森博嗣のこの本、読み返すたびに考え方がいい方向にリセットされる。
タイトルは一見して難しそうではあるが、内容においてはそれほど難解な言葉が使われているわけではない。むしろかなり読みやすい文体で、「科学的である」とはどういうことかといったことが書かれている。
言葉がもつイメージ
我々は言葉によって様々なことを理解している。いや、正確には理解したつもりになっている。ここが言葉のやっかいな点なのである。著者は言葉をただ単に覚えるだけでは問題があると主張している。
言葉を覚えることで、無意識のうちに「立ち入らない」境界を作ってしまう。名称を知っていることと、それを理解していることとは同義ではない、という認識を常に持たなければならない。 p38
言葉、ここでは単語と言ったほうが分かりやすいかもしれないが、それを知っているだけではそれ自体が何を意味しているのか、どういったものであるのかを理解していることにはつながらないと著者はいう。その具体例として、東日本大震災でも多くの人の命を奪った「津波」を挙げて説明している。
(中略)専門家は津波現象を理解しているから名称がどうのこうのという問題は生じない。けれど、一般の人はその「波」という言葉だけで認識してしまう危険がある。
(中略)普通の波は主に風によって起こる現象で、水面近くで水が上下に運動し、これが水平方向へ伝播する。ビッグウェーブに乗っているサーファの映像を見たことがあるだろう。(中略)しかし、津波というのは、そういう「波」ではない。
地震によって沖合で海面が持ち上がる。(中略)数百メートル、数キロメートルという範囲で海面が持ち上がるので、その持ち上がった水量というのは、莫大な体積になる。そして、それだけの水が重力で下がる運動が伝播して岸へと押し寄せる。これが津波である。(中略)これは、波ではなく、どちらかというと、「高潮」に近い。津波という名称ではなく、「超高潮」と名付けていたら、人々のイメージはまた違ったものになっただろう。 p40
我々は「津波」という言葉を聞くと、著者が言っているように、サーファが乗る岸に打ちつけられるようなものをイメージしがちだ。しかし、実際に東日本大震災で起きた「津波」は、その映像を何度も見られた方もいるように、水面が徐々に上昇していき、静かにそして確実に街中を海水が満たしていくといったものであった。断続的に打ち寄せる波ではなく、不断に水が侵入してくるといったものである。
津波のメカニズム(内閣府・防災教育DVD「自分の命は自分で守る」より)
我々が「津波」という言葉を聞いてイメージしてしまうのは、上の映像における高波だ(2:45あたりから)。しかし実際の津波は先述したように高波とは全く異なっている。
このように、言葉だけでそれが何を意味するかを分かったつもりになるのは、非常に危険なのである。その言葉が意味する現象が、いったいどういった原理で起こっているのかを理解しなければ、その言葉を本当に知っているとは言えないのである。そして、こういった物事の道理を深くを理解することを面倒だと言って避けることは、いつか取り返しのつかない危険につながる可能性があるのだ。
科学とは
物事の道理を深く理解する、そのための方法が科学の考え方である。著者は科学とは次のような意味を表すと主張している。
科学とは「誰にでも再現ができるもの」である。また、この誰にでも再現できるというステップを踏むシステムこそが「科学的」という意味だ。 p75
科学では、ある現象が確認されたときに、それを確認できるのが自分だけではなく、同じ方法をとれば自分以外の人でも再現できることが重要なのである。それはつまり、科学とは自分だけが知り得る真理を明らかにするものではなく、あらゆる人々が「確かにそうだよね」と共通理解できる真理を明らかにする、提唱するといったものなのである。そのような真理は、あらゆる仮定を重ね試行を繰り返すことによって、ようやく確からしいのではないかと言えるようになる。そしてこのような、ある現象に関して再現できるかといったことを再現性という。この再現性が得られるようになることで、我々はある出来事が起きたときに、これは以前こういった現象の発生につながったという事実から未来を予測できるようになるのだ。
しかし科学というものは決して魔法のようなものではないのである。
科学者は、すべてが説明できることを願っているけれど、すべてがまだ説明できていないことを誰よりも知っている。どの範囲までがまあまあの精度で予測できるかを知っているだけだ。 p85
このことは非常に重要だ。科学に携わっていない人、いや今の時代生きていれば人間は必ずなにかしら科学と関わっているはずなのだけれど、いわゆる文系で研究などをあまりしたことのない人は、意外とこのことが分かっていない気がする。以前、テレビ番組の「ワイドナショー」において、気象予報士の石原良純が「2019年の天気はどうなるのでしょう」という質問をされ、「つまらない質問をするな」と怒っていた。実際、今の科学の力では3ヵ月先までの天気しか予測することはできず、それ以上先のことは分からない。これが現代の科学の限界なのである。この事実はどうあがいたところで変わりはしない。それにもかかわらず、番組のスタッフは、そこを何とかといった具合に、どうしても2019年全体の予測を聞こうとする。実際に予測することができない期間の"おそらく"の情報に、果たして一体何の意味があるのだろうか。そのスタッフは確かでもない"おそらく"情報を聞いて信じるのだろうか。さらには、石原良純に対して「良純さんはすぐに分からないという」とスタッフは言っていた。それに対して石原良純は「分からないのが普通だから」と答えていた。科学は気持ちでどうにかなるものではない。なぜそれが分からないのか。ましてや気持ち次第で結果が変わってしまうものなど、余計に信じることなどできないのではないだろうか。予測もできないことを憶測でしゃべるのはただの嘘つきと一緒ではないか。挙句の果てには「天気予報よりも、雲の形によってどんな天気になるといった先人の知恵の方がよっぽど信頼できる」などと言い出すでゲストまでいた。正直この発言にはびっくりした。そういった雲の形などをより詳細に分析して予報しているのが天気予報であるのに。なぜこのような考えに至ってしまうのか。科学を完全なものとでも勘違いしているのだろうか。何度も言うが、科学は決して魔法などではないのだ。100%未来が予測できるなどありえないのである。それでもかなりの確率で「こういった大気の状態のときはこのような天気になるであろう」といったことを予測出来ることが、どれだけ凄いことか。できることと、できないことを正確に理解したうえで、今の時点で言えることを嘘偽りなくはっきりと言うのが科学的な言葉なのだ。70%の確率のことはそれ以上でも以下でもない。しかし、そのような発言をしたゲストのような人たちは、科学は絶対であると思い込んでおり、予測が外れた場合、それは科学が「間違えた」と勘違いしているのである。正直わたしは、この番組を見て辟易してしまった。
科学的であるためには
最初に述べたように、我々は言葉というものをイメージで捉えてしまい、正確に理解できていない部分が多々ある。このようなことを防ぐためには科学的である必要がある。では科学的であるためにはどうすればいいのだろうか。
そのひとつとしてはまず、数値によって物事を把握するといったものがある。この世にはメートルやグラムといった様々な単位が定義されており、このような単位を基準として用いることで、異なった物質を比較することができる。この本ではコンクリートとアルミはどちらが重いだろうといったことを具体例として挙げている。このどちらが重いということを考える際には、比重というものがものさしとなる。比重とは体積当たりの重さのことである。簡単にいえば同じ体積の2つの物質の比重を比較したとき、比重の大きいものの方が重いということになる。ではコンクリートとアルミの比重はどちらが大きいのだろうか。コンクリートにも普通コンクリートや鉄筋コンクリート、軽量コンクリートといった種類があるのだが、ここでは普通コンクリートの場合を考えてみる。普通コンクリートの比重は、一般的に2.3とされており、アルミの比重は2.7である(ちなみにアルミにも純アルミや合金アルミなどの種類がある)。コンクリートはアルミよりも軽いのである。コンクリートの方がアルミよりも重いといった印象を抱いていた方もいるのではないだろうか。このように数値を用いることでイメージに左右されずに物事を正確に比較することができるのである。
そして、もうひとつの科学的であるためのものは、問い続けるといったことである。「鳥はどうして飛べるのか」⇒「羽があるから」、では果たして羽があるということが飛ぶための唯一の条件なのだろうか、また、羽のどのような効果によって空が飛べるようになるのかといったように、ある問いの答えに対してさらに問いを深めていくといったことが大切なのである。このような姿勢をとることは本当に骨の折れることだと思う。正直めんどくさいことでもある。しかし、このように問い続けることで物事の本質を理解できるようになるのだ。
我々は今の時代、科学の力なしではもはや生きていくことは難しい。しかし、そんな身の回りの科学のによって成り立っているものの仕組みを理解できているだろうか。与えられたものを疑うこともなく受け入れてしまっている現状はあると思う。私自身、この本を読んだ感想を偉そうに書いているが、全く科学的であるといったことを実践できていない。しかし、このままなんとなくで色んな物事をないがしろにして受け入れていると、いつか大きなしっぺ返しを食らうのではないか。いや、もはやそんな目に合っていると言える出来事がいくつか頭に浮かぶ。そして、このような出来事は決して科学の力が悪いのではなく、科学の力を正確に理解せずに、なんとなく受け入れてきたその姿勢によって起きた問題なのである。
カリスマ的な指導者の発言が国民を動かしたりするようなことは、科学にはない。また、科学は、一部の特権階級にだけ、その恩恵をもたらすものでもない。科学は、経済のように暴走しないし、利潤追求にも走らない。自然環境を破壊しているのは、科学ではなく、経済ではないか。 p91
科学を取り扱う姿勢についてはこれまでも問われてきており、そしてこれからも常に問われ続けることになるのだろう。