牛車で往く

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旅行代理店の前を通るときの気持ちと、うしろのほうの海

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旅行代理店の前を通るたびに、店の前に出されている様々な旅行先のパンフレットが気になってしまう。そして、旅行に行けたとして年に最大2~3回ぐらいかなあと考えると、この先いろんなところに旅行に行くためには全然時間が足りないじゃないかと思う。この夏、どこかに旅行に行きたいなあ。そして、去年の夏の旅行のことを思い出す。8月に行った旅行、暑すぎて楽しさよりもしんどさの方が勝ってたんじゃないかと思う。もちろん思い出の中では楽しいものになっているんだけれど。そんな夏の旅行のことを考えていると、1ヶ月以上の長期休暇なんて、この先の人生においてもう全然訪れないんだろうなという、おそらくこれまで何人もの人が考えたことのあることを、ご多分に漏れず自分も考えてしまった。そんなことを考えたからって、夏休みをたっぷりとれるような人生に変えようとどうこうするつもりはないけれど、急に精神的にしんどいなあなんて思ってしまった。かといって、膨大な時間を与えられていた大学時代の夏休みを有意義に過ごせていたかと問われれば、イエスとは答えられない。そして、仮に今の自分がタイムスリップして大学時代の夏休みを過ごせたとして、何をしたらいいかは全然思いつかない。う~ん、悲しいね。でも、これに似たようなことは毎週末味わっていて、休日が始まったばかりの土曜日はダラダラしてしまい、休日が終わろうとする日曜日の夜に『ああ、この休日の間にあれやっとけば良かった・・・。』と思ってしまう。そしてこの経験が次の週の土日に活かされることなんてほとんどない。タイムスリップしても、私は今の私と、さほど変わらない人生を歩んでしまう気がする。それどころか今よりも・・・。


土曜日に、スズリという誰でも簡単にオリジナルデザインのTシャツを販売できるサイトを眺めていた。

 

suzuri.jp

 

いろんな人たちが、オシャレであったり面白かったりするTシャツをデザインしては販売している。そんななか、販売を目的としているのではなく、誰かが誰かに個人的にプレゼントするためにデザインされたTシャツを時折見つける。多くの人に受け取ってもらおうとかそんな考えは一切感じられない、ただプレゼントする人ひとりのために考えられたデザイン。おそらくデザインした人周辺の人の若い頃の写真や、その人たちにしか理解できないメッセージが載せられたTシャツ。明らかにその他のTシャツと違って異質であり、浮いている。それらのTシャツがやたらと目につくのと同時に、なぜか憧れのような感情を抱いてしまう。


そんな風にスズリを眺めながら、Lantern Paradeの「花」を聴く。

 

 

ビートルズのハーモニーもスライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンのファンキーもカーティス・メイフィールドのメロウネスも夢中にならない人のほうが遙かに多いという歌詞。確かに周りにはビートルズは知っていても、スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンとカーティス・メイフィールドは知らない人の方が多い。そして自分自身、ビートルズのハーモニーやスライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンのファンキー、カーティス・メイフィールドのメロウネスに夢中になっているかと言われれば、そんなことはない。それでもおそらく、自分は周囲の友人よりは色んなアーティストを知っている方であり、そんな自分よりももっと色んなアーティストを知っている人たちは当たり前のこととしてたくさんいて、そしてさらに、その人たちよりももっと詳しい人たちがいて・・・。色んな作品を知っていなくても、自分にとって意味のある作品だけを知っていたらいいんじゃないかって思うこともある。それでも外から見れば、もっと世の中には良いものがあふれているのにと思われてしまうんだろうか。私たちはどこまで行ってもすべての作品を聴いたり、見たり、触れたりすることはできない。そんな事実に途方もなさを感じる。それに加えて、私にとっては人生を変えうる決定的な作品であったかもしれないのに、日の目を浴びずに埋もれてしまった作品もこの世にはあったのだろうかということまで考えてしまう。売れなかったから埋もれてしまった作品。世間の人には受け入れられなかったけれど、私個人には刺さっていたかもしれない作品。とはいえ、そもそも何かに人生を変えられるほど私は感受性が豊かなのだろうか。私には他人にオススメされた作品を素直に受け入れることができないときがある。自分にとっては良い作品とは思えないから、それはもうしょうがないことだと思ってしまうんだけれど、逆に自分の好きな作品の良さが友人に伝わらないときは、本当に理解できない気持ちになる。『なんでこんなに良いのに、面白いのに、素晴らしいのに分からへんねやろう?』って。私は、自分自身の感性は絶対であると信じているんだろう。それは傲慢なことなのだろうか。でも、自分の感性が信じられなくなったら生きていけないじゃないかって思うこともある。そして、友人たちも私が彼らからオススメされたものの良さが分からないときに、おんなじような感情を抱いているんだろうか。思ってんだろうね、多分。


日曜日には、永田紅の「ぼんやりしているうちに」を読んだ。

 

ぼんやりしているうちに―永田紅歌集 (21世紀歌人シリーズ)

ぼんやりしているうちに―永田紅歌集 (21世紀歌人シリーズ)

 

 

夏に長らく海に行っていない。嘘。沖縄には結構行っていて、そのたびに海には入っている。でもそれはマリンスポーツの類いであり、海水浴は長らくしていない。それでも永田紅の短歌の

 

袋から出すときタオルのあたたかく湿りて海はうしろのほうよ


で思い出される感覚が確かにある。私はあの湿ってあったかい水着とかタオルが気持ち悪くて嫌いだったな。でもこの歌を読んで、あのあたたかさは海を引き連れていたんだということに気づかされた。海はうしろのほうよという部分からは、海水浴を終えて海から遠ざかっていく物理的距離とともに、もう海には入らなくなり思い出すだけの海水浴になってしまった心理的距離を私は感じてしまう。夏のノスタルジー。春も秋も冬もそれぞれにノスタルジーを感じている気がするけれど。andymoriの「すごい速さ」の歌詞

 

そのセンチメンタルはいつかお前の身を滅ぼすのかもしれないよ

感傷中毒の患者 禁断症状 映画館へ走る


の部分を聴いて、自分は感傷に浸りたくて無理矢理いろんなことを思い出そうとしてるんじゃないかって思う。

 


andymori "すごい速さ"

 

それでもやめられないから、自分はもう感傷中毒の患者なんでしょう。いつからなんだろう。

 

学生の最後の年となりぬれど牛のようには懐古するまい  永田紅

 
学生じゃなくなって、はや数年です。