牛車で往く

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東京感のなんたるかを知る

夜中になんとなく、去年東京に行ったときの自分のブログを読み直した。東京を訪れたときに自分は

 

明治神宮球場で阪神ファンたちに囲まれたおかげで東京感を全く味わえていないことから、急遽、夜の東京駅を見に行こうということになった。失われた東京感を取り戻すべく、電車に乗っていざ東京駅へ。

 

明治神宮球場にいる阪神ファンのせいで東京なのに関西臭が強すぎる(東京旅行 1日目) - 牛車で往く

 

なんてことを考えていたのだが、品田遊の「止まりだしたら走らない」を読んで、東京駅に対する東京感と一口に言っても、視点によってその捉え方が変わることを知った。

 

止まりだしたら走らない

止まりだしたら走らない

  • 作者:品田 遊
  • 発売日: 2015/07/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

ちょっと長いけど引用させてもらう。

 

 東京都民にとって、東京駅は少し特別な場所だ。日本の首都である「東京」の名を冠していながら、その実態を掴むのは難しい。

 上野なら、動物園があって、美術館があって、西郷さんがいる。渋谷なら、ハチ公像があって、マルキューがあって、なんか危なそうな若者がいる。そういうふうに、東京の大抵の有名スポットは、名前を聞くだけでイメージが湧いてくるものだ。でも、「東京駅」はなかなかそのイメージが浮かび上がってこない。

 もちろんレンガ造りの駅や立ち並ぶビル群、皇居の存在は知っているけど、ザ・東京って感じはしない。雑多な色々がうごめいている都市の中心にしては、ここはあまりにも滑らかすぎる。それは、人間を生かすために欠かせない心臓が、血液を送り出すためのポンプにすぎないことと似ているかもしれない。中身はないけれど、流れがある。ほとんどの人にとって、ここは「ふりだし」のマスなのだ。

 

「雑多な色々がうごめいている都市の中心にしては、ここはあまりにも滑らかすぎる。」という東京駅に対する印象は、東京で生活している人だからこそ抱くものであろう。東京に対して最初から洗練されたイメージをもって訪れたわたしのような観光客は、東京駅の滑らかさには何の違和感も感じない。なんなら、雑多な色々がうごめく気配を感じたときのほうが違和感を覚える。しかし、東京で日々、そんなうごめきを感じながら生活をしている都民にとっては、それが感じられるのが東京なのであり、それがない東京駅は滑らかすぎてわたしとは異なり違和感でしかないのである。

 

しかし、観光客であるわたしも、東京都民も、東京駅に対して洗練された印象を抱いていることは同じだ。その洗練を東京感と捉えるのか、そうでないと捉えるのかといった違いが、東京で生活していないのか、しているのかといったところに出ている。ってことに気がついたら、東京で暮している人たちも普段は東京駅のことを洗練されてる、都会だと感じる程度のところで生活を送っていて、そりゃあそんなことは考えてみたら当たり前のことなのかもしれないけれど、改めてそう考えてみると、東京で暮している人たちが自分にとって全然関係のない遠い人たちのようには思えなくなってきて、なんだか奇妙な気分になってくる。

 

そんなことに気づいたとはいえ、やっぱり東京に馴染みのないわたしにとっては、東京都のどこかであればそれはもう東京なのであり、東京都のどこであろうとそこで起きた出来事や見た風景はすべて、東京での出来事、東京での風景になってしまうのだ。上野も渋谷も東京駅も、わたしにとっては東京。でも、東京に住んでいる人にとっては、上野は上野で、渋谷は渋谷、東京駅は東京駅なのである。こういう風にその土地に対する分解能が上がることが、そこで生活しているということなのだろう。ってことなんでしょうか、東京都民の皆さま。


そして、東京オリンピックカウントダウンのモニュメントについて書いた部分。

 

赤レンガの駅舎の近くには東京オリンピックまであとどれくらいかを示すモニュメントが設置されていた。もう1年を切っている。東京オリンピックが開催されているとき、自分はどこでどんなふうな生活を送っているんだろうか。きっとあっという間なんだろうな。

 

明治神宮球場にいる阪神ファンのせいで東京なのに関西臭が強すぎる(東京旅行 1日目) - 牛車で往く

 

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まさか1年後にこんなことになるだなんて、あのころに一体誰が想像していただろうか。モニュメントの前に立ってピースをしながら写真を撮っていた人たちの姿が、いやに思い出されて仕方がない。本当に狐につままれたような気分になってくる。順番がアベコベになるが、コロナウイルスの影響で東京五輪が延期された今の現実の方がよっぽど嘘みたいなはずなのに、今となっては東京駅でカウントダウンのモニュメントの写真を撮っていたあの夜の方が嘘だったんじゃないかなんて思ってしまう。時間が経ってそのときにさえなれば東京オリンピックは開催されるもんだと思っていたもんよ。あのモニュメントの数字が今どうなっているのか、わたしは知らない。新たな感染者は現れ続けているにもかかわらず解除された東京アラート。果たしてその解除を受けて、東京全体に血液を送り出す心臓としての機能を東京駅が取り戻すのかどうかは分からないが、東京で暮らす人たちは、あのモニュメントを傍目に通り過ぎるときに、一体どんな気持ちになっているのだろうか。