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社会で「生きのびる」ということ、個人が「生きる」ということ(穂村弘「はじめての短歌」)

時に楽しくない人生を生き永らえて何になるって思うけれど、やっぱり死ぬのは怖い。少しでも楽しい人生を送りたい。こういう気持ちを何度も繰り返し抱えながら生きている人は多いと思う。短歌には、生きるってことを本当に考えさせられる。

 

はじめての短歌 (河出文庫 ほ 6-3)

はじめての短歌 (河出文庫 ほ 6-3)

 

 

なんやかんやで穂村さんには、ものすごい影響を受けている。

 

「生きのびる」と「生きる」

私たちはふたつの世界を生きている。

 

例えば、嫌いな上司から説教を受けているとき、たとえ相手が間違ったことを言っていたとしても、それを受け入れて謝罪をするのが普通とるであろう行動だ。これは、社会的にサラリーマンとして"生きのびる"ための行動だ。

 

しかし一方で、今、目の前で意味の分からないことを言っている上司をぶん殴ってしまいたいという感情が湧くこともある。これは、私個人が"生きる"ための行動だ。私自身の尊厳を守るための行動である。

 

私たちはこのように、サラリーマンのような社会的な立場としての自分と、個人としての自分のふたつの世界を生きている。そして多くの人は、このふたつの世界のバランスをうまくとりながら生きている。 しかし、このバランスをうまくとれない人もいる。会社などの社会的な組織は、バランスをうまくとれないこのような人たちにとっては、生きづらい世界なのである。

 

短歌の価値観

例えば、朝の通勤電車。次の駅で降りて会社に行かなければならない。しかし、このまま次の駅で降りずに乗り過ごして、今日一日を好きなように過ごしてみたい。誰もが一度はこんなことを思ったことがあるだろう。

 

大抵の人は、そうは思いながらも次の駅で降りて会社に向かうだろう。これは社会的に"生きのびる"という価値観に基づいた行動だ。

 

反対に、そのまま乗り過ごして自分の好きなところへ行った場合、その行為に社会的な価値などは一切ない。しかし、自分自身はこの上ない喜びや解放感を味わうことができるだろう。それは"生きる"という価値観に基づいた行動だ。そして、短歌はこの"生きる"ということを表現するものなのである。

 

短歌においては、日常生活における価値観が反転する。

 

鯛焼の縁のばりなど面白きもののある世を父は去りたり

                     高野公彦

 

霜降りのレアステーキなど面白きもののある世を父は去りたり

                      改悪例

 

鯛焼の縁についているばりと霜降りのレアステーキを社会的な価値観に基づいて比較すると、後者の方が価値は高い。それは後者の方が高価であり、おいしいという人が多いからである。

 

しかし、短歌として読んだ場合に、ぬくもりを感じたり感動したりするのは前者の方ではないだろうか。"霜降りのレアステーキ"よりも"鯛焼の縁のばり"にした方が、父が生きていた事実がより色濃く浮かび上がっては来ないだろうか?

 

それは、鯛焼の縁のばりが社会的に無価値であるからこそ逆に、個人の世界観、ディテールをより映し出すことができるためである。霜降りのレアステーキが好きな人は、この世にごまんといるであろう。一方、鯛焼の縁のばりは社会的に価値が低く、これが好きですという人はあまり多くはないだろう。しかしこの社会的な価値の低さが、逆に個人を浮かび上がらせ、この世を去った父が絶対に交換不可能なたった一人しかいない人間であったことを痛感させるのである。

 

このように、短歌の世界では社会的に価値のないものに価値が生じる。短歌の中では、私たちの日常生活とは価値観が反転するのだ。短歌で表現されることにこそ、人間が「生きる」ということが詰まっているというがごとく。

 

短歌をよむことで気づかされる生きるということ

多くの人は生きのびるために、より具体的には明日のご飯や住む場所を得るために会社で働いていると思う。けれども、会社で働くことが楽しいと思っている人は一体どれだけいるのだろうか?確かに、生きのびるためには働かなければならないように思える。本当は楽しいことだけをして生きていたいけれど、それじゃあお金は稼げないし生きていけない。

 

マジョリティの力はすごい。みんなと同じように就職していれば、とりあえず死ぬことはないんじゃないか、生きのびれるんじゃないか。そう思ってしまう。個人を殺す代わりに、死の恐怖からは逃れられるような気がする。

 

だけど人生って本当にこれでいいのだろうか?そんなふうに短歌は「生きのびる」生活の中で薄れてしまっている、「生きる」という個人にスポットライトが当てられた感覚を呼び起こしてくれるのだ。

 

ただ、ここで一瞬の感動を得るだけでは意味がない。我々は消費することに慣れすぎているのかもしれない。芸術というのは一時の安息を与えてくれはするが、夢から覚めればただ現実が続いているだけなのだ。なんなら、芸術に触れることによって、より退屈な現実を意識させられることになるかもしれない。

 

www.gissha.com

 

短歌を含む芸術を単に消費するのではなく、そこから得られたエネルギーを使って、より良い人生を歩めるように自分で動かなければならないと感じる。本当はもっと頭を使って行動すれば、楽しいことをしながら生きていける道もあるんじゃないか?意味のある人生を送ることができるんじゃないか?それを追求しなければ人生は変わらない。

 

社会的な価値観ではなく、短歌によって呼び起こされた個人の価値観に根ざした自分の人生を追求していきたい。