牛車で往く

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蜜柑の輝きは何によるもの?(荒川洋治「読むので思う」)

荒川洋治のエッセイ「読むので思う」を読んでいると、アメリカの学生は芥川龍之介の「蜜柑」における汽車の窓から蜜柑が投げられるシーンを読んで、その場面には神様が関わっていると解釈するとの記述があった(正確には、荒川洋治が平岡敏夫の「ある文学史家の戦中と戦後 ―戦後文学・隅田川・上州―」を読んで引用した部分の記述)。

 

www.aozora.gr.jp

 

読むので思う

読むので思う

  • 作者:荒川 洋治
  • 発売日: 2008/11/01
  • メディア: 単行本
 

 

「蜜柑は神の助力で自然の中に生長する。田舎娘が、この果実を投げたとき、それは神の加護によるものだったのだ。」

 

「神は蜜柑を輝かしいものにし、三人の男の子のために記憶すべき刹那を造ろうとしたのだ。」


自分が「蜜柑」のその場面を読んだときには、胸のすくような気持ちになることはあれど、それが神様によってもたらされたものとは考えなかった。アメリカの学生が蜜柑の輝きは神様によってもたらされたと考えるのは、キリスト教を信仰しているからであろうか。わたしはキリスト教には全く明るくないし、高校生のころに学校の校門近くで配られていたどこかの予備校の宣伝と思って勘違いして受け取った聖書もろくに読まないまま大人になってしまった。だからかは分からないが、神様のおかげだと思うことなんて生きていてそうそうない。何か良いことがあっても、神様のおかげ!と言うよりは運が良かった!と思うものだ。思えば「普段の行いが良いから良いことが起きた」といった物言いも、真面目な自分を見ていてくれた神様のおかげというよりは、神様がご褒美をくれるほど真面目にしていた自分のおかげといった意味合いが強いのかもしれない。


と、ここまで書いて思ったのだが、そもそもわたしとアメリカの学生たちでは、感情移入している立場が違う。アメリカの学生たちは小娘とその弟たちの立場に立って、彼ら彼女たちの純粋さに対して神様の御加護が与えられたんだといったことに感動している。特に先に引用した後者の感想なんて、弟たちのために神様が蜜柑を輝かせたといった解釈だ。しかし、わたしはあくまでその様子を見ている主人公の立場に立って読んでおり、ここで鮮やかな蜜柑の色が目に焼き付いて離れなくなったのは、小娘でもなくその弟たちでもない、車両の中で人生の退屈を覚えていた第三者である主人公の立場だからこそであり、小娘の弟たちの目にも同じように蜜柑の色が焼き付いて離れなくなったのかは分からないと思う。蜜柑が輝いたのは誰かのためなどではなく、あくまでまず観察者として人生に退屈を覚えていた"自分"があって、そこから小娘とその弟たちの純粋さを瞬時に感じ取ったから輝いて見えた。

 

そもそもこの、何かしらの瞬間において神の存在を感じるって一体どんな感じなのだろうか。アメリカのスポーツ選手などは、自身のスーパープレイの後に胸で十字を切って天に手を掲げたりしているが、これは『わたしの素晴らしいプレイは神様、あなたのおかげです。ありがとうございます』といった意味合いなのだろうよ。そのときって、どれくらい具体的に神様のイメージを思い浮かべているんだろうか。そう思うと、逆にわたしが何かあって『どうか上手くいってくれ・・・!』と思っているときは、誰に対して祈っている?

 

井上宏生の「神さまと神社」では、日本では神様は自然崇拝により誕生し、日々の生活の中に溶け込んでいると書かれている。

 

 

日本では八百万の神と言うように、神様はあらゆるものに宿っており(まあ別に宿っていると意識することもないが)、そのあまりの自然さゆえに、日々のいただきますの際にも新年の初詣の際にも神様を思い浮かべることはそれほどない。さらに、日本の神道では「敬神崇祖」といった神々を敬いながら祖先に感謝するとの考えが重んじられており、その考えが日本人に自然と身についているとするならば、日本人にとって神様は人間とは全く異なった存在というわけではなく、なにか自分のルーツのような、つながりをもった存在のように感じられるのかもしれない。アメリカ人には日本人のこの感覚が分かるのだろうか。とか思っていたら、このブログを見つけた。

 

takairap.exblog.jp

 

なるほどね。日本人が思い浮かべる神様は、アメリカ人にとってはSpirit、精霊なんだね。ただ、そうなると今度はこっちがアメリカ人にとっての唯一神"God"の姿を全く想像できないんだけれども。やっぱりわたしは蜜柑を投げた後の

 

小娘は何時かもう私の前の席に返って、相不変皸だらけの頬を萌黄色の毛糸の襟巻に埋めながら、大きな風呂敷包みを抱えた手に、しっかりと三等切符を握っている。

 

といった、小娘の何事もなかったような平然とした姿にも感動するわけで。そこには神様の御加護とかではなく、自分の姉が奉公先に赴こうとしているのであれば、それを見送りに行くのが弟たちにとっては当たり前のことだし、そんな弟たちをねぎらって列車から蜜柑を放り投げるのも当たり前のこと、そんな風にして生きている、言うなれば彼ら彼女たちの魂の純潔さにわたしは感動している。そんな魂の純潔さをも神様の御加護によるものだとアメリカ人は考えるのかもしれないが。わたしはなにも神様の存在を否定したいわけではない。神様の御加護と考えるからこそ感じられる感覚もあるのだろうことは容易に想像ができる。ただ、それでもやっぱりその感覚はわたしには分かりにくいところがある。アメリカ人のように、人間になにかをもたらしてくれる神様ような存在を思い浮かべることができないからこそ、わたしは彼ら以上に人間自身にこだわっているのかもしれない。彼らの目には、わたしのこんな気持ちは傲慢な考えに映るのだろうか。

 

そしてもうひとつ、「蜜柑」の主人公が心打たれた理由に、普段はなんとも思わないし、なにを考えているのかも分からない自分以外の人間が確かに生きていると感じられる瞬間、そんな瞬間に出くわしたからというのもあると思う。人間は自分以外の人間について想像を巡らせることはできるけれど、その人の本当の中身を知ることはできない。だから極端なことを言えば、わたしはこの世にはめちゃくちゃ優しい人もいれば、その逆でめちゃくちゃ悪い人もいるのだろうことを頭では想像できるんだけれど、普段、本当にそんな実感をもって生きているわけでないから、本当はめちゃくちゃ優しい人なんていない気がしているし、めちゃくちゃ悪い人だっていないんじゃないかと思っている。いや、彼らの存在を"別にいちいち信じていない"といったほうがより正確だろうか。この主人公は憂鬱な気持ちで電車に乗っており、窓をしきりに開けようとする小娘のことをはじめは鬱陶しがっており、なんなら少し見下していた。そんな、自分のことで頭がいっぱいなときに(人間は基本的に普段は自分のこと以外は考えられないものだとは思うが)小娘とその弟たちのやりとりを見て、『ああ、素晴らしい人っているんだ』みたいな、普段は希薄な自分以外の人間の存在を強く感じられたから感動したんじゃないだろうか。まあ長々と書いたけれど、要するに他人の優しさに触れるとか、そういったことと同じでございますよ。もっと俗っぽく言えば、自分ばっかり働いている気がするけど、当たり前のようにそんなことはなかったみたいなことですよ。そんなん分かってんねんけど、なんか思ってまうよねって。でもそうじゃないって分かったときにハッとさせられるよねって。

 

なんにせよ、人によって読み方って色々あるよねという当たり前のことを思った。こんなことを考えた後に芥川龍之介の「運」を読むと、『やっぱ芥川龍之介って皮肉屋よね~』とより一層強く思ってしまった。

 

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後日談

自分の読みの浅はかさを反省いたしました・・・

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