播して岸へと押し寄せる。これが津波である。(中略)これは、波ではなく、どちらかというと、「高潮」に近い。津波という名称ではなく、「超高潮」と名付けていたら、人々のイメージはまた違ったものになっただろう。 p40 

 

我々は「津波」という言葉を聞くと、著者が言っているように、サーファが乗る岸に打ちつけられるようなものをイメージしがちだ。しかし、実際に東日本大震災で起きた「津波」は、その映像を何度も見られた方もいるように、水面が徐々に上昇していき、静かにそして確実に街中を海水が満たしていくといったものであった。断続的に打ち寄せる波ではなく、不断に水が侵入してくるといったものである。

 


津波のメカニズム(内閣府・防災教育DVD「自分の命は自分で守る」より)

 

我々が「津波」という言葉を聞いてイメージしてしまうのは、上の映像における高波だ(2:45あたりから)。しかし実際の津波は先述したように高波とは全く異なっている。

 

このように、言葉だけでそれが何を意味するかを分かったつもりになるのは、非常に危険なのである。その言葉が意味する現象が、いったいどういった原理で起こっているのかを理解しなければ、その言葉を本当に知っているとは言えないのである。そして、こういった物事の道理を深くを理解することを面倒だと言って避けることは、いつか取り返しのつかない危険につながる可能性があるのだ。

 

科学とは

物事の道理を深く理解する、そのための方法が科学の考え方である。著者は科学とは次のような意味を表すと主張している。

 

科学とは「誰にでも再現ができるもの」である。また、この誰にでも再現できるというステップを踏むシステムこそが「科学的」という意味だ。 p75

 

科学では、ある現象が確認されたときに、それを確認できるのが自分だけではなく、同じ方法をとれば自分以外の人でも再現できることが重要なのである。それはつまり、科学とは自分だけが知り得る真理を明らかにするものではなく、あらゆる人々が「確かにそうだよね」と共通理解できる真理を明らかにする、提唱するといったものなのである。そのような真理は、あらゆる仮定を重ね試行を繰り返すことによって、ようやく確からしいのではないかと言えるようになる。そしてこのような、ある現象に関して再現できるかといったことを再現性という。この再現性が得られるようになることで、我々はある出来事が起きたときに、これは以前こういった現象の発生につながったという事実から未来を予測できるようになるのだ。

 

しかし科学というものは決して魔法のようなものではないのである。

 

科学者は、すべてが説明できることを願っているけれど、すべてがまだ説明できていないことを誰よりも知っている。どの範囲までがまあまあの精度で予測できるかを知っているだけだ。 p85

 

このことは非常に重要だ。科学に携わっていない人、いや今の時代生きていれば人間は必ずなにかしら科学と関わっているはずなのだけれど、いわゆる文系で研究などをあまりしたことのない人は、意外とこのことが分かっていない気がする。以前、テレビ番組の「ワイドナショー」において、気象予報士の石原良純が「2019年の天気はどうなるのでしょう」という質問をされ、「つまらない質問をするな」と怒っていた。実際、今の科学の力では3ヵ月先までの天気しか予測することはできず、それ以上先のことは分からない。これが現代の科学の限界なのである。この事実はどうあがいたところで変わりはしない。それにもかかわらず、番組のスタッフは、そこを何とかといった具合に、どうしても2019年全体の予測を聞こうとする。実際に予測することができない期間の"おそらく"の情報に、果たして一体何の意味があるのだろうか。そのスタッフは確かでもない"おそらく"情報を聞いて信じるのだろうか。さらには、石原良純に対して「良純さんはすぐに分からないという」とスタッフは言っていた。それに対して石原良純は「分からないのが普通だから」と答えていた。科学は気持ちでどうにかなるものではない。なぜそれが分からないのか。ましてや気持ち次第で結果が変わってしまうものなど、余計に信じることなどできないのではないだろうか。予測もできないことを憶測でしゃべるのはただの嘘つきと一緒ではないか。挙句の果てには「天気予報よりも、雲の形によってどんな天気になるといった先人の知恵の方がよっぽど信頼できる」などと言い出すでゲストまでいた。正直この発言にはびっくりした。そういった雲の形などをより詳細に分析して予報しているのが天気予報であるのに。なぜこのような考えに至ってしまうのか。科学を完全なものとでも勘違いしているのだろうか。何度も言うが、科学は決して魔法などではないのだ。100%未来が予測できるなどありえないのである。それでもかなりの確率で「こういった大気の状態のときはこのような天気になるであろう」といったことを予測出来ることが、どれだけ凄いことか。できることと、できないことを正確に理解したうえで、今の時点で言えることを嘘偽りなくはっきりと言うのが科学的な言葉なのだ。70%の確率のことはそれ以上でも以下でもない。しかし、そのような発言をしたゲストのような人たちは、科学は絶対であると思い込んでおり、予測が外れた場合、それは科学が「間違えた」と勘違いしているのである。正直わたしは、この番組を見て辟易してしまった。

 

 

科学的であるためには

最初に述べたように、我々は言葉というものをイメージで捉えてしまい、正確に理解できていない部分が多々ある。このようなことを防ぐためには科学的である必要がある。では科学的であるためにはどうすればいいのだろうか。

 

そのひとつとしてはまず、数値によって物事を把握するといったものがある。この世にはメートルやグラムといった様々な単位が定義されており、このような単位を基準として用いることで、異なった物質を比較することができる。この本ではコンクリートとアルミはどちらが重いだろうといったことを具体例として挙げている。このどちらが重いということを考える際には、比重というものがものさしとなる。比重とは体積当たりの重さのことである。簡単にいえば同じ体積の2つの物質の比重を比較したとき、比重の大きいものの方が重いということになる。ではコンクリートとアルミの比重はどちらが大きいのだろうか。コンクリートにも普通コンクリートや鉄筋コンクリート、軽量コンクリートといった種類があるのだが、ここでは普通コンクリートの場合を考えてみる。普通コンクリートの比重は、一般的に2.3とされており、アルミの比重は2.7である(ちなみにアルミにも純アルミや合金アルミなどの種類がある)。コンクリートはアルミよりも軽いのである。コンクリートの方がアルミよりも重いといった印象を抱いていた方もいるのではないだろうか。このように数値を用いることでイメージに左右されずに物事を正確に比較することができるのである。

 

そして、もうひとつの科学的であるためのものは、問い続けるといったことである。「鳥はどうして飛べるのか」⇒「羽があるから」、では果たして羽があるということが飛ぶための唯一の条件なのだろうか、また、羽のどのような効果によって空が飛べるようになるのかといったように、ある問いの答えに対してさらに問いを深めていくといったことが大切なのである。このような姿勢をとることは本当に骨の折れることだと思う。正直めんどくさいことでもある。しかし、このように問い続けることで物事の本質を理解できるようになるのだ。

 

我々は今の時代、科学の力なしではもはや生きていくことは難しい。しかし、そんな身の回りの科学のによって成り立っているものの仕組みを理解できているだろうか。与えられたものを疑うこともなく受け入れてしまっている現状はあると思う。私自身、この本を読んだ感想を偉そうに書いているが、全く科学的であるといったことを実践できていない。しかし、このままなんとなくで色んな物事をないがしろにして受け入れていると、いつか大きなしっぺ返しを食らうのではないか。いや、もはやそんな目に合っていると言える出来事がいくつか頭に浮かぶ。そして、このような出来事は決して科学の力が悪いのではなく、科学の力を正確に理解せずに、なんとなく受け入れてきたその姿勢によって起きた問題なのである。

 

カリスマ的な指導者の発言が国民を動かしたりするようなことは、科学にはない。また、科学は、一部の特権階級にだけ、その恩恵をもたらすものでもない。科学は、経済のように暴走しないし、利潤追求にも走らない。自然環境を破壊しているのは、科学ではなく、経済ではないか。 p91 

 

科学を取り扱う姿勢についてはこれまでも問われてきており、そしてこれからも常に問われ続けることになるのだろう。

短歌によって呼び起こされる様々な思い出や感情(錦見映理子「めくるめく短歌たち」)

歌人の錦見映理子によるエッセイ「めくるめく短歌たち」。

 

めくるめく短歌たち

めくるめく短歌たち

 

 

著者の思い出や考えたこと、感じたことなどが、たくさんの短歌を引用しながら書かれている。この本を読むことで著者のエッセイを楽しめるだけでなく、様々な短歌と出会うことができる。

 

人物を映し出す短歌

著者はこの本において、知り合いの歌人たちの性格や人となりを、本人たちが作った短歌から感じとっている。たとえば藤田千鶴の

 

ちょんちょんとタオルの隅でその頭拭いてやりたし雀の頭 p12

 

という短歌を受けて、雀の頭を拭いてやりたいなんて言う藤田のことをちょっと変わっていると評している。しかし藤田のもつ、雀は自分の頭を拭くことができないことに気づいてあげられる慈しみの心、世界を掬いとる目の細かさについてもこの短歌から同時に感じ取り、著者は嬉しくなってしまったと言っている。芸術とは本来、作品と作者は切り離して扱われるべきなのかもしれない。例えどんなダメ人間が生み出した作品であろうと、素晴らしいものは素晴らしいはずだ。その素晴らしさは作者の性格や略歴とは関係がないものとして評価されてしかるべきであろう。しかし、作者の人間性や人生観が、作品からにじみ出てしまうのも事実としてある。そして、短歌は特にそういう作品から立ち上ってくる作者のにおいというものが濃いものではないだろうか。短歌とは日常におけるささやかな瞬間を切り取って表現する一面がある。作者が、日常のどの部分にフォーカスを当てているのか、どの部分を大切に思っているのかが、短歌を味わうことで自然と読み取れてしまうのであろう。

 

短歌のもつ余白が呼び起こす個々人の記憶、感情

著者は歌集について以下のように書いている。

 

歌集を読むと(中略)自分がよく知っている風景がふいに立ち上がってきて驚くこともある。もちろん見たことがあるはずもなくて、その歌の力によって 、他者の書いた景色が自分の内面にある景色と重なっているかのように思えるのだろう。 p149

 

実際、著者は短歌を呼び水として過去にあった様々な出来事を思い出している。そしてわたし自身、短歌を読むことでその短歌の内容とは異なってはいるが、似たような感情を呼び起こされるという経験を何度もしている。著者は与謝野晶子の

 

何となく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな

 

という歌を読んで以下のように感じたと書いている。

 

 このとき晶子がどのような恋をしていたのかは全く知らなかったけれど、恋の始まりの陶酔がここに書かれていることはわかった。

 人生には、どうしても散文では書けないことが起こることがある。韻文でしか書けないことが、この世にはあるんだ。 p70

 

短歌は韻文であり、5・7・5・7・7と定型が決められている。そして、定型が決められており、全てを書ききれないからこそ生まれる余白が短歌には存在する。この余白を、自分の人生の思い出や経験などを当てはめて埋めようとするからこそ、赤の他人が作った短歌を読んでも、身に迫る感情が呼び起こされるのであろう。そしてこれはまた、それぞれの人生の数だけ、短歌の解釈や鑑賞の仕方があることも意味するのではないだろうか。だからこそ、この本の帯文にも書かれている著者の

 

 歌集って不思議なものだなあと改めて思う。全く縁のない見知らぬ人の、非常に個人的で心の深い場所にあることが書かれているほど、自分が誰にも見せず、自分自身にさえ蓋をしていた気持ちのすぐそばまできて、友だちになってくれたりする。 p150

 

という言葉にひどく共感し、感動した。

 

 

短歌を読むことで、社会における価値観が反転し、気づいていなかった世界に出会うことができることは以前に書いた。

 

www.gissha.com

 

しかしそれだけではなく、短歌を読むことで自分自身を見つめなおすことができ、短歌は自分に寄り添ってくれることを知ることができた。

中学時代の思い出は永遠に覚えている(ワクサカソウヘイ「中学生はコーヒー牛乳でテンション上がる」)

まだまだ大人じゃない、けれども少しずつ大人には近づいているという時期、中学生。そんな中学生たちの面白おかしい生態を、脚本家であり、コント作家でもあるワクサカソウヘイが書いたこの本。

 

中学生はコーヒー牛乳でテンション上がる

中学生はコーヒー牛乳でテンション上がる

 

 

絶妙な比喩表現、そして出てくる中学生たちのキュートさにやられてしまった。もう、とてつもなく面白かった。そして、もはや中学生だったころなどはるか昔のこととなってしまった大人の方は、この本を読むと少し胸が切なくなるだろう。嗚呼、素晴らしきかな中学時代。

 

個性豊かな中学生たち

この本にはコント作家である筆者のワクサカコウヘイが、ある中学校からコント創作のワークショップの依頼を受け、そこで仲良くなった中学生たちとのエピソードが綴られている。ここに出てくる中学生たちがとても面白いのだ。そして、筆者と特に仲の良い中学生たちに「Tシャツビリビリーズ」と命名されたグループの6人のメンバーがいる。活字中毒で文字ばっかり読んでいるシングウ、おバカな年子の姉妹ハルコとナミコ、虚弱体質でいつも具合が悪いモッチャン、肥満児のコウ、そしてあまりにも「普通」過ぎるヨッシーという面々。その中でもわたしはヨッシーが愛おしくて仕方がない。

 

僕の周りに唯一いる「普通の中学生」、それがヨッシーだ。(中略)ヨッシーの頭は3ヵ月に1回、近所の床屋さんに「短くしてください」とだけ伝えて切ってもらっている。普通だ。(中略)親に隠れてカップラーメンを食べる。ゲームは1日1時間と決めている。 (中略)小学校のときに集めていたBB弾がいまだに捨てられない。普通に優しい。親と並んで歩くのが、最近恥ずかしくなってきた。そして、恥ずかしくなると照れて笑ってしまう。 p34

 

Tシャツビリビリーズのメンバーの中で、唯一普通の中学生であるヨッシーの特徴が羅列されているのだが、もうこれを読んだだけで胸が切なくなる。ここに挙げられているヨッシーの特徴は、まさしく中学時代の自分の特徴でもあるのだ。わたしの中学時代はまさしく、このヨッシーのようなこの世にごまんといるであろう平々凡々の冴えない男子中学生であった。まだ、美容室に行くほどオシャレには目覚めていない。親にカップラーメンは体に悪いと言われ、普段は全然食べさせてもらえないけれど、親がいないときだけこっそり一平ちゃんを食べる(このときの一平ちゃんの美味しさたるや)。これまたゲームは1日1時間までしか親に許されていない(だから友達の家で遊ぶときは狂ったようにゲームばかりする)。小学生のときに持っていたビー玉やBB弾、ポケモンパンのシールなどは捨てられずにいつまでも持っている。休日に親と一緒に買い物をしている姿を友達に見られると少し恥ずかしい。そして、自意識が芽生え始め、色んなことが恥ずかしくなって照れ隠しをしてしまう。この本を読むことで、普段は忘れている中学時代の自分のことが思い出されてきて、なんともいえない気持ちになってくる。ヨッシーに中学生時代の自分を投影することで、よく考えたらあのころは何にも知らずに生きていた、何も気にせずに生きていたなあと思い出す。そして、そんな自分が純粋無垢な存在であったなと思えてくるのだ。

 

そして、中学生あるある。初めて友達といったカラオケは、互いにけん制しあって誰も歌いださなかったり、かといえば変に慣れてる雰囲気を出す者もいる。保健体育の授業で突然、男子と女子が別の教室に分かれて始まる性教育。そして、その内容のピンとこない感じ。他の家の人が作った食べ物がなんとなく気持ち悪くて食べられないなどなど。中学生の時ってそんなことがあったなと思い出す。そして、こういう出来事を経験してきたのは自分だけじゃないんだと、自分のことが分かってもらえた気がして少し嬉しくなる。

 

さらには、中学生たちのなんだかよく分からない生態。

 

モッチャン「俺、オナニーってお金出さないとできないものだと思っていたよ」

ヨッシー「モッチャンはみんなに優しいからなあ(意味不明)」

 

という支離滅裂なやりとり。なぜオナニーにお金を出すという発想が、みんなに優しいということにつながるのか。謎だ。ナニをするにもお金を払うといった、ちゃんとした手続きが必要であると考えているモッチャンの姿勢を、ヨッシーは優しいと捉えているのだろうか。筆者もカギ括弧をつけて意味不明と書いている。また、ハルコはハルコで、肝試しのことを英語でレバーテストと言ってみたりする。漫画「それでも町は廻っている」の歩鳥を思い出すほどの直訳っぷり。歩鳥は高校生だけれども。そして、女子中学生たちの「不良が好き」と「脚が速い人が好き」という価値観。でも、この単純さがいいよね。なににもまみれてないというか、打算的じゃないというか。なんとなく「年収〇〇円以上の人が好き」といったものよりも、自分のことを見て好きと言ってくれているような気がする。大人になったらこんな価値観で人を好きになるなんて無理なんだろうなあ。

 

www.city.nobeoka.miyazaki.jp

 

そして、若山牧水青春短歌大賞の入選作品などを見ていても、やっぱり中学生と高校生で大分違う気がする。

 

中学生には、程よく幼く、だけれども大人にはない視点の短歌が多い気がする。それに比べて高校生のものは、ある程度気持ちが分かるというか、分かりすぎてしまうというか。やっぱり高校生にもなると大人に片足を突っ込んでいるんだなと感じる。中学生のころなんて、芸術に頼らなくとも毎日楽しかった。そもそも芸術の素晴らしさなんて分からなかった。ある意味で芸術の素晴らしさが分かる、芸術に救われるということは、人生が息苦しくなってきているという証拠でもあるのだろうか。

 

文章の面白さ

この本は、登場する中学生が面白いのはもちろんのこと、流石はコント作家というだけあり、筆者の書く文章表現もとても面白く、読んでいて笑えるところがたくさんある。モッチャンが動物園で急激な便意に襲われ、医務室までたどりつけずにオオカミの檻の前で裸になった話なんて最高だ。

 

優しいシングウが、そっとティッシュペーパーをモッチャンに差し出していた。モッチャンは照れながらも「サンキュ・・・・・・」とつぶやいた。シングウは「気にすんなよ」と言った。オオカミがそれを見て「キュウン」と予想外の声を出した。たぶん、この動物園で一番の珍獣がモッチャンだと僕は思った。 p24

 

もうギャグマンガみたいな描写。この文章を読むと、オオカミが絞り出すようにして「キュウン」と鳴いているイメージがありありと頭の中に浮かんでくる。

 

さらには、筆者が中学生のころの合唱コンクールのエピソードも面白い。本番を1週間前に控えたころに、クラスの指揮者である志田さんが指揮が下手だという理由で嫌がらせを受けての話。

 

志田さんは学級会にて「わたしはこの暴力に屈しません。屈せず、そしてタクトだけを振り続けます」というガンジーを1億分の1ほどスケールを小さくさせた名言を皆に放った。 p138

 

この比喩が最高に面白い。そして、指揮棒をタクトと呼ぶところも、少し鬱陶しくて面白い。いや、でも志田さんもよく頑張ったと思う。あの合唱コンクールの異様な雰囲気。女子たちのものすごいやる気は今でも覚えている。わたしのクラスメイトの男子は、女子に「あんた音痴やから歌わんといて。口パクだけしといて。」と言われて、涙を流していた。あれは悔し涙だったのだろうか。いずれにしても、今思い出しても可哀想だ。非情すぎる。それほどに、わたしのクラスの女子たちは勝ちにこだわっていた。勝利至上主義。勝てば官軍、クラスメイトの男子の涙など知ったことか。ただ、確かにその男子生徒は音痴の割に声がよく出ていた。漫画であれば、音痴の代表的な表現である「ボエ〜」という効果音が描かれるくらいには音痴であった。自意識過剰な中学生のころに、音痴であるにもかかわらずなんの恥ずかしげもなく大きな声で歌っていたことから、本人も自分が音痴だという自覚はなかったのだろう。女子による非情な宣告を受けるまでは。そして、正直そのクラスメイトの近くで歌っていた男子たちは、彼の暴力的なまでに狂った音程と声量に引っ張られて変な感じにはなっていた。いつだって、誰かの犠牲の上に栄光があるということを中学生にして学んだ。まあ、7クラス中4位でしたけれど。

 

Tシャツビリビリーズとの別れ

筆者はTシャツビリビリーズのメンバーと様々な遊びに興じ、たくさんの思い出を作っていく。それと同時に、筆者自身の中学生時代のことも思い出していく。

 

帰り道、僕はお母さんと一言も口を聞けなかった。お母さんは最初、不思議な顔をしていたが、そのうち何かに気づき「あーあ、ついに始まったのか」と一言だけ言って、少し寂しそうに笑った。 p151 

 

筆者の「お母さんと一緒に歩きたくない病」発症の思い出。息子が自分から離れていきながらも、それは大人になるということと現実を受け止めた筆者のお母さんの様子に胸が打たれて仕方がない。「少し寂しそうに笑った。」という仕草に、母親の懐の大きさと愛情が表れている。この文章を読んで、単純だがとても親孝行がしたくなった。

 

そして、筆者が大人になった今、なぜ中学生たちと遊んでいるのかといったことについて書かれているのが次の文章である。

 

僕はいま、大人になってから中学生たちと遊んでいる。毎日のように遊んでいる。きっとあの何もなかった頃の自分を誤魔化したくて、中学時代をもう一度ぶり返そうと必死なのかもしれない。どうかと思う。 p156

 

もう戻ってくることはないはずの中学時代を、大人になっていまだに取り戻そうとしている。筆者はそれがおかしいことであるとは自覚しているのだが、それでも昔を引きずって中学生たちと遊び続けている。失われた中学時代を取り戻そうとして。わたしもいつまで経っても、ああ学生時代に戻れたらなあ思い続けている。明日、目が覚めたら中学もしくは高校時代の自分にタイムスリップしていないだろうかなどと考えながら眠りにつく夜もある。終わりがあるからこそ尊い時間であったということは分かるのだが、あのころがずっと永遠に続けば良かったのにと思ってしまう。

 

しかし、そんな中学生たちとの楽しい時間は永遠に続くわけではなく、Tシャツビリビリーズのメンバーはゆっくりと大人になっていき、次第に別れのときが近づいてくる。そんな中学生たちとの別れ、そして中学生たちの成長を筆者は素直に受け入れることが出来ない。

 

 しかしなぜだろう、こうしてどんどん大人へなっていく彼らを見ていると、巨大な無力感が僕を襲う。この子たちの成長を、なぜ僕は止めることができないのだろう。この子たちはなぜ、大人になってしまうのだろう。(中略)中学生たちは、こうして寝ている間にも、どんどんと大人になっていく。背が伸びていく「めりめりっ」という音が、僕には聴こえた気がした。 p192

 

普通の感覚として、子どもたちの成長は喜ばしいことである。けれども、筆者はこのことに関して悲観的である。そんな筆者の態度は、何かがゆがんでいるような気がする。しかし一方で、筆者が抱くそんな気持ちにも非常に共感できてしまうのだ。それは、中学生のころには持っていた何かを、大人になることによって失ったという感覚がどこかにあるからなのだろう。それは純粋さなのか、日々の楽しさなのか、言葉で単純に表すことは難しいのだけれども。やはり中学時代の日常と大人になった今の日常では、決定的に何かが異なっている。

 

 

中学生たちとの別れをうまく受け入れることができていない筆者ではあるが、最後には少し感動的なエピソードによって、別れを決意することができるようになる。気になる方はぜひ読んでみてほしい。出会った人々とは、いずれ必ず別れのときが来るだろう。しかし、離れ離れになったあとでも不意にその人との思い出を思い出す、そんな瞬間があるということが互いにとって素晴らしい出会いであったということなのでないのだろうか。という少しクサいことを考えさせられるぐらい素晴らしい本であった。