年末年始は実家に帰ってゆっくりできる。掃除も洗濯も料理もしなくていいのが楽で仕方がない。時間があるということで、衿沢世衣子の「ベランダは難攻不落のラ・フランス」とpanpanyaの「足摺り水族館」を買って読んだ。
「ベランダは難攻不落のラ・フランス」の帯には"騒々しくも爽快なマジックリアリズム"と書いてあり、その記述の通り、日常生活からシームレスに非日常の世界へと足を踏み入れていく展開がこの漫画では描写されている。これはpanpanyaの「足摺り水族館」にも言えることだ。というかpanpanyaの方がこのマジックリアリズムの感じは強い。ただしpanpanyaのマジックリアリズムは騒々しくも爽快でもなく、少し不気味で静かであるが。
衿沢世衣子の「ベランダは難攻不落のラ・フランス」は短編集であり、その中でも「ベランダ」というエピソードが良かった。不登校の小学生を家に招いて一緒に過ごすという内容である。
子どもがいるいないに関係なく、大人の私たちが、いつでも子どもの今と、その子どもたちが大人になった未来のことを考えられる世界だといいなと思っています。 p191
という作者のあとがきに共感した。子どもたちは過去の自分の姿なのだといつも思う。今の自分は、子どものころの自分にとっていてほしかった大人になれているだろうか?そして、不登校にもならずに学校に通えていた子どものころを振り返って、恵まれた環境で過ごせていたなと思う。最近は特に、普通に学校に通って、普通に大学に進学して、普通に会社に就職して、普通に結婚して・・・という普通の人生を送る難しさを感じる。みんな平然と生きているように見えるけれど、実は結構ギリギリで生きているって人も多いんじゃないか?何か1つでもボタンの掛け違いのようなことがあったら、普通の人生から離れてしまうんじゃないか、ギリギリのバランスで生きているんじゃないかと思う。そして、そんなときに一時でも逃げ込むことのできる世界、休むことのできる世界があればいいなと、この漫画を読んで感じた。それは、子どもだけでなく、大人にとっても逃げ込める世界があればと。
panpanyaの漫画は夜に読みたくなる。夜に読むと、ものすごく心が落ち着くのだ。panpanyaの描く漫画は基本的に、街を歩いていると不思議な看板や建物、景色などが目に入り、それらを追いかけているうちに非日常の世界に踏み込んでしまっているものが多い。この「足摺り水族館」でも、2本目の京都タワーや見たことのない博物館、頭上をゆっくりと進んでいく飛行船などに気を取られているうちに、不思議な世界へと迷い込んでしまう。
そして、そんな不思議な世界で非日常の体験をすることで、もとの日常世界に戻ってきたときに、これまでとは違う視点で世界を見られるようになっている。なんかpanpanyaの漫画を読んでいると子どものころを思い出す。友達と今まで踏み込んだことのない山に遊びに行ったとき、野犬に会ったりして、いつもより空が暗いように感じ、なんだか不安な気持ちになった。しかし、家に帰ったときには謎の充足感に心が満たされていた。そんな経験を思い出す。少年の自分にとって、未知の世界、非日常の世界に入ったあとに、日常の世界である家庭に戻って来れたときはものすごく安心した。しかし、非日常の世界に入ったことで覚えた心のざわつきは残ったままであった。panpanyaの漫画を読むと、そんな感覚を思い出すことができる。子どものころって、もっと人間以外の神秘的なものや霊的なものに不安を覚えていたなあ。panpanyaの漫画には、各話の間にエッセイや紀行文などが挟まれており、現実世界の不思議な景色などについて描写がなされている。これがまた、わたしが生きている世界にもまだまだ不思議なものが潜んでいるのではないかと思わせてくれるのだ。なんというか、panpanyaは失われた文明とか、ディストピア的なものに心が惹かれるんでしょうな。当時は価値があったとされていた建造物などが、時代の風化作用によって、今となってはあれはなんのために造られたものだったんだ、あの時価値があると感じていた価値観はなんだったんだという風になる。あんなものに価値があるとされていたという、今の感覚では考えられない、一種のパラレルワールドのように思える世界での出来事。そこに現実世界との乖離を感じて目眩に似た感覚を抱くのかもしれない。そして、今現在生きている世界に対しても、想像上の未来の世界と比較することで、これと似たような感覚を抱いているのではないだろうか。panpanyaはかなりの妄想世界の住人でしょうよ。
大人になって薄れていく、非日常の世界との関わりを思い出させてくれる良い漫画であった。