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抜け出せない、平和で退屈な地方都市での人生(山内マリコ「ここは退屈迎えに来て」)

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HMVの無人島 ~俺の10枚~において、台風クラブのボーカルである石塚さんがオススメしていたこの本を読んだ。

 

ここは退屈迎えに来て (幻冬舎文庫)

ここは退屈迎えに来て (幻冬舎文庫)

 

 

地方都市で暮らす人々の日常を描写した連作小説。登場人物たちはみな、地方都市での生活に退屈している。この本で描かれている日常のどん詰まり感に、私は共感せずにはいられなかった。

 

まず、この本を読んでいると、えげつないほどのリアリティが自分を襲う。それは、作中に数多く出てくる固有名詞の影響が大きい。

 

取材を終えた車は夕方のバイパスを走る。大河のようにどこまでもつづく幹線道路、行列をなした車は時折りブレーキランプを一斉に赤く光らせ、道の両サイドにはライトアップされたチェーン店の、巨大看板が延々と連なる。ブックオフ、ハードオフ、モードオフ、TSUTAYAとワンセットになった書店、東京靴流通センター、洋服の青山、紳士服はるやま、ユニクロ、しまむら、西松屋、スタジオアリス、ゲオ、ダイソー、ニトリ、コメリ、コジマ、ココス、ガスト、ビッグボーイ、ドン・キホーテ、マクドナルド、スターバックス、マックスバリュ、パチンコ屋、スーパー銭湯、アピタ、そしてイオン。 p9

 

地方都市のロードサイドにおける見慣れた風景。既視感、既視感。固有名詞をふんだんに使うことで、フィクションであるこの小説の世界が、まるで我々が生きている世界と地続きのように感じられる。そして、東京から地元に帰ってきた登場人物である須賀は、地方都市のこのような景色を次のように表現する。

 

こういう景色を"ファスト風土"と呼ぶのだと、須賀さんが教えてくれた。須賀さんは地方のダレた空気や、ヤンキーとファンシーが幅を利かす郊外文化を忌み嫌っていて、「俺の魂はいまも高円寺を彷徨っている」という。 p10

 

ヤンキーとファンシーが幅を利かす郊外文化というユニークな表現。どこまでいっても同じような景色が並ぶ郊外は、ヤンキーがはびこるほど暮らしやすい反面、新しい刺激に触れることはほとんどなく、ただひたすらに空想に浸ることでしか退屈を紛らわすことが出来ない。平和と退屈に支配された地方都市。実際、スターバックスが出店しただけで行列ができることからも、いかに地方での生活に刺激が足りないかを感じることができる。

 

そして、そんな地方都市で生きてきた私の心を揺さぶる数々の表現。

 

たとえば、閉園のアナウンスが流れる夕暮れ時の遊園地。海で遊んだ帰りの車の中。子供のころのレジャーには、いつも身を切られるような後味があった。あまりにも楽しいと、そのあとでものすごく辛い気持ちを味わうハメになる。あの日感じた痺れるような楽しさは後々まで私を、そして多分サツキちゃんをも、じりじりと苦しめたに違いない。 p20

 

ものすごく共感できる。読んでるときに胸がズクズクと痛くなるのは、確かに自分の中にもある感覚を表現してくれているからだ。退屈な日常を生きている今、私は過去を振り返ってばかりだ。子どものころに感じていた純粋な楽しさ。何をしてもすぐに飽きてしまう今、確かにあったはずのあの楽しさと名残惜しさを思い出しては、胸が苦しくなる。あの楽しさは、私の知らない間にどこに行ってしまったんだろう。そして、どうすればもう一度、出会えるのだろう。それを追い求めれば求めるほど、今の退屈がより浮き彫りになり、苦しくなる。

 

 

「家帰ったらスカパーでプレミアリーグ見るだけで寝る時間だし」 p33

 

作中、高校生の頃に魅力的だった同級生の男の子が、大人になってから吐いたこのセリフ。こうもえぐり出してくるか、我々の退屈な人生を、この一行で。退屈な日常にちょっとした楽しみを加えようと契約したスカパー。今日の仕事と明日の仕事の間の、つかの間の休息。スカパーでしか見られない番組を楽しんでいるときに、ふと現れる、こんな毎日をあと何回繰り返すんだろうという冷や水をかけられたような瞬間。自分はこのまま生きて、このまま死んでいくのだろうか。

 

 

これら以外にも、もっともっとたくさんの共感できる部分があった。

 

この町に暮らす多くの人と同じく、このDJも恐ろしく退屈で笑いの沸点が低く、そのうえ選曲もダサいので、聞けば聞くほどイライラしてしまうのだった。 p73

 

自分の人生が楽しくないときに、周りの人間がしょうもない人たちに思えるこんな気持ちや、

 

しっくりこない人に囲まれていると、一人ぼっちでいるとき以上に孤独が沁みて、そんなときブレンダの姿を見ると、「いいなぁ」と思うのだった。 p150

 

本当に一人でいる人に憧れるこの気持ち。要は自分が可愛くて仕方がないのだ。肥大化した自意識。読み進めていくにつれ、平凡な自分の平々凡々な思考を全て見透かされているかのように、胸に刺さる文章が溢れてくる。自分の人生は、一体何人目?既に幾人にも踏み固められた道を、自分だけが特別のように感じながら退屈を背負って歩んでいる。

 

そして、そんな退屈な人生をどうにかして変えようとする登場人物たち。ある者は結婚相談所に通い、ある者は東京の大学に入学し、ある者は処女を喪失しようとする。だけれども、退屈な人生から抜け出そうとすればするほど、皮肉にもどんどん凡庸になっていくジレンマ。義理の姉との諍いや、ただ気疲れするだけの都会、全然大したことのなかった初体験のセックス。

 

結局は同じ一本の道しかないことを。なりたくないと言っていたものに、やがてはなりたがるんだってことを。 p80

 

特別な何かにずっとなりたかったり、新しい刺激を求めたりしたはずなのに、気づけばよくあるオチ。退屈から抜け出すための凡庸なアイデア。結局抜け出せない現実。浮かない人生を過ごす、しみったれた登場人物が数々出てくるけれど、彼らは全員が別々の存在ではなくて、ひとりの人間の中に存在する様々な一面を切り取った存在のように思える。これはダメだ。私はほとんどの人物の生き様に共感してしまった。例えば、大人になったら、結婚して一軒家を建てるのが普通に望ましい幸せな人生という価値観。これは多くの人が持っている価値観だと思う。そして、そのような人生を送ることが幸せとは思えない価値観を持った人が、なんとなく感じる居心地の悪さ。こちらが、勝手に感じているだけかもしれないが、確かにあるマジョリティからの無言の圧力。そうした居心地の悪さから解放されるには、そのような価値観をもった社会から離れるか、そちらの価値観に自分が合わせるかだ。そして、多くの人は、居心地の悪さに耐えられなくなりら、自ら価値観を社会の方に合わせていき、気づけば凡庸になってしまっているのだろう。このようにして、退屈で生きづらさを感じているひとは、無言の"普通"という価値観に晒されて、どんどん退屈な人生から逃れられなくなる。そしてこの小説における"普通"という価値観をもった社会とは、地方都市のことなのだろう。

 

読んでいると、自分の人生を淡々とクールに描かれている気がしてくる。文体は軽やかであるが、必要最低限の言葉で精確な描写がなされており、表現がすっと胸に入ってくる。自分の人生はこうも簡単に起伏なく、淡々と表現されるものなのか。振り返ってみれば平凡な人生。郊外に住んでいれば、退屈だけど、平和で、少しだけ心がざわつくことが起きる人生。そこに幸せを見出すも、退屈を感じるも、それはその日の気分次第。

  

 

多分この本に全く共感できない、意味が分からないという人もかなりの数がいるはずで。別に地方都市での暮らしには何の不満もないし、何をそんなに大げさに嘆いているのか。地方都市での暮らしが嫌なら都会に行けばいいじゃないか。そういうふうに思う人たちがいなきゃ、私たちはこの本の登場人物たちみたいに、人生に悩んでいないわけで。実際、いろんな価値観を持った人たちの中で、私たちは生きている。

 

それにしても、これだけ徹底的に地方都市における日常の悩み、自意識、退屈を書けるって、作者はものすごく自分と向き合ったのだろう。中々自分でも、気づいてはいるけれど見て見ぬふりをしていたい一面のようなものが、数多く描写されている。私は作者のそのような姿勢に感動したし、自分の人生や考え方を見直すきっかけを与えてくれたことに感謝したい。

 

ホント、刺さる人には刺さる恐ろしい小説でした。