牛車で往く

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清見オレンジと芥川龍之介の「蜜柑」

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冬は寒くていやだ、早く春になってほしいと散々このブログに書いておきながら、いざ冬が終わってしまうと思うとなんだか名残惜しい。なんて勝手なことをいっているんだと自分でも思うが、いやな思い出もいつかは笑い話になるがごとく、寒い冬の辛さはあまり印象に残らず、鍋を食べたり、こたつでダラダラしたり、年末に実家に帰って色んな人に会ったりしたことばかりが思い出される。最近は冬が終わると思うと、なんだか後ろ髪を引かれるような気分になって、マッキーの「北風 ~君にとどきますように~」をしがみつくように聴きまくっている。

 


槇原敬之 - 北風 ~君にとどきますように~

 

今年は雪が降った日は3日ぐらいしかなかった気がする。なんだかんだいって暖冬であったなあ。さらには冷凍庫にある水餃子を消費するべく、毎週金曜日にキムチ鍋を食べ続けている。キムチ鍋は最高だ。〆はキム兄がいっていた出前一丁がめちゃくちゃ美味しい。ごまラー油の香りの良さよ。

 

そして、冬の鉄板、こたつにみかん。この組み合わせ、輸出しましょう。毎年、こたつは春になってもずるずると出したままになってしまう。三寒四温とはよくいったもので春は思い出したように寒い日が来ることがある。だから、こたつを片付けるタイミングがなかなか掴めない。

 

最近、スーパーに買い物に行ったときに見つけた清見オレンジが美味しそうで、衝動的に買ってしまった。ただこの清見オレンジ、皮が分厚くて剥きにくいこと、剥きにくいこと。調べると包丁で切って食べる方法がオススメと出てくるが、わざわざ切るのも面倒であるし、切った包丁を洗うのもめんどくさい。というか、こたつでダラダラしていて『なんか口がさびしいな』と思ったときに、ちょっと手を伸ばしてすぐに食べられるのがみかんの良さなのだ。だからもう皮は分厚いけれども意地になって手で剥いて食べている。2分ぐらいかけて剥いているから、食べるのが億劫になる。包丁を使ったほうが確実に早いが、なんだかそうする気が起きない。包丁使えばいいのに、自分。でもいいねん、ほっといてくれ、自分よ。そして、苦労して剥いた末に食べる清見オレンジの美味しさよ。この美味しさを味わうためにあえて手で剥いているというのは、どう考えても過言である。包丁使おう。

 

それにしてもこの清見オレンジ、果たしてみかんなのかオレンジなのか。中の果実の味や見た目はみかんに近い気がするが、皮の剥きづらさはオレンジっぽい。調べると、温州みかんとオレンジを交配させたハイブリッドタイプの果物のようだ。

 

 

www.maruka-ishikawa.co.jp

 

どうでもいいが温州を"うんしゅう"と読めるようになったのはいつからだろうか。清見オレンジの"清見"は、清見オレンジの誕生地である静岡県にある清見潟にちなんで付けられたらしい。みかんの要素は名前から完全に消え去っている。みかん Don't Cry。

 


安室奈美恵 / 「Baby Don't Cry」Music Video

 

ホンマに名曲。

 

そしてみかんといえば、芥川龍之介の「蜜柑」。

 

www.aozora.gr.jp

 

わたしはこの話が大人になってから好きになった。確か小学生か中学生のころに、国語の授業で一度読んだのだが、そのときは全くいいと思わなかった。だが、大人になってから読むと、話の中で小娘が投げた蜜柑の「心を躍らすばかり暖な日の色」というものをありありと思い浮かべることができる。この芥川龍之介の「蜜柑」は、短い文字数で、ものすごく綺麗にまとめられていて無駄がない。汽車の中での主人公の数々の描写。

 

私の頭の中には云いようのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のようなどんよりした影を落していた。私は外套のポッケットへじっと両手をつっこんだまま、そこにはいっている夕刊を出して見ようと云う元気さえ起らなかった。

 

私はこの小娘の下品な顔だちを好まなかった。それから彼女の服装が不潔なのもやはり不快だった。最後にその二等と三等との区別さえも弁えない愚鈍な心が腹立たしかった。だから巻煙草に火をつけた私は、一つにはこの小娘の存在を忘れたいと云う心もちもあって、今度はポッケットの夕刊を漫然と膝の上へひろげて見た。

 

この隧道(トンネル)の中の汽車と、この田舎者の小娘と、そうして又この平凡な記事に埋っている夕刊と、――これが象徴でなくて何であろう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であろう。私は一切がくだらなくなって、読みかけた夕刊を抛り出すと、又窓枠に頭を靠せながら、死んだように眼をつぶって、うつらうつらし始めた。

 

これらの描写はいずれも、疲れて電車に乗った際に一度は抱いたことのある感情だ。持ってきた小説を読む気も起きないほど疲れている日もある。そして、二つ目に引用したようなことを芥川龍之介はしっかりと書いてくれるから、わたしは彼の小説が好きなのかもしれない。実際、わたしも電車に乗っていて自分の隣の席に見た目の悪い人が座ってくると少し不快に感じることがある。人を見かけで判断してはならない、それはもちろん絶対にそうである。ただ、この小説でも描写されているように、疲れているときは、小さなことが全て鬱陶しく思えるときがある。疲れているときの自分の心の狭さ、そして心の汚さを感じる。そして、疲れていないときにこんなことを思わないのが本当の自分の姿というものではなく、そういう表裏を一体に含んだものが人間であると、芥川龍之介の小説を読むと意識させられるのだ。

 

この汽車の中での憂鬱で退屈な時間。そんな時間の中で目にする、この小娘や弟たちのような純粋で他人を思いやる人々の姿。その姿は小娘が投げた蜜柑のように、くっきりとした印象をわたしの心に刻んでくれる。

 

ただやはり、この「蜜柑」の素晴らしさが分かるようになるといったことは同時に、人生の憂鬱で退屈な時間も味わうようになったということだろう。当時、小学生もしくは中学生のわたしがこの「蜜柑」の素晴らしさを理解できなかったのも無理はないように思える。理解できるようになったことが良いことなのか、悪いことなのかは分からないが。