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いったい小説とは何なのだろうか(高橋源一郎「一億三千万人のための小説教室」)

小説の書き方。そんなもんがあるわけない。小説の書き方を学んで書かれた小説なんて、それは本当に小説なんだろうか。

 

一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))

一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))

 

 

これは名著だと思う。いったい小説とは何なのか。

 

小説とは

 

小説家は、小説の書き方を、ひとりで見つけるしかない   

 

どれだけ技術や書き方を教えてもらっても、それだけじゃどうにもならないところに、いつかぶつかってしまう。そのときは、自分で考えて自分で道を決めるしかない。それはまるで人生と同じように。自分の人生は決して他の誰かと同じ人生ではなく、たったひとつしかない人生なのだから。

 

そうはいってもやっぱり、たった一度の人生だからこそ失敗したくないと思ってしまい、人生をうまく進めている人、大多数の人たちと同じ安全な道のりを選んでしまう。小説を書くことは、自分の人生を生きることに似ているといったように、小説の世界でもこれと同じようなことが起きてしまっている。

 

(中略)ベストセラーになるような作品は、実は「新作」であるのに、「旧作」に、いや「伝統芸」によく似ているのです。

読者は保守的です。読者は「楽しませてくれ」という権利を持つ王さまです。その、読者の楽しみのほとんどは、「再演」の楽しみ、今まで楽しいと思えたものと同じものを読む喜び、確実に楽しめる喜びです。そして、作者はその王さまのいうことを聞く家来ーーーそれが、今の小説の悲しい実態です。

 

安全な人生を求める読者が安全に読める小説を欲し、安全な人生を求める作者がそれに答える小説を書く。そして、それがベストセラーになる。これはいったい、本当に小説なのだろうか。小説とはいったい、自分のために書くものなのか、他人のために書くものなのか。

 

高橋源一郎は、小説というものは次のようなものであると言っている。

 

小説というものは、たとえば、広大な平原にぽつんと浮かぶ小さな集落から抜け出す少年のようなものではないでしょうか。(中略)今そこにある小説は、わたしたち人間の限界を描いています。しかし、これから書かれる新しい小説は、その限界の向こうにいる人間を描くでしょう。小説を書く、ということは、その向こうに行きたい、という人間の願いの中にその根拠を持っている、わたしはそう思っています。 

 

小説は今まで見たことのない景色、今まで表現することのできなかったものを求めて書かれるべきであると。堕天作戦のレコベルを思い出す。

  

堕天作戦 (4) (裏少年サンデーコミックス)

堕天作戦 (4) (裏少年サンデーコミックス)

 

 

 

そして高橋源一郎は、猫田道子の「うわさのベーコン」の一部分を抜粋し、

 

すべての小説は(広く、「文学」は)、「笑っている」「皆んな」の方が間違っているのではないか、という、孤独な疑いの中から生まれてくるものである

 

と述べている。そして、そんな作者の孤独な疑いの中から生まれた一本道が、ある奇跡によって人々の広大な土地に達した時に、それは「傑作」や「芸術」と呼ばれると。自分のために書いた小説が、人類にとって新たな視点を与える。

 

高橋源一郎は、小説や文学の正反対の場所に、教育は位置していると言っている。教育の目的は、

 

「一日六時間、みんなで同じ机に向かい、先生が黒板に書いていることを書き写す」というような無意味なことを、我慢できるような人間を作るため 

 

と述べている。

 

私は結局大学まで進学したが、大学生になってやっとこのことに気づいた。それと同時に受動的に学ぶことを我慢することが大変つらかった。もし、中学の時点で不良になった人たちが、大学生のときの自分と同じようなことを感じてグレていたのならば、彼らはとても大人になるのが早かったんだろうと今なら思う。中学生の時点で、何のためにやっているのか分からない教育を受ける学生生活に、見切りをつけたのだから。自分は大学生になるまで気が付かなかった。そして、中学生のころの自分は、そんな不良の行動を一切理解することができなかった。自分の頭で、自分の人生について考えるという思考がなかったのだ。

 

小説は、小説を書いている時間の中にある

「生きる」ということはどういうことかと聞かれたとき、あなたはうまく説明をすることができるだろうか。「人間」とはどういう生き物かと聞かれたとき、あなたはうまく説明をすることができるだろうか。わたしたちは「生きる」といったことや「人間」がどんな生き物かといったことがよく分からないけれど、「人間」として「生きて」いる。言葉でうまく説明できなくても、この毎分毎秒が「人間」として「生きる」ということなのだ。これと同じように、小説とは何かということは、小説を書いている時間の中でしか感じ取れない。

 

小説を書くためには待つことが大事

 

世界を、まったくちがうように見る、あるいは、世界が、まったくちがうように見えるまで 、待つ p64

 

それは、簡単にいうなら、他の人とはちがった目で見る、ということです。そして、それは、徹底して見る、ということでもあるのです。なぜなら、ふつうの人たちは、ふだん、なにかを、ただぼんやりと見るだけで、ほんとうはなにか、とか、そこにはなにがつまっているのか、とか考えたりはしないからです。  p65

 

小説を書くためには、自分の目で徹底的に物事を見るということが重要になる。知っているつもりのことに対して、本当に自分はそのことについて知っているのかと疑ってみる。そして、自分の目で徹底的に物事を見てみる、そのふとした瞬間に、世界がこれまでと全く違うように見えるときがある。その瞬間が訪れるまでひたすら待つのだ。それは、世間の常識をひたすら疑って考えているときに訪れるかもしれないし、見慣れた景色を普段よりも意識して眺め、山際の輪郭がはっきりと見えたり、雲の高さにも階層があることに気づいたりした瞬間に訪れるかもしれない。

 

確かに、小説に限らず、名案はふとした瞬間に思いつくものが多い気がする。例えばお風呂の湯船に浸かっているとき、帰りの電車でぼんやりしているとき、街をブラブラ散歩しているとき。そして、このときに思いついた名案は大切に扱わないと、気づいた時には忘れてしまっている。

 

小説を書くにはマネをする

 

小説を書くためには、世界が変わって見える瞬間を待たなければいけないと話した。そして、その瞬間を逃さないように小説をつかまえる必要がある。その訓練として高橋源一郎は、

 

小説と、遊んでやる p73

 

ことが大事だという。ただ読むのではなく、遊ぶ。これはいったいどういうことだろう。私は、これは書いた作者になりきって小説を読むということだと思う。

 

小説を読むとき、小説を理解しようとするとき、ひとは自分の中の常識に当てはめて理解しようとする。しかし、そうではなく、この作者は何が言いたくて書いているのかを、作者の目線に立って、徹底的に考えることが遊ぶということなのではないか。

 

そのようにして遊んだ小説の中で、自分が好きになった小説をマネして書いてみることが、小説を書くはじめの一歩となる。ここでは村上春樹がレイモンド・チャンドラーのマネをしたことが引き合いに出されており、村上春樹がレイモンド・チャンドラーをマネしたように、レイモンド・チャンドラーもまた別の小説家のマネをし、そのようにして小説家は別の誰かの小説をマネすることで、自分の小説を書き始めると述べられている。そして、小説家がなぜ他の小説家のマネをするのかという問いに対して、

 

その答えは、なぜ、ことばを覚えるのか、という問いへの答と同じです。人はひとりではいられず、そのため、人は他のだれかを好きにならずにはいられない。そして、だれかを好きになる時、生きものは、そのものと同じものになろうとし、そのために、おこないをまね、ことばをまねようとするからです。 p112 

 

と書かれている。

 

ロング・グッドバイ (ハヤカワ・ミステリ文庫 チ 1-11)

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羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)

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小説と遊ぶ。すると、言葉では表現できないが、なにか心に引っかかる瞬間、小説をつかまえた瞬間が訪れる。そして、その小説のマネをして書いてみる。マネをして書いてみることで、自分では気づいていなかった価値観や世界の見え方が分かってくる。自分の言葉では表現できない感情をもたらした文章を、自分自身の手で書いてみるという作業をもって、その文章が書かれたときの作者の感情を追体験できる。言葉ではその感情を表現することはできないが、その文章を書いている間はその感情に触れることができる。それは、その文章を読んでいるとき以上に。そして、何度もマネをしているうちに、作者の抱いていた感情が、まるで自分から生まれた感情のように理解できるようになっていくのではないだろうか。

 

小説はただ面白いだけのものではない。小説はそれ以上にたくさんのことを教えてくれる。しかし、それを小説から受け取るためには、ただ読むだけではなく、自分で小説を書いてみるという経験を通さなければならない。それは決して容易なことではないのかもしれない。しかし、小説は、あらゆる小説家のそのような行為によって、現代まで脈々と受け継がれている。そして、自分もその流れの一端に少しでも触れられるとするならば、小説を書くということは、これほど壮大でワクワクするものはないであろうとも思える。