牛車で往く

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神様、わたしのことをちゃんと見てくれていますか?(穂村弘「整形前夜」)

整形前夜 (講談社文庫)

整形前夜 (講談社文庫)

 

 

歌人の穂村弘によるエッセイ。周囲の人を眺めてみると、自分はなんだかイケてないような気がする。そんなイケていない気がする自身の日常から生まれてくるアレコレ、冴えない自分と世界との関係について書かれている。

 

 

自意識が強くてがんじがらめ

 

穂村さんは自分自身のことを自意識が過剰であると言っている。そのせいで、周りの目が気になって色んな事に踏み出せなかったり、自分だけが物事を上手く勧められていないのではないかと考えすぎたりしている。そんな穂村さんのエピソード、読めば誰しもがいくつかのエピソードに共感できるのではないか。美容室に行って見せた写真と全然違う髪型になっているのにそのことを美容師さんに言い出せないこと、中学生のころ自意識が強すぎて写真を撮られるのが嫌だったこと、オシャレな洋服屋に入るのにためらってしまうこと。他者の目線が気になって動けない、要するに自分が傷つきたくない、可愛くて仕方がないのだ。この感じは、わたしも分かる。

 

そして、そんな自分をそれでもいっかと思いながら、いや正確にはそれでもいいとは思わないけど、変わろうとも思わないくらいの感じで生きていく。好きな人にそのままでいいよと言われれば、そうだよねと納得し、変わったほうがいいよと言われたら、そうかなあと思って変わろうとはしないぐらい。そのままの方が優勢な感じ。まあこれは穂村さんじゃなくて、わたしの場合だけれども。

 

そして穂村さんは、そんな世間の目に縛られているイケていない自分と比較して、社会から逸脱した人物に憧れている。そして、日常の中にある非日常への扉を求めている。今の自分の人生とは違う、もっと素晴らしいもう一つの人生があるんじゃないかと。大学の新しいクラスメートが大きな法螺貝を首からぶら下げていることにワクワクしたり、社会の価値観である「生きのびる」とは反する、「生きる」ということが見え隠れするレイモンド・チャンドラーの小説に感動したり。自分の人生が劇的に変わるんじゃないか、そんな予感を感じさせてくれる出来事を必死に探しながら生きている穂村さんの姿は、愛おしくもあり、そしてまるで自分の姿を見ているようでもある。

  

 

大人と子ども、「共感」と「驚異」

 

そんな息苦しい世間の目、ひいては社会という枠組みを、まだうまく認識できていなかった子どものころのエピソードも多い。

 

クロールが出来ないのに水泳大会の自由形の選手に選ばれたときの絶望感。図書館の本をなくしてしまって学校を燃やしてしまおうとしたこと。子どもの世界では、現実内体験の少なさから、些細なことがすぐに絶体絶命につながってしまうと穂村さんは言う。確かに小学生にとっての世界とは、ほとんど家族と小学校に関わる人物が全てになるだろう。そんな狭い世界の中で、勉強も食事も交友関係も娯楽も全て完結してしまう。だからこそ、校区外に出ることは本当に悪いことだと思っていたし、たまに連れて行ってもらう遊園地などはとても楽しかった。大人になった今では些細な出来事が、子どものころにはとても大きな出来事であった。

 

こういった子どものころの絶望的な体験を覚えながら生きている人は、果たしてどれぐらいいるのだろうか。こういう体験を覚えているのは、大人になって子どもと接するときにとても大事なことのように思えるけれど。大人にとっては些細なことでも、子どもにとっては一大事。そこをないがしろにしてしまうと、子どもから、この人は何も分かってくれないと信用されなくなってしまう。

 

そして、歌人の山田航が「世界中が夕焼け」において"穂村さんのエッセイは全て、穂村さんの短歌の注釈である"と言っていたように、このようなエッセイに書かれている子どものころの世界の狭い感覚を次の短歌で表現している。

 

校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け

 

www.gissha.com

 

 

そして、そんな大人と若者の感受性の違いを、「共感」と「驚異」という言葉で穂村さんは説明している。

 

 若い表現者が「驚異」を求める心の底には、今自分がいる世界への強い違和感や反発心があるのだろう。この世界の全てと引き替えにしても未知の価値を得たい、という欲求はそこから立ち上がってくる。

(中略)

 年をとった人間はそうはいかない。加齢とともに過去は重くなり、未来の時間は少なくなる。だから今までに得たものの意味や価値を信じたい、という気持ちが強くなる。それが世界や他者や歴史への「共感」に結びつくのではないか。 p109 

 

大人になり失うものが増えるにつれて、我々は保守的になる。年寄りが伝統を大事にするのは、伝統を失うということが、これまで伝統に沿って生きてきた自分の人生を否定することにつながるからだ。保守的になるのは仕方のないことかもしれない。だが、いつでも世界を更新するのは、未知の「驚異」を求める姿勢にあるということを忘れてはならない。そして、詩や短歌は未知のものを求める「驚異」の側面が大きいために、読んでもよく分からない、理解できないということが多いと穂村さんは言う。

 

大人になるって色んな事を知って世界が広がっていくようで、実はその逆、知っていることが増えていくことで未知のものが少なくなり、それゆえに退屈になってゆくんじゃなかろうか。子どものころの好奇心はどこに行った。あれはなんだった。世界の限界が見えてしまっている気がして仕方がない。いや、見えた気になっているのか。

 

 

世界に対する手ごたえの無さ

 

穂村さんは常に世界に対する手ごたえの無さを感じている。例えば、中学生時代のエピソードである「トマジュー」。

 

 卓球好きじゃないのに見栄だけで卓球部に入ったこと。

 白い短パンが許されないこと。

 勝ちを譲れと云われたこと。

 譲るまでもなくぼろ負けだったこと。

 ジュースで個性を出そうとしたこと。

 そいつがトマジューだったこと。

 思わず云い訳をしてしまったこと。

 その内容が意味不明だったこと。

 でも「ふーん」で済まされてしまったこと。

 全てが駄目。

 でも、そのせいで命が奪われるようなことは何ひとつない。

 この手ごたえのなさはなんだろう。 

 

 p83

 

中学生にしてこの虚無感は早熟であるとは思うが、だれもが抱いたことがあるであろう、このなんとなくで生きている感じ。何かに熱中したいけれど、どういたらいいのか分からない。何をしても空振りしているような。これは石黒正数の名作、「ネムルバカ」でも表現されていることだ。

 

ネムルバカ (リュウコミックス)

ネムルバカ (リュウコミックス)

 

 

これから先の人生、ずっとこんな空振りの日々が続くのだろうか。果たしてそんな日々に生きる意味とは、自分が自分である意味とはあるのだろうか。日常生活を過ごしている間は忘れているが、ふとした時に顔を出すこの感情。わたしはこの「トマジュー」が好きすぎて、いつでも読めるように全文をスマホのメモに書き写してしまった。

 

そして、1986年に連作の「シンジケート」が第32回角川短歌賞次席となった後のエピソードである「はじめての本」。

 

 おかしい、と思う。「みてるひとはちゃんとみてる」んじゃなかったのか。一体、どうしたんだ。おーい、「みてるひと」、僕はここだよ。 p47

 

自分の作品が角川短歌賞次席となったにも関わらず、執筆依頼の手紙も来ず、なにも変わらない日々。このときの様子はこのページにも書かれている。

 

www.yomiuri.co.jp

 

神様、ちゃんとわたしの存在、認識していますよね?努力は報われるって、みてる人はみてるって聞いたはずなんだけど。何をしても報われない日々。このまま世界に対して、自分はなんの爪痕も残さずに死んでいくのだろうか。こういった感情はものすごく共感できる。穂村さんに関しては、連作の「シンジケート」が角川短歌賞次席となったうえでのこの感情であるが、何も成し遂げていなくとも本当の自分はもっとすごいはずなんだ、どこかになにかの才能があるはずなんだと、日々悶々として生きている人もいるのではないだろうか。いや、正確には別にすごくなくてもいいから、圧倒的に誰かに自分を分かってほしいという気持ちかもしれない。自分のことをだれかに認めてほしい、自分を必要としてほしい、だれかの人生にとって欠かせない存在でいたいという気持ち。

 

 

 

穂村さんのエッセイを読むと、ダメな自分を見ているようで直さなくてはと思うと同時に、そんな穂村さんの様子が愛おしくてこのままでもいいかと思ってしまったりする。もちろんシリアスなエッセイばかりではなく、いやそれは気にしすぎだろうというような笑えるものもたくさんある。そして、穂村さんのエッセイを入り口として、平凡な日常の裂け目を見つけるために、短歌を楽しむのも良いのではないだろうか。

 

 

この本を読んだら、アナログフィッシュの「Hello」を思い出した。