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思考する時間においてのみ人生は自分に近づいてくる(保坂和志「人生を感じる時間」)

小説家の保坂和志が人生について考えたことを書いたこの本。

 

文庫 人生を感じる時間 (草思社文庫)

文庫 人生を感じる時間 (草思社文庫)

 

 

保坂さんの書いた随筆というか考えを書いた本に共感することは多い。そして自分が抱いてはいるがうまく言葉に表すことができないモヤモヤを、保坂さんの本を読むことではっきりと認識できるようになる。

 

大人とは

保坂さんの大人に関する考えにはひどく共感できる。

 

(中略)大人には二つのタイプがあって、ひとつは進んで大人になった大人で、もうひとつは子どもじゃなくなったために大人としか名乗れなくなった大人ーーーで、私は間違いなく後者だ。  p76

 

これは大人のいう、買ったり、賭けたり、飲んだりといった行為が、果たして本当に遊ぶことといえるだろうかという流れから書かれた文章だ。仮に、引用した文章に書かれているような自ら進んで大人になった大人というものが、買ったり、賭けたり、飲んだりといった行為を積極的に行うことでなれるものであるならば、私も間違いなく保坂さんと同じで後者のタイプの大人に該当するだろう。私はそれほどモノを買うことで満たされることはないし、賭け事もしない。仲のいい友達との食事はお酒など飲まなくても十分に楽しい。ただ実際、就職して会社の人に誘われるものは麻雀や競馬、飲み会ばかりだ。確かにそれらが楽しくないわけではない。しかし、少年時代にしていた遊びと比べたら、なにかが決定的に足りないのだ。大学生のころ、友達に麻雀を教えてもらっていたときにふと外に出ると、ものすごく天気が良かった。そのときに抱いた「こんなに晴れてるのに、なんで外で遊ばないんだろう」という違和感。そのあと麻雀に戻っても全然楽しめなくなってしまった。それに比べて講義と講義の間にしたキャッチボールの楽しさは自然であった。確かに大人の遊ぶは、楽しいから遊ぶといったものではなく、楽しくないことがあるから遊ぶといった消極的な動機に思えることがしばしばある。それは子どものころの遊びに比べたら自然ではなく、無理してるよなあと思ってしまう。大人になってからの、遊びの時間を浪費している感覚。この感覚こそ、大人になり消費というシステムを叩き込まれた証拠なのかもしれない。

 

そもそも大人ってなんだとは常々思う。みんな大人になりたいのだろうか。いや、この疑問はそもそも「大人」というものがどういったものであるのか、はっきりしていない時点で正しくはないのかもしれない。大学生のころに親から「まだまだ考え方が子どもやな」と言われたときに「そもそも大人とは?あなたのような人のことを大人というのか?」と、腑に落ちなかったことを思い出す。そして、あなたたちは今の私と同じように、「大人とはなんだろう?」と考えたことがあるのだろうかと感じた。ポール・ヴァレリーが「テスト氏」という作品で青年期の特徴を

 

わたしは正確さを追い求めるという急性の病にかかっていた。

 

と表現していたが、このモヤモヤをなんとなく受け入れて生きていくことが、大人になるということなのだろうか。やっぱり私はそうは思えなくて、保坂さんが言うように

 

 子どもというのは大人が思うよりずっと、いろいろなことがわかっているもので、「大人に訊けばわかる疑問」と「大人に訊いてもわからない疑問」の区別がけっこうちゃんとついていて、自分がわだかまりと感じていることが「大人に訊いてもわからない疑問」の方だと思ったら、大人に訊かず、自分の心にしまい込む。そしてやっぱり実際に自分が大人になってもわからなくて、わだかまりはわだかまりのままになっている・・・・・・ p90 

 

といったものが大人であると私は思うのだ。そして、

 

 古い映画の話で恐縮だが、『ゴーストバスターズ』で、ビル・マーレー演じるマッド・サイエンティストが仲間から機械の使用に際しての注意を受けたときに、

「きちんと説明してくれないか。私はいい事と悪い事の区別がつかないんだ。」

 と言うところがあるが、この台詞を聞いて私は嬉しくなった。「そうなんだよ!こういうことが自然に言い合える環境の中で生きたかったんだよ、俺は!」という気持ちだった。 p92 

 

というエピソードに共感を覚えて仕方がない。こういったことを日常生活で言うと「はあ?」と思われてしまうだろう。しかし、芸術作品の中では言える。そして、そういったことを言ってくれる作品に出会えた時に救われた気持ちになるのだ。さらには日常生活でこんなことを言ってくれる人を目の前で見たら、感動して友達になってほしいとさえ思うだろう。

 

言葉とは

 

それでは大人というものを理解するためにはどうすればいいのだろう。そもそも「大人」と「子ども」は対となる言葉なのだろうか。そもそも言葉というものは、表記上は反対の意味を成す組み合わせが存在するが、それぞれの言葉の意味、中身はどの言葉とも簡単に対を成す関係にはならない。このことはこの本にも「おいしい」と「まずい」を別の例として挙げて書かれている。「おいしい」と「まずい」といった便宜上の表現においては二つの組み合わせが対になっているように思えるが、それぞれ「おいしい」と「まずい」の言葉の意味、中身がそれぞれが独立して厳然と成り立っている。「おいしい」という言葉を使うときに自分が感じている感覚と、「まずい」という言葉を使うときの自分の抱いている感覚は、果たして単純にそれぞれが反対の感覚といえるようなものであろうか。

 

例えば「死」という言葉。我々は「死」という言葉を使うことがあるが、その言葉の中身は決して知りえない。それでもやはり、「死」というものが「死」という言葉として存在しているから、なんとなく分かったように「死」という言葉を使う。この本ではこの「死」という言葉以外の様々な言葉についても同様のことが書かれている。

 

 <死>とか<永遠>とか、あるいは<無限>とか<無>とか、それらの言葉を知っているかのように使ってしまったら、私が最初に書いた意味での「思考」を放棄したことになる。 p134

 

保坂さんがここで言う思考とは、世界がどういったものであるのかといったことや、世界と自分はどういった関係であるのかといったことを考えるということだ。<死>や<永遠>といった言葉の中身は本来、絶対に知りえないものなのである。そして、私はこれらと並んで先ほどの「大人」と「子ども」に関しても、同様のものではないかと考えている。いや、それだけではなく、保坂さんはそもそも、私たちのこの身体それ自体が「理解できないもの」、「知りえないもの」なのではないだろうかという。我々の身体は言葉の記号性におさまるようなものではないと。しかし、「理解できないもの」、「知りえないもの」である身体それ自体は思考をしている。う~ん、話が難しい。私はこの思考しているということを次のように考えた。確かに、言葉で「死」というものを表すことはできない。この「死」という言葉だけで「死」が一体どういったものかを知ることはできない。そもそも先ほども書いたように「死」は理解しえないものなのだ。しかし、理解しえないとは言えども、「死」に関して考えを巡らせるとき、そのときに「死」というものが、グッと自分の方に寄ってきているような気はしないだろうか。漠然とはしているが、単に「死」という言葉を見たときとは異なった感覚として、「死」というものを感じないだろうか。このような感覚をひたすらに手繰り寄せ続けることを、思考を続けるというのではないかと私は感じた。

 

思考する

そして、思考するという行為は単に言葉によってのみ行われるものではない。

 

 「こういうことは音楽でしか表現できない」と感じたときに、私たちはその音楽を通じて、世界についてのイマジネーションを得ているのだ。世界というのは言葉を超えたもので、音楽のイマジネーションや絵画のイマジネーションによって、それを予感することしかできない。 p214 

 

それぞれが自分の経験によって得た世界像や世界と自分との関りを、音楽や絵の形にするという行為をもって思考することもあるのである。そして、小説も単に言葉というものではないと保坂さんは言う。

 

ことあるごとに言っていることだが、小説もまた本質においては言葉を超えたものであって、小説に流れる時間のうねりのようなものによって読者は遠いところまで連れて行かれて、その時間の渦の中にいるときだけ世界についてのイマジネーションが与えられる。 p214 

 

保坂さんは別の著作品においても、小説は小説を読んでいる間しか存在しないと言っている。これは小説を読んでいる間のみ、小説に流れる時間のうねりのようなものによって思考が生み出され、世界に対する感覚を手繰り寄せることができるということではないだろうか。

 

 

思考を放棄してしまえば、世界は途端につまらないものになってしまうのではないか。思考し続ける、それが人生を感じられる唯一の方法であると、この本から学べた気がする。