布団の上で平民金子の「ごろごろ、神戸。」を読んでいると、ごろごろ神戸2の章に収録されている「ファンタジー」が素晴らしくてやられてしまった。
特に冒頭の、子どもが地面のあたたかさを確かめる描写が良すぎて『良すぎるやろ…』とそのまんまのことを思いながら何度も読み返した。自分が子どものころ、お好み焼き屋で熱々に熱された鉄板を目の前にして、親に「触ったら火傷するで」と言われながらも本当に熱そうには思えなくて、実際に触ったところ大変熱くてワンワン泣いたことを思い出した。サボテンとかもトゲあるのに触ったりしたな。あのころは確かに、実際に触れることで世界の形を確かめていた。そしてふと「ごろごろ、神戸。」は書籍版よりも神戸市ホームページに掲載されているウェブ版のほうが写真がたくさん載っていることから、ウェブ版で読んでもこれまた良いのではないかと思いそっちも覗いてみると、実際に子どもが地面に手を当てている写真などが載ってあって、思った通りさらに良かった。
ぬいぐるみにも地面のあたたかさを教えてあげるような、そんな自分の感じたことをすぐ隣の人と分かち合う尊さみたいなものが今のおれには足りてないぜ、全く。もうこの「ファンタジー」が良すぎて、わたし以外にも良いと思っている人はいないもんかと気になり、Twitterで「ごろごろ神戸 ファンタジー」と感想を調べてみたところ、なんとタイムリーなことに、わたしが読んだ数分前に著者の平民金子さん自らがこんなことを呟いていた。
自分が関わったあれなので言いにくいのだが、昨日とつぜん真面目に読み始めたこの本、めっちゃ良くないですか。特に「ファンタジー」写真とっぱらってグッと引き締まってる(写真が必要かな……という逆もある)。全編私好みの、揺れやとまどい、迷いがある、鮮魚風に言うと活きた文章だ。奇跡の逸品。 pic.twitter.com/DtReaKUWHV
— 平民金子(神戸の、その向こう/めしとまち) (@heimin) 2020年10月14日
めっちゃ良くないですかって、めっちゃ良いですよホンマに。今回は写真あり版のほうにグッと来ましたけれども、その時々によってどっちが良いかは変わる気がする。いや、どっちもいいんよホンマに。
「歩きだしたと思ったらしゃがみこんで、地面に手をあてて。また歩きだしたと思ったらしゃがみこんで、地面に手をあてる・・・」
— 神戸市広報課 (@kobekoho) 2018年4月18日
今回の「ごろごろ、神戸2」の冒頭は、何度の音読にでも耐える名文ではないでしょうか。/ ごろごろ、神戸2「第47回 ファンタジー」https://t.co/vPJubQls7w
さらには神戸市広報課もこの「ファンタジー」について呟いていて、それを見てさらにやっぱりいいよねとなった。おっしゃる通り冒頭文が素晴らしいのよ。何度の音読にでも耐える名文ではないでしょうかって、何度の音読にでも耐える名文ですよホンマに。なんで自分がいいと思ったものを、他の人も同じようにいいと思っていることが分かると嬉しくなるんでしょうね。
そしてさらには、書籍版で読んだおかげかもしれないが、「ファンタジー」からその次の話である「海に帰す」への流れもこれまた良いんですよ。
知らない間に日々、子どもが成長していることを感じるこの二編。そして
私も同じ海を見ながら、小さな子供を通して新しく人生を生きなおしているような毎日だ、そんな風に思う。
と言いながらも、それは気のせいだとして
大人になって、海に対してセンチメンタルな心象を勝手に託す事をやめたように、子供の背中にも何も託してはいけない。ただ私はつかの間、よりそって生きることを学ばせてもらっているだけだろう。
と思い直す姿勢に、なんでかは言葉でうまく表現できないけれどえらく共感した。自分には自分の、子どもには子どもの人生があって、子どもは別に自分が感動するためのモノではないというか、なんとなく分かる、言いたいことが。だからこそ「つかの間」という言葉を使っていて、それが余計に切ないんだけれど。
この二編を読んだ後、本を閉じて仰向けになり、「ごろごろ、神戸。」のタイトルのごろごろはベビーカーを押す音を表しているのであろうが、わたしにとっては寝っ転がって横になる意味のごろごろだなと、めちゃくちゃ面白くないことを考えながら、部屋のLED照明をリモコンで消して瞼を閉じた。瞼を閉じた後も、ああ、いい話を読んだ、といった読後感がじんわりと体を満たしていた。