牛車で往く

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なかったかもしれない思い出とあったはずの出来事(滝口悠生「半ドンでパン」)

最近はスーパーに買い物に行くと、新玉ねぎが売られている。新玉ねぎが普通の玉ねぎと何が違うのかも分かっていないのに、名前に”新”が付いているだけで、普通の玉ねぎよりも美味しそうに思えてくる自らの浅はかさ。シン・タマネギ(シン・ゴジラのシンの意味も知らなければ、見てすらないです。すみません。)とは何ぞやと調べてみますと、普通の玉ねぎは収穫して乾燥させるところを、新玉ねぎは収穫して乾燥させずに即出荷させたものであるらしい。そのおかげで水分を多く含んでおり、苦みが少なく生で食べるのにいいんだとか。そんなこととはつゆ知らず、ガシガシに炒め物として食すために新玉ねぎを買いまくっている。生で食べずに炒めて食べてもめちゃくちゃ美味しい。そんな新玉ねぎ炒めライフを送っていたある日、買ってきた新玉ねぎを川から流れてきた桃のごとくパカッと真っ二つに切ったところ、中から赤ん坊ではなく、なにやら茶色い層が姿を現した。7層ぐらいあるうちの3層目の一層が茶色くなっている。まるで炒めてあめ色になったような見た目。なんやこれと思いつつ、スマホで調べてみると、どうやらその一層は腐っているらしいことが分かった。突然現れた腐った一層に戸惑いながらも、取り除けばそれ以外の部分は食べられるということで、豚キムチにして食べたら美味しかったので安心した。でも、次の日の勤務中にふと、美味しくても身体に悪いことはあるだろうし、美味しかったから安心したというのもおかしいなという考えが頭に浮かんだのだが、結局お腹が痛くなることはなく、無事に日中を過ごせた。新玉ねぎは十分に乾燥させていない分、普通の玉ねぎよりも腐りやすいそうで、今後は良い玉ねぎの見分け方を学んで駆使していこうといった所存です。ちなみに良い玉ねぎの見分け方は下に書いた通り。

 

  • 平べったいものよりも丸いもの
  • 皮が乾燥している
  • 固い

 

先日は久しぶりに本屋に行って、「特別ではない一日」という本を買った。

 

 

様々な作家が書いた短文を集めた本なのだが、その中でも滝口悠生の書いた「半ドンでパン」がめちゃくちゃ良かった。自分は午前中に授業があって午後から休みである土曜日のことを半ドンとは呼んでいなかったが、まあそんなことはどうでもよくて、これを読むと小学生時代のこと、特にそのころの休日の空気感が思い出される。土曜日の朝、学校に行くために目を覚ますと、平日にはすでに会社に行っており家にいないはずの父親が、大きな口を開けていびきをかきながら布団の上で寝ている。それを横目に起き上がり学校へ行く支度をする、そんな土曜日の始まり。土曜日を思い出す手がかりとしてパンを題材に設定したのが、この短文の素晴らしいところ。確かにお昼ご飯を買いにパン屋に行くって、なぜか休日のワンシーンとして強烈に記憶に残っている。そして、この話のいいところは、小学生時代の懐かしさを喚起する描写だけではなく、小学生時代のことを思い出しながら今現在の筆者が考えたことに関する描写もいいのだ。

 

なんだか思い出せば出すほど、私は清白なずな先生を嫌いじゃなかったみたいな気持ちになってきて、それは過去の自分への裏切りみたいなことになるのだろうか。

 

筆者である滝口悠生が、中学生時代の好きじゃなかったはずの社会の先生について思い出していると、次第に当時とは違って嫌いではなかったような気持ちを抱き始めたときの一文。わたしも大学生になったくらいからこんな風に、何かを懐かしんで振り返った際に、その当時に抱いていた感情とは違った感情を抱くことが次第に増えてきたことを覚えている。記憶を思い出すといった行為は、その当時の自分の価値観ではなく、今の自分の価値観で記憶を整理し直すということなのかもしれない。だから、整理し直したことで記憶の中の出来事がいい思い出に変わったり、許せるようになったりする。だけれども、大人になって色んな経験をして過去の出来事を許せるようになる、それ自体は本当に無条件でいいことなんだろうか。幼いころの潔癖だった自分のことを考えると、許すことがまるで諦めたことのように思えてくるのと同時に、それが過去の自分に対する裏切りのようにも思えてくる。他人の許せなかった行為を理解できるようになるということは、今の自分がそれと同じ行為を取った場合に、自分で自分自身を許してしまうということになるだろう。過去の自分が許せなかった行為を今の自分がとってしまっている自己矛盾。そういう風にして生じた過去との軋轢を時折感じながら、大人になってきた気がする。

 

土曜日のたびに、私は私の土曜日を思い出すドン。 たとえばこうして書いたみたいな。あるいは今日は思い出さなかった土曜日もあって、それは今度の土曜日に思い出すかもしれないし、思い出さないかもしれない。それは土曜日にならないとわからないけれど、いろいろな土曜日がこれまであったし、今日も含めた土曜日がこれからも増えていく。

 

 

上に呟いたように、わたしには、思い出せない記憶のほうに心が惹かれて、そこに何か今の自分にとって愛しい瞬間などが隠れていたりするんじゃないかと考えてしまうときがある。当時の自分にとっては何気ないことでも、今の自分にとっては宝物のように感じられること。例えば、中高のころの卒業式なんて、もはや何気ない日常じゃなくてインパクトのある出来事のはずなのに全く思い出せない。でも、今の自分がタイムスリップしてもう一度体験したならば、絶対に忘れないような瞬間の連続だったんじゃないかと思う。もっと言えば卒業式の前日も人生にはあったわけで、でも本当にそんな『明日で高校生活も終わりか・・・。』と思った日があったなんて思えないくらい、本当に記憶にない。そんな思い出せない記憶は、思い出そうとするのではなく、何かのキッカケで不意に思い出される。今回の半ドンでパンを読んだときだってそうで、そう言えば自分が小学生のころは、同じマンションに友達が引っ越してきてほしいと思っていたことや、先生が宿題の添削に使うペン先の細いカートリッジ式のピンクの蛍光ペンに憧れていたことを思い出した。

 

 

他にも、小学生のころにポルノのベストアルバムが出て、自分は「ラビュー・ラビュー」という曲をよく聴いていたなってことを思い出して、改めて聴き直してみると当時の空気感を思い出したことも相まってやっぱりいいなとなったりもした。

 

 

これらのことは、「半ドンでパン」を読まなければ死ぬまで思い出さなかったかもしれなくて、こんな思い出せない記憶が自分の中にまだまだあると思うと、もう是非ともジャンジャン出てきてくれと思うと同時に、こういう風にして思い出というものは一瞬思い出しては再び忘れていくんだろうなとも思う。そもそも思い出した記憶は本当に正しいのかどうか、それすらもわたしには分からないのだけれど。それでも、こんなことを考えている今の自分だけは絶対に存在していて、人生に絶対にあったはずなのに思い出せない瞬間が積み重なって今の自分ができていると思うと、なんだか奇妙な気持ちになってくる。

 

パン屋からの帰り道に、さっき座っていたペンチの近くで、すずめが地面のなにかをついばんでいた。私はふだんよりもすずめがやけに大きく、近くに見える気がして、止まってすずめをしばらく見ていた。すずめが大きいのではなく、私が小さいからそう見えたのだ、と立ち上がったときに顔や体に受けた風の強さでやっと気づいた。私は今日は、帰ってパンを食べて、それ以外に特になんの予定も用事もない。ドン。

 

小学生時代の記憶を辿ることに没頭して、自分の気持ちまでもが小学生のころに戻ってしまっていたことに気づくこの描写がめちゃくちゃにいい。

 

そういや玉ねぎなんて嫌いだったはずなのに、いつの間に好きになっていたんだろう。子どものころは晩ご飯に玉ねぎの入っている料理が出てきたら、母親が憎く思えたほどであったのに。今は玉ねぎを美味しく感じるけれど、玉ねぎのことをヌルヌルしていて気持ち悪いし、辛いのか苦いのかも分からない味をしていて嫌いだった当時のわたしの気持ちも分かる。人間は変わっていくものかもしれないが、過去の自分の気持ちも出来るだけ忘れずにいることが、過去の自分のためになり、ひいてはいつか過去になってしまう今の自分のためにもなるような気がする。