牛車で往く

日記や漫画・音楽などについて書いていきます 電車に乗ってるときなどの暇つぶしにでも読んでください

スポンサーリンク

先人の残したものを借りて、自分の頭で自分の人生について考える(竹田青嗣「哲学ってなんだ―自分と社会を知る」)

哲学について学びたいとは思うけど、どこから入ればいいのか分からない。そんなとき見つけたのがこの本。

 

哲学ってなんだ―自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)

哲学ってなんだ―自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)

 

 

岩波ジュニア文庫は、学生向けに教養のつく本を多く刊行している。ジュニアと名がついているが、大人が読んでも十分勉強になる。

 

世間と自分の中での価値観のずれ

だれでも人間は、思春期から青年期にかけて自己を支える価値観が激しく変化し、自我というものが不安定になる。それは、我々人間はこの時期に

 

自分という存在の絶対的な交換不可能性に気づく p5

 

ためであると著者はいう。ポール・ヴァレリーは「テスト氏」という作品で、この時期の若者にあたる登場人物を次のように描いている。

 

わたしは正確さを追い求めるという急性の病にかかっていた。

 

この時期の若者は、全て理屈で説明できる正しいものにこだわってしまう。しかし実際には、物事は全てが理屈通りに進んでいくわけではなく、このような現実と折り合いがつかなくなってしまう。自分がこの時期の真っ只中にいると、正確さを追い求めるという姿勢を病とすら思わないだろう。もしかしたら、今もまだ。実際、生きていたら理屈に合わないことばかりだ。どう考えたって誤っていると思われることでも、見過ごされたまま、みんな当然のこととして生きている。ましてや、それが誤っていると疑うことすらなく。

 

著者の竹田青嗣もまた、20代から30代になる頃まで、自分の潜在的な欲望と理想像との矛盾に、自己喪失の状態になっていた。そこで著者を最初に救ったのは、文学であったという。文学は、書き手の個性や内面を表現し、その表現を通して同じような境遇に苦しんでいる人たちに寄り添うことで、人間の苦境を救うことができると。しかし著者は、文学を読んで考えたことも、そんな考えは多くの人がもっている色んな考えのうちの一つにすぎないものとして、現実世界に戻されてしまうのである。

 

この感覚はすごくよく分かるなあ。何か現実につらいことがあり文学に触れて、読んでいる瞬間は心が救われる。しかし、朝が来て現実の世界が始まると、文学に触れたことで得られた感動は無力化され、世界は何も昨日と変わっていないじゃないかって。文学を読むだけじゃ、自分の世界は変えられず、一時の息継ぎにしかならないんじゃないかと感じる。

 

www.gissha.com

 

www.gissha.com

 

哲学のもつ意味

そんな中、著者が次に出会ったのが哲学なのである。著者はフッサールの「現象学の理念」に出会い、現象学の「超越論的還元」という考えの核心が、それぞれの人間が掴んだ真実を徹底的に相対化することと気づく。

 

わたしはこの経験の中で、人間の「世界像」というものは必ず各人それぞれのものであり、したがってそれが「正しいか、正しくないか」が問題なのではなく、その世界像がほかならぬその人の生きるということにとって持っている「意味」こそが重要なのだ、ということを少しずつ感じ取っていった。 p19

 

と著者は言っている。そう、世界は人々の数だけ存在し、私の世界の正しいが、他の人たちの世界の正しいとは限らないのだ。

 

著者は、哲学とは世界の真理を説明するものではないという。哲学とは、

 

  1. 世界の「真理」をつかむための思考法ではなく、誰もが納得できる「普遍的」な世界理解のあり方を"作り出す“ための方法である。

  2. しかし哲学は、あくまで"自分で考える“ための方法である。

  3. 哲学はまた、最終的には、自分自身を了解し、自分と他者との関係を了解するための方法である。このかぎりで、自分の生が困難に陥ったときに役に立つ思考方法である。 p20

 

という。

以上をふまえると、哲学は、自分を知る、自分を支えるためだけのものなく、自分と他者との関係を支えるためのものということになる。自分の世界と他人の世界の共通了解部分を探るために哲学は存在する。

 

そして、哲学の歴史というのは、ある原理が提唱されたときに、その原理だけでは説明しきれない「矛盾」を、新たな概念によって説明できるようにバトンをつないでいくものであるのだ。私は、この点を完全に勘違いしていた。哲学とは、自分の内側に向かうものであり、だからこそ自分に合う哲学者と自分に合わない哲学者がいると思っていた。しかし、哲学とは、みんなで世界のことを分かり合うために、全員でつくりあげていくものっだたのだ。なんて尊い作業。

 

哲学は科学の源流であるといわれる所以もこの点にある。この世界で起きている現象を説明するために、ある原理や説を提唱する。しかし、実際に見られる現象は、どうもこの説では、説明できないんじゃないかという矛盾が見つかる。すると、その矛盾も説明できるような新しい原理や説が提唱され、科学は発展してきた。ちょうど天動説が世に広まっていた中、地動説を提唱したコペルニクスのように。

 

www.gissha.com

 

つまり、自分で"哲学する"ということは、自分の頭で今までの既成概念が正しいかを根本から検証し直し、考えるということなのである。

 

自分はこれまで、なんとなく世間の流れにのって生きてきた。しかし最近、その世間で常識とされていることに違和感をもつことが多くなってきた。いや、正確には昔から違和感はもっていたが、自分の人生を生きていくうえで抱えているこの違和感を、どうにかしなければいけないと考え始めた。堂々巡りの夜を過ごすのに嫌気がさしてきたのだ。偉大なる先人たちの知恵を借りながら、自分の人生をどのように過ごしていくかを真剣に考えていこうと思う。