牛車で往く

日記や漫画・音楽などについて書いていきます 電車に乗ってるときなどの暇つぶしにでも読んでください

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開架式書架の前で深刻ぶる在りし日

金曜日。雨ということで電車にて通勤。ウォークマンでThe Bandのセルフタイトルアルバム「The Band」を聴いていると、めちゃくちゃ気持ちがしっとりしてきて家に帰りたくなった。

 

The Band

The Band

  • アーティスト:The Band
  • 発売日: 2001/08/27
  • メディア: CD
 

 

このアルバムは家でゆっくり聴くのが良くて、通勤中の電車で聴くと完全に労働意欲が削がれてやる気ゼロになってしまう。ただでさえ家を出た瞬間に『家に帰りてー』って思ってんのに。特に「Whispering Pines」を聴くともうダメです。

 

 

松の木って英語でPineって言うんですね。日本では松の木は神が宿る神木とされ、門松なんかにも使われているから、なんとなく和の植物っぽい印象をもっていたけれど、アメリカでも街路樹として普通に生えてんだね。さらにこの曲に加えてHomecomingsの「Videotapes」を聴いて、もうフニャフニャになる。

 


TOKYO ACOUSTIC SESSION : Homecomings - Videotapes

 

そんな感じで会社に到着したもんだから、完全にLowな状態で仕事に入ってそのまま低空飛行で業務終了。それにもかかわらず「一週間頑張ったぞ!」と謎の充足感を得ながら帰り道を歩く。いや、正確には「一週間耐えきったぞ!」やな。

 

最近はマガジンで連載しているサッカー漫画「ブルーロック」が面白い。

 

pocket.shonenmagazine.com

 

スマホアプリのマガポケで金も払わずに無料でチマチマと読んでいるんだけれど、集めようかしらと思うほど。マガジンのスポーツ漫画って、必殺技とかがじゃんじゃん出てくるジャンプのものと違って、割と真面目というか、どっちかと言えば現実寄りなものが多いイメージを個人的にもっていたのだけれど、ブルーロックはそんなマガジンのスポーツ漫画とジャンプのスポーツ漫画のちょうど中間といった感じで、非常にいい塩梅でございます。特に76話が面白すぎて、この話だけこれまた広告動画を視聴することで無料でゲットできるポイントをチマチマ集めて購入しました。凪誠士郎はもはや第二の主人公と言いたいほどカッコいい。「蹴撃・・・的な空砲!」からのーーーがカッコ良すぎてもうね・・・。何回も読み直してしまいます。

 

ほんでもってスピリッツで連載されている「チ。ー地球の運動についてー」も面白そう。

 

bigcomicbros.net

 

面白いとは言い切らず面白そうと言ったのは、まだ2話までしか読んでないからなんですけれど。今じゃあ地動説なんて意識することなくすんなりと受け入れられているけれど、昔は天動説が主流で、さらには地動説を唱えようもんなら迫害される恐れもあったなんて。とはいえいまだに似非科学なるものは世の中にはびこっているわけでして、さらには似非科学のみでなく、わたしたちは感情に従って生きているもんだから、トイレットペーパーがなくなると言われりゃ不安になって、ウソかホントかも確かめずに薬局に大行列を作るわけでございます。そんな時代だからこそ、この漫画が連載される意味みたいなものを考えてしまうんだけれど。それにしても、この「チ。ー地球の運動についてー」を読んだ後にPeeping Lifeを見ると、ギャップでより一層和む。

 


地動説という仮説 Peeping Life-World History #29

 

ブルーロックは無料でせこせこ読んでいるにも関わらず、永田紅の絶版になっている歌集「日輪」は思い切って購入。

 

日輪―永田紅歌集

日輪―永田紅歌集

 

 

開架式書架をへだててひらひらと行き来する君 深刻ぶるな

 

これはきっと、大学で思いを寄せる人が図書館で文献などを探している姿を見て詠まれた相聞歌。「君」が付いただけで「深刻ぶるな」といった台詞が一気に恋の眼差しを含んだもののように感じられてくる。恋とかどうとかは一旦置いておいて、わたしも卒論を書いているときには参考文献を探しによく図書館に行ったもんだけれど、実際には特に用もないのに息抜きに何となく訪れていたことのほうが多かった気がする。探している文献なんてないのに、なにかを探しているような顔をして本棚を眺める。深刻ぶるな。本当は知りたいことも、言いたいことも、特にないのかもしれないねって、そう思ってしまうときもある。

「ファンタジー」と「海に帰す」

布団の上で平民金子の「ごろごろ、神戸。」を読んでいると、ごろごろ神戸2の章に収録されている「ファンタジー」が素晴らしくてやられてしまった。

 

ごろごろ、神戸。

ごろごろ、神戸。

  • 作者:平民金子
  • 発売日: 2019/12/10
  • メディア: 単行本
 

 

特に冒頭の、子どもが地面のあたたかさを確かめる描写が良すぎて『良すぎるやろ…』とそのまんまのことを思いながら何度も読み返した。自分が子どものころ、お好み焼き屋で熱々に熱された鉄板を目の前にして、親に「触ったら火傷するで」と言われながらも本当に熱そうには思えなくて、実際に触ったところ大変熱くてワンワン泣いたことを思い出した。サボテンとかもトゲあるのに触ったりしたな。あのころは確かに、実際に触れることで世界の形を確かめていた。そしてふと「ごろごろ、神戸。」は書籍版よりも神戸市ホームページに掲載されているウェブ版のほうが写真がたくさん載っていることから、ウェブ版で読んでもこれまた良いのではないかと思いそっちも覗いてみると、実際に子どもが地面に手を当てている写真などが載ってあって、思った通りさらに良かった。

 

www.city.kobe.lg.jp

 

ぬいぐるみにも地面のあたたかさを教えてあげるような、そんな自分の感じたことをすぐ隣の人と分かち合う尊さみたいなものが今のおれには足りてないぜ、全く。もうこの「ファンタジー」が良すぎて、わたし以外にも良いと思っている人はいないもんかと気になり、Twitterで「ごろごろ神戸 ファンタジー」と感想を調べてみたところ、なんとタイムリーなことに、わたしが読んだ数分前に著者の平民金子さん自らがこんなことを呟いていた。

 


めっちゃ良くないですかって、めっちゃ良いですよホンマに。今回は写真あり版のほうにグッと来ましたけれども、その時々によってどっちが良いかは変わる気がする。いや、どっちもいいんよホンマに。

 

 

さらには神戸市広報課もこの「ファンタジー」について呟いていて、それを見てさらにやっぱりいいよねとなった。おっしゃる通り冒頭文が素晴らしいのよ。何度の音読にでも耐える名文ではないでしょうかって、何度の音読にでも耐える名文ですよホンマに。なんで自分がいいと思ったものを、他の人も同じようにいいと思っていることが分かると嬉しくなるんでしょうね。

 

そしてさらには、書籍版で読んだおかげかもしれないが、「ファンタジー」からその次の話である「海に帰す」への流れもこれまた良いんですよ。

 

www.city.kobe.lg.jp

 

知らない間に日々、子どもが成長していることを感じるこの二編。そして

 

私も同じ海を見ながら、小さな子供を通して新しく人生を生きなおしているような毎日だ、そんな風に思う。

 

と言いながらも、それは気のせいだとして

 

大人になって、海に対してセンチメンタルな心象を勝手に託す事をやめたように、子供の背中にも何も託してはいけない。ただ私はつかの間、よりそって生きることを学ばせてもらっているだけだろう。

 

と思い直す姿勢に、なんでかは言葉でうまく表現できないけれどえらく共感した。自分には自分の、子どもには子どもの人生があって、子どもは別に自分が感動するためのモノではないというか、なんとなく分かる、言いたいことが。だからこそ「つかの間」という言葉を使っていて、それが余計に切ないんだけれど。

 

この二編を読んだ後、本を閉じて仰向けになり、「ごろごろ、神戸。」のタイトルのごろごろはベビーカーを押す音を表しているのであろうが、わたしにとっては寝っ転がって横になる意味のごろごろだなと、めちゃくちゃ面白くないことを考えながら、部屋のLED照明をリモコンで消して瞼を閉じた。瞼を閉じた後も、ああ、いい話を読んだ、といった読後感がじんわりと体を満たしていた。

秋の夜の川で鳴いているのは多分鈴虫

最近はすっかり気温が落ち着いてきまして、半袖を着ていると日中はちょうどいいぐらいの涼しさで汗をかくことがなくなってきた。太陽も18時ぐらいには姿を隠し始める。今年の夏は梅雨がずっと長く続いて、それが明けて一気に暑くなったかと思うと急に涼しくなって、なんだかジェットコースターみたいに一瞬で終わってしまったような感覚。でもこれは夏だけのことではなくて、今年は全体的になんとも時間が経つのが早い。9月がもう終わろうとしているなんて信じられませんって感じ。これもコロナウイルスのせい。ホンマにそうやと思う。人間は楽しい思い出を作って、それを思い出してはひっかかることで時間の流れに少しだけ抵抗できるのかもしれないと、逆にコロナウイルスのおかげで気づけた。逆にね。

 

柴崎友香の「きょうのできごと」を読み返す。

 

きょうのできごと (河出文庫)

きょうのできごと (河出文庫)

  • 作者:柴崎友香
  • 発売日: 2004/03/05
  • メディア: 文庫
 

 

登場人物のひとりである、かわちくんが動物園のホッキョクグマに向かって、小学生のころに絵の具を投げつけて食べさせてしまったことを心の中で延々と謝罪するシーンを読んで、自分の小学生のころを思い出した。いまとなれば別に心配するほどでもない些細なことに対していちいち不安になっていたのは、自分の生きている世界がまだまだ狭かったから。わたしは小学校の情報の授業で自分の名前をネットで検索した時に、自分と同姓同名の指名手配犯がヒットしてめちゃくちゃ不安になった。名前が一緒なだけで自分のことなわけがないのに、『おれ、ヤバいんやろか・・・』と頭がズシンと重くなった。幼いころを思い出しては「あのころは大した悩みなんてなかったなあ」なんて言う人がいるけれど、いまは大した悩みに思えないことが当時はめちゃくちゃ大した悩みだったもんだから、あのころはあのころで大した悩みなんてめちゃくちゃあったんですよと言いたくなる。

 

 

柴田ヨクサルの「東島丹三郎は仮面ライダーになりたい」のこの話みたいに、漫画やアニメのキャラが死ぬだけでも、心がざわついては不安な気持ちになっていた当時。死ぬのとか、そんなんインパクトが強すぎる。死ぬと思って読んでないから。そう思うと、大人になってずいぶん図太くなったもんよと思わないこともない。いまはいまで別の悩みがあるけれど。そして、続編の「きょうのできごと、十年後」も買って読んだ。

 

きょうのできごと、十年後 (河出文庫)

きょうのできごと、十年後 (河出文庫)

  • 作者:柴崎友香
  • 発売日: 2018/08/04
  • メディア: 文庫
 

 

二作品とも夜の時間の描写が多くて、涼しくなってきたこともあって、読んでいるとやたらと夜の散歩に行きたくなった。っていうことで、近所の河川敷を散歩しに行った。

 

いまの季節に夜の川を歩いていると鈴虫の鳴いている声が聞こえてくる。平安時代には鈴虫を籠に入れてその鳴き声を楽しんでいたようだが、それも納得できるほど澄んだ音色。って書いたけれど、実際に鈴虫が鳴いている瞬間をこの目で見たことがないから、この河川敷の夜に隠れて鳴いているのは多分鈴虫って話。しばらく歩いて音楽でも聴こうかなんて考えたけれど、ときおりなんにも考えずに歩きたいときがあって、それが今だなと思って、音楽を流してしまうと意識がそっちに引っ張られてしまうから、そのまま何もせずに普通に歩くことにした。お風呂で頭を洗っていたり、ただただ歩いていたりするときの、その行動に没頭していて頭で何も考えずに済んでいる時間って、結構大切なんじゃないかと大学生ぐらいから感じ始めた。なんで大切かは言葉にできないけれど。

 

河川敷を離れて大きな道に出て家の方向へとUターンする。ミルクティーが飲みたくなってきて、途中のコンビニに寄ることにする。お茶と水を除く飲み物って、ストローで飲んだほうがなんだか美味しい気がする。だから、持ち運ぶにはペットボトルが便利だけれど、ストローで飲めるものを買うことにしようと店内の一番奥の棚へと向かった。ストローで飲むタイプのミルクティーには、紙パックのものと、フタがプラスチックになっている円筒状のもの(チルドカップと言うらしい)があるが、紙パックのほうは高校生のためのものであり、自分は高校生ではないから後者の方を買った。チルドカップは量も少ないし値段も別に安くはなくておそらく一番コスパが悪いのだけれど、先ほども書いたようにストローで飲めるし、なんだか美味しく感じられるからつい買ってしまう。そう言えば、自分はまだプラスチック削減のために最近出てきた紙で出来たストローを使って飲んだことがないなと思う。紙ストローで飲むとなんだか美味しくないなんて声を聞くが、それとは反対にニコルソン・ベイカーの「中二階」には、昔、紙ストローからプラスチックストローに変わった際の文句が、半端じゃない量の注釈として書かれている。

 

中二階 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)
 

 

ストローがコーラの缶から浮き上がるのを初めて目のあたりにしたときには、我が目を疑った。

 

と書かれているように、プラスチックストローが出てきたばかりのときは、ストローが飲み物から浮いてきて大変飲みにくかったようだ。それがいまじゃあ、ベイカーのころとは真逆のことを言っているんだから、人間ってしばらくしたらなんにでも慣れるんだろうよと思ってしまう。

 

コンビニを出てミルクティーを飲みながら、大きな道に沿って歩く。途中、大きな橋の上から夜の川を覗いてみると、真っ黒で流れがあるのかどうかも分からなかった。橋の上は風の通りが良くて、ここだけ一段と涼しい。夜の散歩の楽しさって、大学生になって友達の家とかに泊まるようになってから分かり始めたのだけれど、自分が中学生のころに同級生だった不良達は、この心地良さをあのころすでに知っていたんだと思うと急に羨ましく思えてきた。そう思えば、いま住んでいる町ではあんまり不良を見かけない。そして、とにかくいまは温泉に行きたい。そんなことを考えながら家に着いて、コンビニでミルクティーと一緒に買ったワンタンスープをレンジでチンして食べると、なんだかえらい落ち着いてしまった。なんだかんだで家が一番。

中学生でもあるまいし『この曲サビないやん』とかはもう思わない

家にいる時間が多くなると自然とネットサーフィンにかける時間も増えてしまい、その結果、ずっと欲しかった本などをポチポチと購入してしまいました。

 

いつものはなし

いつものはなし

 

 

「不思議というには地味な話」が新版として復活したため、こちらも絶版のところを復刊してくれないもんかと待っていましたが、ついに堪えきれずに買ってしまいました。近藤聡乃の描く線の柔らかさが好きすぎて、肘とか親指の付け根の膨らんでるところとかの描き方を眺めているとたまらない気持ちになってきます。この本に収録されている話には、昔のことを不意に思い出したけれど、その思い出したことは果たして本当に記憶通りだったっけ?といったものが多い。

 

思い出してはみたものの、本当のことかわかりません

楽しかったはずなのに、なんだかとてもあいまいです

いつもいつも私はこんなことばかりしている気がします

 

昔懐かしい夢を見たけれど、その日の午後にはそれがどんな内容だったのかを忘れてしまい、思い出そうとしても全く出てこない。そして、そんな忘れてしまった夢を思い出そうとしたことそれ自体も次の日には忘れてしまっている。でも、そんな風にして忘れてしまうのはなにも夢ばかりではなくて、現実の出来事だって同じなのかもしれない。この本にはそのようななんとも言えない独特の浮遊感がある。わたしゃあ最近、高校時代のことを思い出していると、そこに大学生になってからの友達がいたような気がしてくることがちょいちょい増えてきた。その度に、学校の友達全員が今までの仲の良い友達であるオールスター版の高校生活を過ごしてみたいと思ってしまう。手塚治虫ばりのスターシステム。絶対に楽しいはず...はず...はず...

 

新装版 茄子 上 (アフタヌーンKC)

新装版 茄子 上 (アフタヌーンKC)

  • 作者:黒田 硫黄
  • 発売日: 2009/01/23
  • メディア: コミック
 

 

新装版 茄子 下 (アフタヌーンKC)

新装版 茄子 下 (アフタヌーンKC)

  • 作者:黒田 硫黄
  • 発売日: 2009/02/23
  • メディア: コミック
 

 

黒田硫黄の「茄子」は宇多川八寸さんのnoteを見て知った。

 

note.com

 

こちらの漫画も絶版しており、コロナ禍以前にあちこち古本屋を巡って探したのだが、そもそも黒田硫黄の漫画が古本屋には全然置かれていなかった。あったとしてもアップルシードぐらいだった。ほんで京都国際マンガミュージアムの所蔵を調べてみたところ、どうやらここにはあるぞとなった矢先、コロナ禍で営業休止(今はやってます)。っていうことでネットで買ってしまいました。この漫画は何かストーリーがあるといったものではなく、生きている時間そのものを描いていて、読んでいると湿気みたいなものがすごく感じられる。そして、結構読むのに疲れました。でもこの疲れたっていうのは、一般的にマイナスの意味に捉えられるかもしれないけれど、決してそうではなくて、普通のストーリーのある漫画じゃあ省かれるような部分もいちいち描いてくれているからこそ抱いた印象なのだと思う。まあそれが逆に漫画にはストーリーがあるものだ、それが当たり前だと思っている人にとっては「それで何が言いたいん?」みたいに思えてきて、読んでいてストレスを感じる要因になりうるのだろうとも思います。音楽とかでも抑揚の少ない曲を聴いて『サビないやん』とか思う人にはこの漫画は向いてないと思います。でもわたしにとっては、この漫画の、夜の台所の前に立って歯磨きをしながら独り言を言う瞬間だとか、寝る前にホテルのベッドのサイドテーブルに眼鏡を置いて目を細める瞬間だとか、そういったいちいち描いてくれている瞬間が妙によくて、自分の生きている現実世界のある瞬間にまで繋がってくるような感覚を覚えるのです。『おれの人生にもそんな瞬間たまにあるわ』って、そう思えただけでなんであんなにも感動してしまうんでしょうね。っていうか茄子って美味しいよね。茄子自体にそんなに味はないけれど、煮びたしとかみたいにめちゃくちゃ調味料とかダシを吸うじゃないですか。そこがいいですよね。茄子の味噌炒め、簡単で美味しいので結構な頻度で作ってしまいます。

  

小説の自由 (中公文庫)

小説の自由 (中公文庫)

  • 作者:保坂和志
  • 発売日: 2012/12/19
  • メディア: Kindle版
 

 

「小説の自由」は、保坂和志が小説について考えたことを書いたシリーズのひとつ。続編の「小説の誕生」を先に読んで面白かったので買いました。面白いんだけれど、この本も読むのに体力を使うので、ちょっとずつ読んでいます。そうすると、反動としてサクッと読める本も欲しくなってきて、それには何かしら対談している本がいいなと思い、詩人の谷川俊太郎と歌人の岡野大嗣、木下龍也による連詩とその感想戦が収録された「今日は誰にも愛されたかった」を買った。

 

今日は誰にも愛されたかった(1200円+税、ナナロク社)

今日は誰にも愛されたかった(1200円+税、ナナロク社)

 

 

感想戦において谷川俊太郎が、対談の進行役を務めるナナロク社編集部の方からの、自身の作った詩に対するやや深読みをした質問に対して、否定するときはスパッと否定していたのが面白かった。ある作品に対して過剰に意味やメッセージを見出そうとするのはどうかと思うときもあるけれど、確かに自分の読み方はあっているんだろうかといったことは気になるもんなあ。そして谷川俊太郎の生み出した「詩骨(しぼね)」という言葉にグッとくる。なにかしらの出来事をなんでもストーリーに組み込んでドラマチックなオチを作り同情させるといった世間の流れに逆らって、どれだけ自分の見方、姿勢を保ち続けられるか。そんな分かりやすいように脚色されたドラマによって隠された、かき消された本当に大事な細部に気づくことができるのか。テーマは脱ストーリー、ドラマ化かもしれない。

 

ほんで夏ということで、ある日急にクレイジーケンバンドの「ガールフレンド」を思い出し、それ以来めちゃくちゃ聴いている。

 


クレイジーケンバンド / ガールフレンド

 

クレイジーケンバンドはね、歌詞のフレーズが魅力的なんです。ガールフレンドの「ってなわけでね」とか「中学生でもあっるっまいにっ!」とか。「中学生でもあっるっまいにっ!」のほうは、この曲を知ってる人相手には積極的に使っていきたいほど。

 

「中学生でもあっるっまいにっ!」、自分が中学生くらいのころに聴いていたアナログフィッシュとシャカラビッツのMVがYouTubeに上げられているのを発見して、テンションが上がった。

 


Analogfish - 夕暮れ

 


[SHAKALABBITS] "Ladybug" Full Ver. [Music Video]

 

シャカラビッツの「Ladybug」なんて、ガラケーの着うたにしておりましたから、大変懐かしい気持ちでございます。そういえばこの前、カウントダウンTVにロードオブメジャーのボーカルの人が出演していたらしいですね。こっちもめちゃくちゃ懐かしい。そんなにファンでもなかったけれど、中学ぐらいのときにベスト盤だけは聴いていました。

 

GOLDEN ROAD~BEST~

GOLDEN ROAD~BEST~

 

 

個人的に「スコール」が好きでした。

 

 

こういう風にして、懐かしい曲を一曲聴くと、連鎖反応的に当時よく聴いていた他の曲も聴きたくなってくる。シャカラビッツつながりで175Rの「空に唄えば」を思い出す。MDに入れてめちゃくちゃ聴いてたな。

 

 

曲の中で何度も訪れるサビの中でも、最後のサビだけハモるセンスよ。あそこにグッと来ていたもんよ。以前にも書いたことがあるけれど、小中学生のころのわたしは、曲のサビでは絶対にハモってほしい、ハモってくれななんか物足りんといった価値観をもっていた。

 

www.gissha.com

 

抑揚が少なくて分かりやすく盛り上がるところのない曲を聴いては『サビないやん』と思ってました。くるりの「赤い電車」とかを聴いて『サビないやん』って思っていました。それが今じゃあもう中学生でもないんで、ハモリモセズ、サビデトクニモリアガリモセズ、そういう曲の良さもわたしは分かるようになりました。曲のサビ以外の部分でも好きなところを見つけられるようになりました。少しは成長したというか、世界の捉え方の枠が広くなった気がします。

なかったかもしれない思い出とあったはずの出来事(滝口悠生「半ドンでパン」)

最近ではスーパーに買い物に行くと、新玉ねぎが売られている。新玉ねぎのなにが普通の玉ねぎと違うのかも分かっていないのに、名前に”新”が付いているだけで普通の玉ねぎよりも美味しそうに思えてくる自らの浅はかさ。シン・タマネギ(シン・ゴジラのシンの意味も知らなければ、見てすらないです。すみません)とは何ぞやと調べてみますと、普通の玉ねぎは収穫して乾燥させるところを、新玉ねぎは収穫して乾燥させずに即出荷させたものであるらしい。そのおかげで普通の玉ねぎと比較して水分を多く含んでおり、苦みが少なく生で食べるのにいいんだとか。そんなこととはつゆ知らず、ガシガシに炒め物として食すために新玉ねぎを買いまくっている。生で食べずに炒めて食べてもめちゃくちゃ美味しい。そんな新玉ねぎ炒めライフを送っていたある日、買ってきた新玉ねぎを川から流れてきた桃のごとくパカッと真っ二つに切ったところ、中から赤ん坊ではなく、なにやら茶色い層が姿を現した。7層ぐらいあるうちの3層目の一層が茶色くなっている。まるでもうすでに十分に炒めてあめ色になったかのような見た目。なんやこれと思いつつスマホで調べてみると、どうやらその一層は腐っているらしいことが分かった。突然現れた腐った一層に戸惑いながらも、取り除けばそれ以外の部分は食べられるということで、豚キムチにして食べたら美味しかったので安心した。でも次の日の勤務中にふと、美味しくても身体に悪いことはあるだろうし、美味しかったから安心したというのもなんだかおかしいなという考えが頭に浮かんだのだが、結局お腹が痛くなることはなく無事に日中を過ごすことができた。新玉ねぎは十分に乾燥させていない分、普通の玉ねぎよりも腐りやすいそうで、今後は良い玉ねぎの見分け方を学んで駆使していこうといった所存です。ちなみに良い玉ねぎの見分け方は下に書いた通り。

 

  • 平べったいものよりも丸いもの
  • 皮が乾燥している
  • 固い

 

先日は久しぶりに本屋に行って、「特別ではない一日」という本を買った。

 

 

様々な作家が書いた短文を集めた本なのだが、その中でも滝口悠生の「半ドンでパン」がめちゃくちゃ良かった。自分は午前中に授業があって午後からは休みとなる土曜日のことを半ドンとは呼んでいなかったが、まあそんなことはどうでもよくて、これを読むと小学生時代のこと、特にそのころの休日の空気感が思い出される。土曜日の朝、学校に行くために目を覚ますと、平日にはすでに会社に行っていて家にいないはずの父親が、大きな口を開けていびきをかきながら布団の上で寝ている。それを横目に起き上がり学校へ行く支度をする、そんな土曜日の始まり。土曜日を思い出す手がかりとしてパンを題材に設定したのが、この短文の素晴らしいところ。確かにパン屋にお昼ご飯を買いに行くのって、なぜか休日のワンシーンとして強烈に記憶に残っている。そして、この短文は、小学生時代の懐かしさを喚起する描写だけではなく、小学生時代のことを思い出しながら今現在の筆者が考えたことに関する描写もいい。

 

なんだか思い出せば出すほど、私は清白なずな先生を嫌いじゃなかったみたいな気持ちになってきて、それは過去の自分への裏切りみたいなことになるのだろうか。

 

筆者である滝口悠生が、中学生時代の好きじゃなかったはずの社会の先生について思い出していると、次第に当時とは違って嫌いではなかったような気持ちになってきたときの一文。わたしも大学生になったくらいから、こんな風に何かを懐かしんで振り返った際に、その当時に抱いていた感情とは違った感情を抱くことが次第に増えてきたことを覚えている。記憶を思い出すといった行為は、その当時の自分の価値観ではなく、今の自分の価値観で記憶を整理し直すということなのかもしれない。だから、整理し直したことで記憶の中の出来事がいい思い出に変わったり、許せるようになったりする。けれども、大人になって色んな経験をして過去の出来事を許せるようになる、それ自体は本当に無条件でいいことなんだろうか。幼いころの潔癖だった自分のことを考えると、許すことがまるで諦めたことのように思えてくるのと同時に、それが過去の自分に対する裏切りのようにも思えてくる。他人の許せなかった行為を理解できるようになるということは、今の自分がそれと同じ行為を取った場合に、自分で自分自身を許してしまうということだろう。過去の自分が許せなかった行為を今の自分がとってしまっている自己矛盾。そういう風にして生じた過去との軋轢を時折感じながら、大人になってきた気がする。

 

土曜日のたびに、私は私の土曜日を思い出すドン。 たとえばこうして書いたみたいな。あるいは今日は思い出さなかった土曜日もあって、それは今度の土曜日に思い出すかもしれないし、思い出さないかもしれない。それは土曜日にならないとわからないけれど、いろいろな土曜日がこれまであったし、今日も含めた土曜日がこれからも増えていく。

 

 

上に呟いたように、わたしには、思い出せない記憶に心が惹かれて、そこに何か今の自分にとって愛しい瞬間などが隠れていたりするんじゃないかと考えてしまうときがある。当時の自分にとっては何気ないことでも、今の自分にとっては宝物のように感じられる瞬間。例えば、中高のころの卒業式なんて、何気ない日常じゃなくてインパクトのある出来事のはずなのに全く思い出せない。でも、今の自分がタイムスリップしてもう一度体験したならば、絶対に忘れない瞬間の連続だったんじゃないかと思う。もっと言えば、卒業式の前日なる日も人生にはあったわけで、でも本当にそんな『明日で高校生活も終わりか・・・。』と思った日があったなんて思えないくらい、その日の記憶がない。そんな思い出せない記憶は、思い出そうとしても出てこないが、何かのキッカケで不意に思い出されることがある。今回の半ドンでパンを読んだときだってそうで、そう言えば自分が小学生のころは、同じマンションに友達が引っ越してきてほしいと思っていたことや、先生が宿題の添削に使うペン先の細いカートリッジ式のピンクの蛍光ペンに憧れていたことを思い出した。

 

 

他にも、小学生のころにポルノのベストアルバムが出て、自分は「ラビュー・ラビュー」という曲をよく聴いていたなってことを思い出して、改めて聴き直してみると当時の空気感を思い出したことも相まってやっぱりいいなとなったりもした。

 

 

これらのことは、「半ドンでパン」を読まなければ死ぬまで思い出さなかったことかもしれなくて、こんな思い出せない記憶が自分の中にまだまだあると思うと、もう是非ともジャンジャン出てきてくれと思う。それと同時に、こういう風にして、思い出というものは一瞬思い出しては再び忘れていくんだろうなとも思う。そもそも思い出した記憶が本当に正しいのかどうか、それすらもわたしには分からないのだけれど。それでも、こんなことを考えている今の自分だけは絶対に存在していて、そんな人生に絶対にあったはずなのに思い出せない瞬間が積み重なって今の自分ができていると思うと、なんだか奇妙な気持ちになってくる。

 

パン屋からの帰り道に、さっき座っていたべンチの近くで、すずめが地面のなにかをついばんでいた。私はふだんよりもすずめがやけに大きく、近くに見える気がして、止まってすずめをしばらく見ていた。すずめが大きいのではなく、私が小さいからそう見えたのだ、と立ち上がったときに顔や体に受けた風の強さでやっと気づいた。私は今日は、帰ってパンを食べて、それ以外に特になんの予定も用事もない。ドン。

 

小学生時代の記憶を辿ることに没頭して、自分の気持ちまでもが小学生のころに戻ってしまっていたことに気づくこの描写がめちゃくちゃにいい。

 

そういや子どものころは玉ねぎなんて嫌いだったはずなのに、いつの間に好きになっていたんだろう。子どものころは晩ご飯に玉ねぎの入っている料理が出てきたら、母親が憎く思えたほどであったのに。今は今で玉ねぎを食べて美味しいと感じているけれど、玉ねぎのことをヌルヌルしていて気持ち悪いし、辛いのか苦いのかも分からない味をしていて嫌いだった当時のわたしの気持ちも分かる。人間は変わっていくものかもしれないが、過去の自分の気持ちも出来るだけ忘れずにいることが、過去の自分のためになり、ひいてはいつか過去になってしまう今の自分のためにもなるような気がする。

在宅勤務のいいところはすぐにトイレに行けるところ

全国に緊急事態宣言が発令されてから、一週間のうちの何日かは在宅勤務をするようになった。在宅勤務のいいところは、なんと言ってもギリのギリまで寝ていられるところと、お腹が痛くなってもすぐにトイレに駆け込めるところだ。一度、在宅勤務中に腹痛に襲われ、すぐにトイレに行った際に抱いた謎の勝った感はすごかった。お腹が痛いのに『こんなん無敵やん』と思いながら気張りました。会社でもこうありたいので、本気でどこでもドアがほしくなりました。その他にも在宅勤務のいいところとして、ラジオや音楽を流しながら仕事ができるといったものがある。頭を使って考える必要のある作業中にはなにも流さないが、単に手を動かすだけの作業のときにはなにか聴きたくなる。確か、高校のころに使っていた英単語帳の速読英単語に、BGMは作業効率を向上させるみたいなことが書かれていた気もするし、ガンガン流していこうといった所存。

 

速読英単語1必修編[改訂第6版] (Z会文章の中で覚える大学受験英単語シリーズ)

速読英単語1必修編[改訂第6版] (Z会文章の中で覚える大学受験英単語シリーズ)

  • 作者:風早寛
  • 発売日: 2013/12/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

速読英単語には他にも、空気が綺麗な家庭環境で育つよりは、兄弟姉妹がいたり犬や猫を飼ったりしている空気の汚い家庭環境で育った方が、相対的に免疫力が強くなるみたいなことも書かれていた気がする。振り返ってみると、結構ためになる雑学的エピソードが多かった気がするが、あのころはそれに対する面白さなんて全く感じていなくて、英単語を覚えるのはただただ苦痛でしかなかった。まあそんなことは置いておいて、在宅勤務中によく聴いているアルバムはこの2つ。

 

MUSIC FROM BIG PINK

MUSIC FROM BIG PINK

  • アーティスト:The Band
  • 発売日: 2001/08/27
  • メディア: CD
 

 

 

わたしの音楽再生ソフトではアルバム名のアルファベット順的に、The Bandの「Music from Big Pink」の次にVulfpeckの「My First Car」が来るようになっている。特に選曲などせず適当に音楽をかけていたときに流れてきたこの2枚のアルバムのつながりが妙にしっくり来て、それ以来やたらとこの2枚を連続で聴くようになってしまった。さらには、Vulfpeckのアルバム「My First Car」の一曲目「Wait for the Moment」の中にあるベースソロ前の「Bassmen!」という掛け声を聴き、andymoriの「ベースマン」が聴きたくなったりした。

 


3rd LIVE DVD「FUN!FUN!FUN!」より『ベースマン』

 

いま思えば全く作業に集中できていない。音楽以外のラジオ、というかインターネットラジオではこれをよく聴いている。

 

hokuohkurashi.com

 

「チャポンと行こう!」通称"チャポ行こ!"は、北欧、暮らしの道具店というお店の店長さんである佐藤さんとスタッフの青木さんによるインターネットラジオなのだが、このお二方の声がなんだか心地いいのだ。佐藤さんと青木さんは女性だから、話すエピソードの中には男性のわたしにはあまり馴染みのないものがたまにあるのだが、それでもなんだか聴いてしまうのだ。笑い声とかもなんだかちょうどいいのだ。聴いていると落ち着くのだ。なんかガッシュみたいになってしまった。

 

まあ、そんな風にして在宅勤務をこなしている。そんな中、レインボーのこの動画を見てめちゃくちゃ笑ってしまった。

 


【リモートコント】リモート会議終わったと思ってはしゃいだ結果、クビになった男

 

もうこのね、なんでそんなにリモート会議終わってちゃんとカメラを切れへんねんって思うくらい、何度もカメラをつけっぱなしではしゃぐのが面白い。『これ・・・切れてるよな・・・?』みたいな顔が画面に映るのが最高。13:55くらいからの流れも最高。池田演じる部下の「切れて・・・ますねっ・・・」からのジャンボ扮する上司の「ヤバい、最終確認が終わった」、そっからの完全にカメラが切れたと勘違いした池田の舌を出した悪い顔がジャンボの画面に映し出されるといった流れ、何回見ても笑える。もうこの悪い顔大好き。このはしゃぐ気持ちも分かる。なんなんやろな、あの、部活の顧問とか職場の上司がどっかいった後すぐに変な顔をしたくなる感情。もうこのネタ最高。自分は在宅勤務中にリモート会議をすることはないから、このネタみたいになる危険性もないし安心して笑える。てか、ホンマになんでそんなにカメラ切れへんねん。

 

話は変わって、最近、前田司郎の「愛でもない青春でもない旅立たない」を読み返した。

 

愛でもない青春でもない旅立たない (講談社文庫)

愛でもない青春でもない旅立たない (講談社文庫)

  • 作者:前田 司郎
  • 発売日: 2009/10/15
  • メディア: 文庫
 

 

なんか変な話だった気がすると思いながら読み返したところ、やっぱり変な話であった。そして、主人公とその友人の山本が大学の部室棟の階段に座る場面を読んで、自分の高校時代の部活のことを思い出した。いや、正確には思い出そうとしたが思い出せなかった。

 

二人並んで座るとこの狭い階段は人が通れなくなる。それに気付いた山本は、僕の前の段にお尻をずらした。手すりから足を出して、僕らはグラウンドを見下ろす格好になる。グラウンドの向こうを小田急線が通る。

 

手すりの縦棒はちょうど僕の顔の幅くらいで、顔を突っ込んでみたい欲望に駆られるが、取れなくなっちゃったら大変なので、僕は両手を柵にそえその間に顔を置いた。山本は柵の一本に寄りかかっている。

 

自分が高校生のころ、部室棟はグラウンドの練習場所から遠かったため、より練習場所に近い校舎の端に備えられている非常階段の踊り場で部活の着替えをしていた。その非常階段のスペースはそれほど広くなかったため、最上級生にならなければ1階のスペースを使って着替えることはできず、1年生の間と3年生が抜けるまでの2年生の間は、わざわざ階段を上って2階以上のスペースで着替えなければならなかった。下級生でも最上級生に気に入られているごく少数の者だけは、1階のスペースで着替えることが許されていた。わたしは1階での着替えが許されるような後輩ではなかった。部活の着替えはこんな感じだったはずなのだが、2階以上のスペースで着替えていたころの記憶が全く思い出せない。最上級生になり、1階で着替えていたころのことはいくつか思い出せるのだが、2階以上のスペースで着替えていたころのことは全く記憶に残っていない。そして、この非常階段には小説の描写のように柵と手すりが付いていたはずなのだが、もちろんそれもどんなものだったのかは思い出せない。手すりの塗装は白色だった気がするが自信はない。塗装は所々剥げていて下から錆びた部分が見えていたかどうかも分からない。足が出せるくらい柵の間隔は開いていただろうか。顧問の先生の名前が、寺島ではなく寺嶋であったことは覚えている。そう思うと、自分の記憶を頼りにして風景を詳細に描写するのはめちゃくちゃ難しいことだと感じる。そんなことを考えていると、漫画「ものするひと」で小説を初めて書いてみた大学生のマルヒラくんが

 

突飛なことじゃなくてさ

普段 わざわざ人に言わないけど

なんか考えちゃうこととか 微妙な感覚とか妄想とか

そういうのを 丁寧に詳細に 書けるのって

やっぱりすごく・・・・・・すごいんだよ

 

と言っていたセリフをふと思い出した。

 

ものするひと 2 (ビームコミックス)

ものするひと 2 (ビームコミックス)

 

 

自分の見たもの、考えたもの、感じたものを文字として出力する際に、自分はそれらの純度をどれだけ落とさずに出力できているんだろうか。おそらくかなり低い気がする。目の前の風景を描写することすらひどく難しいことであるのに、ましてや記憶を頼りに書くなんて。それでも、自分の書いた日記を読み返したときに、『ああ、そうやった、そうやった』と思えることはある。ただ、それを読んだ自分以外の人が、自分と同じ感情や空気感を得られるのかは分からないが。自分自身が一度身をもって体験し分かっていることを、体験していない人たちに伝えるのって、別にこれは小説や日記のような書くものだけではなく、仕事や勉強、スポーツなどでも難しいことだよなと思う。そう考えると、日常的に行われる他人とのコミュニケーションという行為も結構難しいことのように思えてきて、教え方の上手な先生や上司のことはやっぱり尊敬すべき存在だなと感じる。とか思いながらも、日記かどは自分さえ分かりゃあいいみたいな部分も少なからずあって、他人への情報の伝達が目的の100%ではないところもある。とはいえ読んでもらえたら嬉しいんですけども。それに、なんでもかんでも伝わりやすいことが正義みたいな世界観が気に入らない日もあるし。さらには、見たもの、感じたものを丁寧に描くことと、伝わりやすいことがイコールとも思えない。自分の伝えたいことを正確に表現するためには、難解な言葉を使わなければならないことだってあるだろうよ。なんてことを考えていたら、ナンバーガールの向井秀徳が恥とは分かっときながらも自己を顕示して、自分が作った作品を他人と共有して脳内ビリビリしたいみたいなことを言っていて、それを読んでグッときたことを思い出した。あの文章、めちゃくちゃカッコよくて感動したな。向井秀徳が人の心を惹きつける片鱗を見た気がする。とは言いながらも、ナンバーガールは全然聴かんけどね。なんだか話があっちこっちに行ってしまったので、急に終わります。

呼び起こされる個人的ノスタルジア(楠見孝 編「なつかしさの心理学」)

大学生の後半あたりから、やたらと昔を懐しむことが多くなってきたのだが、そもそもなぜ懐かしい気持ちになるのだろうとずっと気になっていた。自分の思い出に由来する懐かしさもあれば、全く身に覚えがないはずのものから感じる懐かしさもある。これは一体どういうことなんだろうと考えていたところで、この本に出会った。

 

なつかしさの心理学: 思い出と感情 (心理学叢書)

なつかしさの心理学: 思い出と感情 (心理学叢書)

  • 発売日: 2014/05/25
  • メディア: 単行本
 

 

この本の帯文には以下のようなことが書かれている。

 

過去がいつの間にか美化されているのはなぜか

久しぶりに訪れた小学校が縮んで見える?

体験していない大正時代がなつかしいのはなぜか

なつかしさを感じる商品はよく売れる?

 

うーん気になる。ただ先に書いておくが、これらの疑問に対して期待していたほどのスッキリとした回答が書かれているわけではなかった。というのも、懐かしさという感情に関する研究は、注目され始めてはいるがまだそれほど進んでいるものではなく、まだまだ明らかでないことの方が多いようなのだ。とはいえ、これらの疑問の回答に繋がるような示唆は十分に含まれていた。

 

まず、懐かしさ(ノスタルジア)*1は大きく2つの種類に分けられる。

 

・個人的ノスタルジア

・歴史的ノスタルジア

 

これらのなつかしさは、タルヴィングの記憶のモデルを用いて説明される。タルヴィングの記憶のモデルとは、記憶は以下の3つに分けられるといったものだ。

 

①自分の人生で経験した個人的、自叙伝的物事に基づく「エピソード記憶」

 

②テレビや本などを通して学んだ知識に関する「意味記憶」

 

③知っているという感覚がない無意識レベルの記憶である「知覚表象システム」

 

この3種類のなかで、個人的ノスタルジアは①「エピソード記憶」に基づくもの、歴史的ノスタルジアは②「意味記憶」に基づくものと考えられている。簡単に書くと、個人的ノスタルジアは自分自身の思い出に由来する懐かしさ、歴史的ノスタルジアは学んだ知識に由来する懐かしさということになる。そして、

 

"個人的ノスタルジアにあって歴史的ノスタルジアにないもの"とは、過去から現在へとつながっている自己の存在および自己と他者の関係

 

とこの本には書かれている。このことから、個人的ノスタルジアは人とのつながりから喚起されることになる。なるほど、自分の人生を懐かしんで感じる個人的ノスタルジアは、家族や友人、クラスメイトたちなど、人との関りに関する思い出から来るものがほとんどだ。一方、神社仏閣、海や山、川から感じる懐かしさについて考えてみると、実はこれらに関する個人的な思い出がそれほどないことに気がつく。わたしにとってこれらから感じる懐かしさは、映像や書物で学んだ知識からくる歴史的ノスタルジアということになるのだろう。そして、この実体験を伴っていない歴史的ノスタルジアは、何度も味わうと食傷気味になってしまうこともあると本書には書かれている。

 

これらのことを踏まえて、以前に書いたこの記事を振り返ってみたい。

 

www.gissha.com

 
この記事では、わたしが個人的に「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」は好きなのに、それのリメイク作品である「サマーウォーズ」は全く好きじゃないのはなんでなのだろうといったことを書いた。ぼくらのウォーゲームとサマーウォーズの比較。デジモンアドベンチャーを見て感じるノスタルジアは完全に個人的ノスタルジアだ。なんでも自分が小学生のころに実際に見ていたという実体験が伴っているし、団地という舞台設定から、当時団地に住んでいた友達や団地鬼ごっこをしたことなどが思い出される。これはもう個人的ノスタルジアの詰め合わせである。一方で、サマーウォーズ。舞台は田舎。わたしはサマーウォーズに出てくるような田舎には行ったことがない。だから、わたしにとってこれは歴史的ノスタルジアなのである。つまりは、サマーウォーズがぼくらのウォーゲームのリメイク作とはいえ、リメイクによって変更された点によって、わたしにとっての個人的ノスタルジアの要素がゴッソリと欠けてしまったために、ぼくらのウォーゲームほど好きにはなれなかったのだろう。さらには、このように懐かしさの象徴として田舎を舞台にした作品は数が多いため、それに少し飽きてしまっている部分もある。

 

しかしわたしとは異なり、夏の海や田んぼなどの田舎の風景にえげつないほどの感傷を覚える人もいる。その中には、実際に田舎に関する思い出をもっていないにも関わらず、ノスタルジアを感じている人もいるのだろう。この人たちはおそらく、実際には田舎に行っていなくとも、幼少期や思春期などの多感な時期に田舎を舞台とした芸術作品に強い感銘を受け、大人になってから田舎が舞台である作品を見ると、意識的もしくは無意識的にその感銘を受けた芸術作品のことを思い出し、その作品に紐づいた多感な時期の思い出までが掘り起こされるために個人的ノスタルジアを感じるのではないだろうか。ジブリ作品から感じる懐かしさも同じもののように思える。自分が幼いころにジブリの作品をよく見ていて、大人になってから金曜ロードショーなどで放送されているものを見たときに、その幼少期の記憶が思い出されて個人的ノスタルジアを感じるのではないだろうか。わたしは子どものころはジブリが嫌いだったから、ジブリ作品から懐かしさを感じることはない。もののけ姫のアシタカの腕がグジャグジャっと呪われるところや、ナウシカの大きな虫の大群、さらにはホタルの墓の悲しいイメージなどからジブリがめちゃくちゃ苦手だった。だからわたしは、トトロを見ても全く懐かしい気持ちにはならない。かまいたちの山内もきっと同じ。わたしの場合は、同じアニメでも「幽☆遊☆白書」や「らんま1/2」の方が小学生のころの夏休みに朝のアニメ劇場で見ていたから懐かしく感じる。とはいえ、作風的にそれほど感傷には浸れないが。それでもジブリの音楽に携わっている久石譲の楽曲からは懐かしさを感じる。これは一体なぜだろうと「久石譲 懐かしさ 理由」で検索したところ、1発目にこのサイトがヒットした。

 

anotherdaycomes.com

 

なるほど、久石譲の「Summer」のイントロには学校のチャイムと同じ音階が使われており、このイントロを聴くことで潜在的に学校のチャイムを思い出し個人的ノスタルジアを感じていたのか。

 


Joe Hisaishi - Summer

 

他にも、となりのトトロの挿入曲である「風の通り道」には、演歌や歌謡曲でよく使われる二六抜き音階が使用されており、これが懐かしさを感じる要因と考えられている。

 

night-cap.net

 

久石譲の楽曲には色々と仕掛けが隠されているようであり、ジブリからは懐かしさを感じない自分が久石譲の楽曲からは懐かしさを感じる理由が少し分かった気がする。

 
そして、音楽から来るノスタルジアといえばvaporwave。実際にわたしは70、80年代のシティポップを聴いていたわけではない。めちゃくちゃ幼かったしね。それでもvaporwaveの中にはノスタルジアを感じる作品がいくつかある。

 


ΛDRIΛNWΛVE - it's good to see you again!!

 


ナニダトnanidato - doki doki no disco ドキドキのディスコ 『FUTUREFUNK』 X 甘い日本のディスコ'89

 

それはまたまたなぜだろうと考えてみたところ、ひとつだけそれっぽいことに気がついた。それは、わたしの好きなvaporwaveの作品のGIF画像には、後藤真砂子が作画監督を務めたことのあるアニメが多いということだ。

 

w.atwiki.jp

 

「きまぐれオレンジ☆ロード」に「魔法の天使クリィミーマミ」。そのどちらのアニメも幼い頃に見た記憶は全くないのだが、同じように後藤真砂子が作画監督を務めていたアニメ「らんま1/2」は、小学生のころに朝のアニメ劇場で再放送されていたものを死ぬほど何度も見ていた。「きまぐれオレンジ☆ロード」や「魔法の天使クリィミーマミ」の絵柄から「らんま1/2」が喚起され、そこから幼少期の懐かしさが思い出されたのかもしれない。これは個人的ノスタルジア。さらにはノスタルジアを感じるには、現在とのある程度の連続性が必要とも本書には書かれている。ちょうどvaporwaveが流行したころはシティポップのリバイバル期。vaporwaveでサンプリングされている楽曲たちの影響を受けたアーティストたちの音楽が流行していたことも、ノスタルジアを感じた要因の一つかもしれない。ややこじつけ感あるけど。

 

そして、多くの人が青春時代を思い出すバンドといえばNUMBER GIRL。このNUMBER GIRLは2002年に一度解散した後、最近再結成がなされた。正直、NUMBER GIRLの再結成に際しては、わたしは何の感慨ももたなかった。というのも、わたしは青春時代にNUMBER GIRLに夢中になっていなかったからだ。先日、コロナの影響を受けてYouTubeで生配信していた無観客ライブもカッコ良かったけれど、ノスタルジアを感じることはなかった。NUMBER GIRLに感傷を覚える人たちは、自らの思春期において、彼らによる衝撃を受けた人たちなのだろう。さらには、実際にNUMBER GIRLの歌詞のような青春を過ごした人はそれほどいないだろうが、彼らの歌詞の青春っぽさは歴史的ノスタルジアとして十分に作用し得るものであり、それが個人的ノスタルジアと相まってえげつないほどの感傷を引き起こすのだろうよ。とはいえ、ノスタルジアは感じなかったとは書いたが「YOUNG GIRL SEVENTEEN SEXUALLY」の入りはめちゃくちゃカッコ良かった。「わっかるかなあ。わかんねえだろうな。」という向井秀徳の謎のセリフから、ギターがジャーンジャーンジャッジャッジャッジャッ。なんやこれ、かっこよすぎ。わたしがNUMBER GIRLに夢中にならなかったのは、入り口のアルバムが間違っていたからかもしれない。中学生のころ、とりあえず手に取ったNUMBER GIRLのアルバムは「SAPPUKEI」であり、齢14のわたしには、いささかこのアルバムは尖り過ぎていた。

 

SAPPUKEI 15th Anniversary Edition

SAPPUKEI 15th Anniversary Edition

 

 

NUMBER GIRLのフォロワーであるBase Ball Bearの「HIGH COLOR TIMES」にはちゃっかりハマっていたから、NUMBER GIRLも「SCHOOL GIRL BYE BYE」から入っていたらハマっていたかもしれない。

 

HIGH COLOR TIMES

HIGH COLOR TIMES

  • アーティスト:Base Ball Bear
  • 発売日: 2005/03/16
  • メディア: CD
 
SCHOOL GIRL BYE BYE

SCHOOL GIRL BYE BYE

 

 

とはいえ人生は一期一会。良さがさっぱり分からなくて挫折したこと、それだけがおれのNUMBER GIRLに対する個人的ノスタルジア。

 

話が個人的なものに逸れてしまったが、この本にはその他にも、ノスタルジアは退屈な気分のときに感じやすい、ノスタルジアを感じるとポジティブな気分になる、ノスタルジアを感じている間は痛みに耐えやすいなどといったことが書かれている。こんなことを知ると、昔のことを思い出して懐かしもうとする行為は、まるで自己防衛本能のように思えてきた。いまが退屈でネガティブな感情になっていて辛いから、ノスタルジアを感じてポジティブな気分になろうとし、やたらと昔を振り返るのだろうか。そんなことはないと信じたいけれど、深層心理の自分よ、そこんとこはどうなんだい?

 

*1:この本では「懐かしさ」と「ノスタルジア」は同じ意味で使われているが、厳密には意味が異なるとも考えられている。例えば「ノスタルジア」は「懐かしさ」とは異なり、“感傷を伴う懐かしさ”とより一歩踏み込んだ意味であると提唱する論文もある(長峯聖人・ 外山美樹 (2018). 本邦におけるノスタルジアの機能的特徴 ―感傷を伴う懐かしさという観点から ― 筑波大学心理学研究, 56, 21-26.)
また、ノスタルジアと同じ意味でよく使われるノスタルジーはフランス語である(ちなみにノスタルジアは英語)。

おれの人生の延長線上にいる富樫勇樹を見に行くのだ(アナログフィッシュ「Iwashi」)

先日、大阪エヴェッサvs千葉ジェッツのバスケの試合を観に行った。千葉ジェッツには彼がいる。そう元NBA契約選手、富樫勇樹が。富樫勇樹を見てみたい、友人と話しているときにそんな話題になり、じゃあ大阪エヴェッサとの試合があるときに見に行こうとなったのだ。

 

試合は15:00から。『富樫のプレーが見れるのか・・・。』とワクワクしながら、会場のおおきにアリーナ舞洲へと向かう。行きの電車の中で村上龍の「空港にて」を読む。

 

空港にて (文春文庫)

空港にて (文春文庫)

  • 作者:村上 龍
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2005/05/10
  • メディア: 文庫
 

 

一人称視点であるはずなのに、まるで三人称視点のように感じられる感情を排除した冷めた文体。日常生活において、我々の身にまとわりつく何とも言えない息苦しさ。人生に生きづらさを感じる、そんなときにわたしは、自分の頭の中だけで色んなことをグルグルグルグル考えてしまっている。『あのとき、あの人との会話でこういう風に答えていれば、いまとは違う関係になっていたのか?』『この人は果たして、わたしと同じように人生に悩んだり迷ったり嫌になったりすることがあるのだろうか?』などと考えてしまう。この本は、人生で息苦しさを覚えるワンシーンの風景や、その瞬間の主人公の心理を徹底的に書きこんでいるため、主人公が頭の中でグルグル考えてしまっていることを恐ろしいほどリアルに追体験できる。そして、そんな閉塞感の漂う日常生活から抜け出すためには、他人の価値観に左右されない、自分だけの希望を何とかして見つけなければならないと書かれている。この本を読んでいる間、やたらとアナログフィッシュの「Living in the City」が頭の中に流れた。

 

 

 

本が読み終わり、耳にイヤホンを付けて、ゆnovationの「wannasing」を聴く。

 

 

画面越し眺める君らの暮らしは窓辺に飾る花のように、そっと心ゆたかに

 

わたしに生きづらさを与えるのは周りの人間であるのと同時に、わたしに生きる希望を与えてくれるのもまた、周囲の友人たちであるのだ。友人たちの明るくひたむきに生きている日常を垣間見ることで励まされる瞬間は確かにある。村上龍とゆnovationの2人は、表現の仕方こそ真逆ではあるが、希望を抱いて行動し続けることが重要であるという共通のメッセージをわたしに伝えてくれる。それにしても「wannasing」の歌詞の乗せ方、たまりません。このアルバム「朗らかに」はめちゃくちゃ良いアルバムだ。

 

 

おおきにアリーナ舞洲にて友人と合流し、会場へと入る。バスケの試合観戦は今回で2回目。富樫勇樹がいるからなのか、千葉ジェッツが人気球団だからなのか分からないが、以前観に来たときよりも客席がパンパンに埋まっている。

 

www.gissha.com

 

コート上にいる富樫を見つける。

 

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ヤクルトの青木や山田哲人を球場で見たときと同じように『うわ~、ほんまにおるんや。』という感情になる。自分の人生と彼らの人生がリンクしているとは全く思えない不思議さ。まあ向こうはこっちのことなんか認識していなくて、一方的なリンクの仕方ではあるが。わたしにとって富樫、青木、山田哲人は向う三軒両隣にちらちらするただの人ではないのだ。当たり前だけれど。そうこうしているうちに試合が始まった。ぶっちゃけこの日の試合で「富樫すげえー!」とはならなかった。大阪エヴェッサが強かったのか、富樫の調子が悪かったのか、富樫のみならず千葉ジェッツ全体の調子が悪かったのか、このうちのどれなのかは分からないが、大阪エヴェッサが終始試合を有利に進めていた。終わってみれば84-69で大阪エヴェッサの勝利。この日が終わった時点で、大阪エヴェッサのWestern Conferenceにおける順位は1位(2019/12/22時点でも1位)。強いやんエヴァッサ。

 

そして明日12/23からは高校バスケの全国大会、ウィンターカップが開幕する。

 

wintercup2019.japanbasketball.jp

 

こっちも面白いから楽しみ。

 

 

ウィンターカップを見ていると、自分にも部活をしていたときがあったんだなあと思う。そんなに上手くはなかったけれど、少しずつできることは増えていっていた気がする。たまに日々を過ごしていて、『おれはこのまま勉強もせずになんとなく生きていたら、これ以上賢くならずに死んでしまうのだろうか・・・。』と考えるときがある。久しく感じていない自分が成長したという感覚。社会に出て仕事ができるようになったというのは、成長ではなくて適応のように思える。何か自分の成長を実感できることを始めたいが、そもそも自分のしたいことが分からない。モヤモヤしながら生きていく。自分が成長しているという小さな希望を見つけられる日が、果たしてこの先、わたしに来るのだろうか。

 

東京にフラっと行けるほどのフットワークの軽さがほしい(スズキナオ「深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと」)

最近読んだスズキナオ氏の「深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと」が面白かった。

 

深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと

深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと

 

 

深夜高速バスに乗って様々なところを訪れ、そこで出会ったひとやお店のことなどが書かれたエッセイ。わたしは最後の章である第6章の「私が知らなかったこの町は、こうしていつもここにあった。私がいなかっただけだったのだーーー散策」が気に入った。有名人でもないパンピーの友人の史跡を巡ってみたり、気まぐれに降りたことのない駅に降りてみたり、あえて終電を逃したつもりで自宅の最寄り駅まで歩いてみたりといった、ともすれば「ただの暇つぶしやん」と思われるようなことをしており、それがなんとも楽しそうなのだ。なによりスズキナオ氏が何かしようと呼びかけるとすぐに集まってくれる友人たちがいい。そのフットワークの軽さ。ていうか、この本を読んでいるとフットワークの軽さって人生を楽しむためには大事だなあと感じる。わたしは何かしようと思いついたときに、それを行動に移すのを少しためらってしまい、最終的に段々とやる気がしぼんでいって『まあ、ええか。』となってしまうことがよくある。いわゆるめんどくさくなるってやつです。土日にフラっと東京に行けるような人間になりたいなあと思うこともあるのだが、結局そんな人間にはなれていない。好きな芸人やアーティストなどのイベント情報を見ていると、東京で開催されるものが多い。ここで『じゃあ東京行くか。』とすぐに行くことができれば色んな楽しいことに出会うことができると思うのだが、『でもなあ。東京かあ。』と考えてしまい結局行かないことが多い。いや、多いんじゃなくて絶対に行かない。ゆnovationの「ある程度ある」の歌詞にある

 

心躍ることあるけど、家から出るほどじゃない

 

に『そうやねんなあ~。わかるわあ~。』となってしまっている自分がいる。悔しいです。

 

 

いきなり東京に行くほどのフットワークの軽さを身につけるのは難しいので、とりあえず暇な友人に声をかけて、終電を逃したつもりで自宅の最寄り駅まで歩くというのはやってみたい。深夜のテンションでめちゃくちゃ楽しいと思う。わたしは友人と過ごす中身のない時間が好きだ。ファミレスで晩ご飯を食べながらダラダラし、終電の時間になったら店を出発して開始したい。そんな金曜日を過ごしてみたい。そして、これを足掛かりにして、東京に行けるほどのフットワークの軽さを身につけたい。未来の自分に期待したい。

 

そして、この本には各ページの下段に訪れた場所や食べたものの写真が載せられている。これを見て不意に、大学生のころ、徳島か愛媛かの旅行に行ったときに食べたスズキの味噌焼きが美味しかったことを思い出した。ただ美味しかったという事実だけが強烈に頭の中に残っており、それがどんな見た目の料理だったかは全く思い出せない。大学生のころのわたしは、旅先で出される料理の写真を収める友人の行動が全く理解できなかった。『コイツ食べ物の写真なんかとって、その写真見直すことあんのかい。おれは写真なんぞに収めずにこの目に焼き付けて脳裏に刻むわ。』と、なぜか息巻いていた。でも今なら思う。写真、取っておけば良かった。今になって『あれ美味しかったなあ。また食べたいなあ。』と写真を見直したくなっている。記憶なんて人間生きていれば次第に薄くなっていく。一生脳裏に刻み続けることなんて不可能だ。ていうか、だからこそ写真が発明されたわけですし。ああ、なんて愚かだったんだ、昔のわたしは。変に意固地にならずに写真を撮っておけばよかった。素直に生きることは大事。それが一番大事。

 

この本では、実際に深夜バスに乗っている場面の描写は最初のエピソードひとつだけであるが、タイトルからスズキナオ氏は100回以上は深夜バスに乗っているであろうことが窺える。普通にすごい。自分は深夜バスに3回ぐらいしか乗ったことがないが、全然寝られなくて大変しんどかった。わたしは電車では座りながらグッスリ眠ることができるのだが、バスなどの車ではなかなか眠ることができない。眠りやすさには揺れが関係していると聞いたことがあるが、車の揺れ方がわたしには合っていないのだろうか。今はもう働いているから、大学生のころよりお金を持っており、深夜バスに乗る機会は減ってしまった。わざわざ深夜バスに乗るくらいなら、新幹線に乗ってしまおうとするような人間になってしまった。いや、別に悪いことではないんだけれども。ただ、大学生のころの守銭奴のような生活から考えると、よくもまあ偉くなったもんよと思う。それにしても人間は、科学の発展のおかげで、行動することで消費される様々な時間を短縮できるようになったはずなのに、いまだに時間に追われているような感覚を抱きながら生きているのはなぜなんだろう。より移動時間の短い新幹線に乗れるようになった今よりも、深夜バスに乗っていた大学生のころのほうが時間に余裕があった。お金と時間はトレードオフ。金持ちの大学生になれたら最強なんじゃないか?

 

そして話はめちゃくちゃ変わるけど、スピッツの楽曲がサブスクリプションで解禁されましたね。

 

 

 

バスの揺れ方で人生の意味が解かった日曜日  

 

スピッツは好きだけれど、スピッツの歌詞は分かるようで分からない。ただとりあえず、この曲はひとりで乗る深夜の高速バスについて歌っているのではないことは分かる。この曲は恋について歌っているはず。ただ、

 

 愛はコンビニでも買えるけれどもう少し探そうよ

 

といった部分や

 

 余計な事はしすぎるほどいいよ

 

といった部分は、妙にこの本の内容としっくり合うところがある。自分たちで面白そうなことを考えてやってみたり、なにかよく分からないこともやってみたら意外と楽しかったり、そんなことがこの本にはたくさん書かれている。Let's get it on.

 

過去を振り返るのはいつだって今の自分(ペク・スリン「惨憺たる光」)

なんというか、9月、10月の時間はあっという間に過ぎて行っている。今年の夏は最高気温はそんなに高くならなかったが、暑い期間が長かった。9月なんてずっと夏の気温のままで、なかなか涼しくならなかった。だから9月になっても夏が終わった感じがしなくて、全然9月っぽくなくて、しかもその感じのまま10月に突入したから、9月の印象がめちゃくちゃ薄い。まるで8月がずっと中途半端に続いているみたいだった。そして10月に入った一週目も普通に暑いままであった。ただ一週目が終わるとそこから急に涼しくなり、涼しくなり始めてから3日後にはジャケットを羽織らなければ朝と夜は肌寒いほどになった緩急。家の中でも半袖半ズボンから一気に長袖長ズボンに。いつもなら長袖半ズボンの中途半端なキメラスタイルの時期があるはずなのに。寝るときも掛布団をかぶらなければ寒い。そしていまだに日本へと到来し続ける台風。今年はそんな9月っぽくない9月であったから、台風クラブの「飛・び・た・い」をセプテンバーのうちに聴くのを忘れてしまった。

 

 

この曲、間奏のギターが最高にかっこいい。オクトーバーになった今さら聴く。

 

そして、そんなにはっきりしない9月だったからなのか、ゆ~すほすてるも「九月」という曲を10月になってから発表した。

 

 

今年の9月は気づけば終わっていたし、今年の10月は気づけば始まっていた。そして、ラグビーワールドカップと野球の日本シリーズが気づけば始まっていて、日本シリーズはあっという間に終わってしまった。とはいえ、9月、10月って毎年こんな感じのはっきりした印象がない月だった気もする。ただ振り返ってみると、中学、高校のころは体育大会があったから9月を意識することはあったように思う。そういえば大学生のころも、住んでいた実家の近くに小学校があったから、網戸越しに聞こえてくる運動会の練習の音で、『ああ、もうそんな時期か。』と9月であることを意識していた気がする。学校は季節ごとに行事があるから、学生たちが季節の移り変わりを知らせる役割を果たしてくれていたんだと、今さらになって気づく。今住んでいるところは学校の近くではないから、ただただ気温の変化でしか季節の移り変わりを捉えていないのかもしれない。

 

わたしが抱く分かりやすい秋のイメージは紅葉だけれど、実際の紅葉が見ごろの時期はもはや結構寒くて、あんまり涼しいといった感じではない。どちらかというと冬の入り口といった感じだ。改めて紅葉を観に行ったときの写真を見返してみても、しっかりめの上着を着て、マフラーまで巻いている。秋って本当に分かりづらくてはっきりしない季節だ。だから「食欲の秋」とか「読書の秋」、「スポーツの秋」など、バシッとひとつに決まらずに色んな呼称があるのだろうか。

 

とりあえずは読書の秋ということで、最近は韓国の作家であるペク・スリンの書いた「惨憺たる光」を読んでいる。

 

惨憺たる光 (Woman's Best 9 韓国女性文学シリーズ6)

惨憺たる光 (Woman's Best 9 韓国女性文学シリーズ6)

  • 作者: ペク・スリン,カン・バンファ
  • 出版社/メーカー: 書肆侃侃房
  • 発売日: 2019/06/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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韓国で生きる若者の、先の見えない人生を不確かな足取りで歩んでいく様が描かれている。この小説では登場人物たちが、その時々でやたらと過去を振り返る。

 

確信の無いとき、人は往々にして偶然の中にある啓示の痕跡を探そうとするのだ。 p61

 

見通しのきかない現代を生きていると、ときに自分が今、何のために生きているのかが分からなくなってしまうことがある。そんなとき、ひとは過去を振り返ろうとする。それは過去の出来事をヒントにして、今の自分に起こっている感情や事象を理解しようとするために。

 

往々にしてわたしは、自分が過去を振り返るときは、自分にとって都合のいい解釈を加えてしまっているように思える。生きている意味を見出せない退屈な日々が積もり積もって過去になっていく。過去を解釈しようとするときはいつだってそこに現在の自分の意思が介入する。今の自分の人生、日々に空虚さを感じているからこそ、その反動として自分の人生は無駄ではないと思いたくて過去に意味をもたせようとしてしまうのだろう。他人からしてみればたいしてドラマチックでもない出来事であっても、自分の中では波乱万丈な出来事であった、あのころの自分にとっては輝かしい時間であったという風に都合の良い解釈を加えて。ただ、そんな風に過去を振り返っては自分が生きやすいように過去を捉え直すことは、果たして罪なのだろうか?ある意味では過去の改変、改ざんのように思えるこの行為も、自分の人生を肯定してなんとか必死に生きようとするがゆえの行為に思える。そして、わたしはたとえ今現在の生きている意味、理由が分からなくなっても、なんとか過去に意味を見出して生き続けることはできるのだろうか?もし、過去にすら意味を見出すことができなくなったとき、わたしはどうなってしまうのだろうか?この本を読んでいると、そんな不安が頭をよぎってしまった。

 

もちろんこの本では、わたしが上に書いたような今の生活における空虚さをもとに過去を振り返るといった行為ばかりが書かれているわけではない。ただ、どのエピソードを読んでも、過去はいつだって今の時間の中に、今の自分との関係の中にあるということを強く意識させられた。

  

秋にやたらと呼称を付けようとするのも、自分の過去に無理矢理意味を見出そうとするがごとく、不確かな季節をなんとかして捉えようとするためなのかもしれない。肌寒さを感じるこの季節は、なにか宙ぶらりんになったような気持ちになってしまう。そして、気づけば10月も終わろうとしている。あっという間だなあ。