牛車で往く

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誕生日とクリスマスのプレゼントを一緒にされていたクラスメイトの女子(a flood of circle「オーロラソング」)

12月23日が終わってから20分後に、a flood of circleの「オーロラソング」を聴き逃していたことに気づいた。別にわざわざ聴かなきゃと思っていたわけではないのだけれど、ふと思い出してしまった分、聴き逃がした感が強い。

 

 

12月23日生まれ プレゼントはまとめてもらうもんだと思ってる君に

オーロラを持って帰る方法を考えるサンデー

 

小学生のころのクラスメイトに、誕生日が12月25日、つまりはクリスマス当日の女の子がいて、その子が「わたしは誕生日とクリスマスのプレゼントをひとまとめにされていて、プレゼントをひとつ損している。」と怒っていたことを思い出す。彼女が損をしていたのは誕生日プレゼントのほうなのか、それともクリスマスプレゼントのほうなのか。もしもそのプレゼントが、目が覚めて枕元に置かれていたのならば、それは誕生日プレゼントを損していることになり、枕元には何も置かれておらず直接プレゼントをもらっていたのであれば、クリスマスプレゼントを損していることになるのだろう。そもそも誕生日とクリスマスのプレゼントがひとまとめにされていると怒っていた彼女は、サンタクロースの真実をいつから知っていたのだろうか。まとめられているという発言は、どちらのプレゼントも両親によってもたらされるものと気づいている証ではないのか。当時、その話を聞いたわたしはそのことに全く気づいてはいなかったけれど。わたしは、小学生の間はサンタクロースの真実を知らないままであった。でもそれは今思うとサンタクロースがいると信じていたのではなくて、クリスマスの朝に目が覚めると枕元に置かれているプレゼントが誰によるものなのかは気にせず、ただただクリスマスの朝には置かれているもんなんだと捉えていたという感じであった。そんなクリスマスが誕生日の彼女は、小学生高学年の女子でありながら週刊少年ジャンプを読んでいて男子たちと対等に漫画の話ができる存在であったから、わたしは密かに彼女のことを尊敬していた。「こいつ、女子やのにめっちゃ面白いやん。」てな風に。そしてわたしが彼女を尊敬していたのは、そのジャンプの一件のみではなかった。わたしと彼女がいたクラスの教室の後ろには、それぞれの生徒が作った自己紹介のポスターが掲示されていたのだが、彼女のポスターの好きなテレビ番組という項目にまだ土曜の朝10時の枠で放送されていた「トリビアの泉」の名が書かれていた。それを見たわたしは『ん〜?トリビアの泉ぃ?聞いたことないぞ。なんやこの番組は。気になるな〜。』と思い、早速次の土曜日の朝にトリビアの泉なる番組を見ることにした。それがもうとてつもなく面白くて、わたしはますます彼女に対する尊敬の念を深めることとなった。さらにはその「トリビアの泉」は、間もなくしてゴールデンに進出し小学校でも人気の番組となった。『このめちゃくちゃ面白い番組をあの時点で知っていたなんて・・・。なんなんだアイツは・・・。』と、この時にはもはや彼女を崇拝するにまで至っていた。彼女は、わたしが人生で初めて他人のセンスというものに憧れた存在かもしれない。いまも彼女は面白くて素敵なセンスを持ったままであるのだろうか。

 

クリスマスの時期ともなれば、それはもう立派な冬である。最近は17時前ぐらいには空はすでに暗くなっている。夜はできるだけ長い方がいいと思うが、夏のあの、明るいうちにお風呂に入って出てきてもまだ明るいといった雰囲気が好きだから、なんだか今現在の冬の夜が訪れるスピード感にはモヤモヤする。というか、正確には夜はできるだけ長い方がいいと言うよりは、朝ができるだけ来ないままの方がいいということだ。特に次の日の仕事が憂鬱な日曜日の夜は、寝てしまうと明日が来るから布団の中でスマホをいじって粘ってしまう。そのときに画面上部のチラチラと目に入る時計の時刻がわたしに焦燥感を与える。特に2:00を回ったあたりでは、もう駄目だって感じだ。眠りは明日を迎えに行ってしまう行為。わたしは朝に出会いたくないのに。夜の間に、自分は自分の好きなように人生を送ろうと決意しても、朝が来ると身ぐるみを剥がされたようにそんな気持ちはどこかへ失くなってしまっている。なんじゃ、あの虚無感は。そう思うと人質にされている3日の間、メロスのことをたった一度しか疑わなかったセリヌンティウスは凄いよ。よう一回だけで済んで希望を持ち続けたわ。わたしなんて夜中の2:00を回っただけで絶望感が凄いのに。

 

そんな風に朝を迎えて出社する。会社に着くと毎朝8時30分からラジオ体操をするのだが、前屈後に背中を伸ばす運動のときに空を見上げると、飛行機が目に入るときがある。

 

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毎日見えるわけではないので、飛行機はそれほど正確なタイムスケジュールで飛んでいないんだなあとか、毎日空の同じルートを通るわけではないんだなあとか、どうでもいいことが頭に浮かぶ。そして飛行機を見るたびに旅に出たいと思ってしまう。旅に出たいのか、それともこんな日常をやめたいのか、どちらが本当のところなのかは分からないが。どうも自分は、予定を立てられるとそれを意識して息苦しくなるタイプだということに今さら気づいた。常にフリーでありたい。そしてわたしと同じように、ラジオ体操中に飛行機を見つけてはこんなことを考えている人は、わたし以外にもいるんだろうかと考えてしまう。ラジオ体操をしている周りの人たちを見て、まるでそんな人がいるように思えないのは、自分のことばかりが大切だからだろうか。どうしてこんなにも他人の苦悩や悩みはリアリティをもって迫って来ないのか。みんなそれぞれにそれぞれの苦悩を抱えているはずなのに、それがわたしには全くそうは思えないのである。っていう風にして、自分以外の人にもそれぞれの悩みがあるとは思えないと思っている人は周りにいるんだろうか。多分、いるよと思う。宇宙人よりはいる可能性が高いでしょう。だってわたしも他人にこんなことを考えているなんて明かしたこともないし、気づかれるような素振りをとったこともないから。他の人からしたら、わたしも何も考えずに呑気に生きているように見えてるのだろうよ。それでもわたしはそんなことを考えながら生きているのだから、他の人も同じようなことを考えながら生きていてもおかしくない。サンタクロースをいつまで信じていたのかさえ互いに知らない間柄なのに、それよりももっと深刻なことなんて中々分かり合えるもんじゃないよね。そりゃそうだ。