牛車で往く

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短歌に気づかされる確かにこの世に存在する時間(穂村弘 山田航「世界中が夕焼け」)

先週の土曜日、世界一受けたい授業に歌人の俵万智が出演していた。今、短歌ブームが来ているらしい。短歌いいよね。

 

でも、短歌って読んでも意味が分からないものが多い。そこで短歌を丁寧に解説してくれているこの本がいい。

 

世界中が夕焼け―穂村弘の短歌の秘密

世界中が夕焼け―穂村弘の短歌の秘密

 

 

この本は、歌人の穂村弘の短歌50首に対して、穂村弘本人と歌人の山田航がそれぞれ解説を書くというものである。お二方の解説を読むことでなるほどとなるし、穂村さんと山田さんの解釈が異なる時も、そのどちらの解説にも納得することができ、短歌の懐の広さを感じることができる。

 

 

校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け p17

 

この歌の解説で穂村さんは、世界中が同時に夕焼けになることはありえないことであり、これは世界がまだ小さい人の感覚であると言っている。そして、世界の広さを知ってしまってからでは、表現することが出来ない思い込みや抒情があると言っている。この感覚は分かるなあ。小学生の頃って、宿題忘れたらこの世の終わりを感じていたし、校区外に出るなんて絶対にしてはいけないことだったし、波浪警報はハロー警報だと思っていたし、遊戯王の「血の代償」のカードの効果も分からなかった。何にも知らなかったし、世界も狭かった。小学生の頃の遠いところに住んでた友達の家なんか、大人になった今じゃ近所に思えるしね。小学生の一歩の大きさと大人の一歩の大きさの違いもあるし、小学生の一日の長さと大人の一日の長さの違いもあるから。でも、無知で、狭い世界に住んでいるからこそ感じられる喜怒哀楽があの頃は確かにあった。カルピスゼリーを凍らせて食べるだけで幸せだった。気づけば世界が広がっていたのは、いいことなのか、悪いことなのか。下の記事でも同じようなことを書いた。

 

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回転灯の赤いひかりを撒き散らし夢みるように転ぶ白バイ  p26

 

この歌に対しては、白バイが転ぶという致命的な出来事がスローモーションに見えることを「夢みるように」と表現し、その命が危険にさらされている瞬間に陶酔を覚えると解説されている。このドラマ的感覚。不謹慎かもしれないけれど、死ぬということが綺麗に思えることは確かにある。ユーミンの「ひこうき雲」を聴いた時の感動のような。ある種の潔癖さ。これは、私たちが生きている日常の世界で抱く退屈さの反動から来るものだろう。およそ死ぬとは思えない、繰り返される日常。明日も明後日も今日とそんなに変わらない一日になるだろう。だから、有名なミュージシャンなどが若くして亡くなったときは、単純な悲しみだけではなく、自分とは違う世界を生きていたんだなという、ある種の憧れのようなものを抱いてしまう。本当は死にたくはないんだけど。

 

 

海光よ 何かの継ぎ目に来るたびに規則正しく跳ねる僕らは p217

 

この歌に関する解説がまた素晴らしい。

 

ここにあるのはただ時折跳ねるだけで何も起こらない時間。そういう時間ってあんまり表現されないというか。(中略)徒労って神様にはないゾーンなんですよ。(中略)ある種のエンターテインメント小説や映画が好きじゃないのは、そういうゾーンを全部捨象してしまうからで。エンターテインメントって作り手が神様だから、神様にとって意味のあるところだけを記述するから、そういうゾーンは全部排除されちゃうんだよね。だけどそうじゃないものがやっぱり面白い。 p220

 

この気持ちはものすごく分かる。「回転灯の~」のときには、ドラマや刹那的な瞬間に憧れると言ったけれど、結局自分の人生は平凡な日常の繰り返しであり退屈だ。でも、そんな日常の中にも、確かに心が動く瞬間っていうのは存在していて、それを表現してくれるから私は短歌が好きだ。これは、世界一受けたい授業において俵万智が言っていたことにもつながる。俵万智は、短歌のコツは「日常の小さな心の揺れを大切にすること」と言っていた。社会的には価値がないとされるものに価値を見出す。そうすることが出来なければ、自分の時間、人生を生きることはできないのではないかと思う。しかし一方で、この「何も起こらない時間」を大げさに愛しすぎてしまうと、今度はそれが作り物のようになってしまい、痛々しくなってしまう。表現とは難しい。

 

 

 

少し前のNHK短歌のゲストが芸人の麒麟の川島だったのだが、着眼点が面白くてすごかった。歌人の東直子をうならせていた。確かに、芸人とかって短歌のセンスのいい人が多い気がする。日常の小さなことに気が付いて、それを笑いにできるんだから。そういう小さな日常の機微を発見できるということは、短歌も上手に作れるということではないだろうか。プリマ旦那の、お風呂でシャワー使ってるときにオカンが洗い物を始めて、シャワーからお湯が出んようになるネタとか好きやったな。あとはツッコミとか。ツッコミって結構連想ゲーム的というか、誰も気づいてない似ているものを提示するのが面白い。例えツッコミね。「いやそれ〇〇か」の〇〇にセンスが現れる。短歌でも、誰も気づいていないけれど言われるとしっくりくる物事の共通項を提示されたときに、なんかすごい感動するというか、風通しが良くなるというか、アハ体験みたいになるというか・・・、うまい例えが出てこんけども。やっぱフットボールアワーの後藤とかすごいよね、例えツッコミ。短歌もお笑いも、日常の小さなことを楽しめるようにしてくれるから好きなのかもしれない。

 

そして穂村さんは短歌だけでなく、エッセイもすこぶる面白い。この本で山田さんは、穂村さんのエッセイは全て、穂村さんの短歌の注釈であるといっている。つまり、穂村さんのエッセイを読むことで、穂村さんの短歌をより楽しむことが出来るようになり、またその逆で、短歌を読むことで、エッセイもより楽しめるようになるということだ。ということでみなさん、穂村さんのエッセイも読もう。なよなよしているけれど、とても愛らしくて、共感することで自分のダメなところを肯定してしまいそうになる、体に毒なエッセイだ。これが面白いからタチが悪いんよ。

 

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穂村さんは様々な本において、短歌にはただの共感ではなく驚異が必要だと言っている。みんなが意識していない、気づいていないけれど、確かにこの世に存在する時間。短歌で表現されて「ああ、確かに!」と思える、日常の些細な出来事。ミュージシャンの6EYESの「パーティの帰り道は真顔で」に感動したのも、これと同じこと。

 

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短歌と出会ったおかげで、そういった日常の細部に人生が詰まっているということを教えてもらえた。