暖かくなってきて
春の海 終日のたり のたりかな
与謝蕪村
の感じを味わいたくなって海を見に行った。とりあえず電車に乗って海が近くにある駅へと向かう。駅を降りて南に行けば海を眺めることができる開けたところに着くだろうと、なんとなくで歩みを進めた。駅前の商店街をくぐり抜けるとすぐに、漁船がいくつも停泊している入江のようになった小さな港に行き着いて、そのまま港に沿って西向きに歩いた。
何度か訪ねたことのある土地であったから、自分の頭の中では漠然と海のすぐそばに流れている川に沿って堤防が敷かれており、その堤防の近くにはベンチが設置されていて、そこに座って海と川をゆっくり眺められる場所があるみたいなことを想像していたのだけれど、どれだけ歩いてもそれっぽいところが見つからない。一体どこに行けばそんなところがあるんだと、海に近づいてみたり遠ざかってみたりしながらブラブラと彷徨う。思い描いているような場所をどこかで見た気がしていたのだが、そもそもそんなところは実際には存在しておらず完全に想像上の場所なのかもしれなかった。次第に自信がなくなってきながらも、どこかにあると信じるしかないといった風に黙々と西に向かって歩いていると、川にかかる橋にぶつかった。橋の手前で川に沿った方向に向いてみると、海まで続いている舗装された川裏の道が続いているのが見えたので、その道に入った。
橋の手前を曲がってすぐのところを歩いている間は自分の周りには誰もいなくて、正面の遠くのほうには川の終わりとその先に薄く広がる海の姿が見えていた。海に向かって歩いていると、途中に川表の河川敷に降りる階段があって、その辺りには階段の近くにある手すりに手をついて寄りかかりながら川の様子を眺めているおばあちゃんがいた。そのもっと向こう側のほとんど海に近いところを、おそらくジャージを着たおじいちゃんが海に向かって歩いている姿が目に入って、なぜ自分がこれといった確証もないのにその人をおじいちゃんと判断したのかは自分自身でも分からなかったが、なんとなく遠くの後ろ姿を見てすぐにおじいちゃんだと思ったのだった。おばあちゃんのそばを通りかかるとき、おばあちゃんは特に自分に目をやることもなく、そのまま川を眺めたままであった。おばあちゃんを通り越して海に向かって歩いていると、おそらくおじいちゃんであろう人との距離がだんだんと縮まってきて、今になって思えばこうした歩く速度の違いからも相手を年寄りと判断したのかもしれなかった。空には大きめの鳥が飛んでいる、と言うよりかは浮かんで漂っていて、立ち止まって空を仰ぐようにしてその様子をしばらく眺めていると、はじめはその一羽の存在にしか気づかなかったのだが、よくよく周りを見渡してみると五、六羽ほどの鳥が同じようにして漂っていた。この鳥はトンビなのか何なのか。再び海に向かって歩き出すと、前を歩いていたおそらくのおじいちゃんは海に面した堤防に辿り着いており、堤防に腕を伸ばして手をついては体を前に折るようにしてストレッチをしていた。その動作を見て余計におじいちゃんであろうとの思いが強くなって、ほぼほぼおじいちゃんであろうその人はストレッチが終わると特に海をじっくり眺めることもなく歩き出して、そんな様子からその人にとっては海を眺めることは別に特別なことではなくて、この道を日常的に歩いているのかもしれないなんてことを思った。自分もようやく海に面した堤防までたどり着いて、はじめは川に沿った堤防と海に面した堤防のちょうど角のところに上がって座ってみたのだが、そうするとあんまり海をいい方向で眺めることができなくて、すぐに降りてもう少し東側の堤防の辺りまで行って、もう一度その上に登った。歩いている間は堤防越しに広がる海の姿だけが見えていたのだが、堤防に登るとそれによって隠されていたテトラポットと砂浜が姿を現して、波打ち際が見えたことで急に海が近くなったような気分になった。それまでウォークマンから流れていたcar10の「海物語」を止めてイヤホンを外すと、波のさざめきが聞こえてきた。
海の色は青なのか緑なのか灰なのか、言葉ではなかなか言い表せられない色をしていて、遠くの海の上を船がゆっくりと横切っていった。改めてちゃんと海を見てみると、海は太陽の光を細かく反射していて、まるで水底から炭酸の泡が浮かんできては弾けているかのように光がぱちぱちと水面で輝いていた。
— 千秋楽 (@ClusterB9) 2021年3月8日
海の向こうには白んだ島が見えていて、風力発電の風車がこれまたゆっくりと羽を回していた。船や風車のような大きなものの動きは緩慢で、それが目の前の海の広さと日の暖かさと相まって、なんとも穏やかな空気感を生み出していた。堤防のすぐ下に目をやると、テトラポットと堤防の隙間で猫が丸くなっていて、わたしが気づいて目をやったときには猫はすでにこちらを見ていて、猫からは自分が海を眺めていた様子をしばらく見られていたのもしれなかった。
猫をじっと見ていると猫もまた全く目線を逸らさずにこちらを見つめてくる。根負けして目線を切りもう一度海の方を向くと、ゆっくり動いているように思えた船はもう遥か向こう側に小さくなっていた。しばらく海をぼんやり眺めていると、どこを見るのも自分の勝手なのだろうけれど、次第にどこを見ればいいのかが分からなくなってきた。思い出したようにして再び猫に目線をやると、猫は目を閉じて眠っているようだった。確かにテトラポットと堤防の隙間は風が遮られて居心地が良いのかもしれない。その姿を動画におさめようとスマホを向けて撮影を開始すると、しばらくして猫は目を覚ましたのか、それとも眠ってはいなくて目を閉じていただけなのかは分からないが、撮影されていることに気付いたようで、目を開けて再びこちらをじっと見つめ始めた。撮影されていることを何か空気伝いに感じ取ったのか、猫の敏感さを思い知る。しばらく海を眺めたあと、そろそろ行こうと堤防の上に立ち上がろうとすると、思いのほか高くて足がすくんだ。堤防から飛んで降りるときにも怖くて腰が引けたような感じになってしまったが、着地したときには思っていたほど足の裏に地面の固さが跳ね返ってくる感覚はなかった。こんな高さから躊躇なく飛べていたのは何歳ぐらいまでだっただろうかなんてことを思う。堤防を挟んで海とは反対側の一段低いところには公園があって、そこのブランコには大人と子どもが乗っていた。左手に公園、右手に堤防となるような形で東向きに再び歩き出す。遠くからでは分からなかった堤防沿いの舗装された道の終わりが見えてきて、公園や一般車道、歩道の高さまで降りる階段に差し掛かったころに、ニャーといった鳴き声が聞こえてきて、階段のすぐ下を見ると道路に止まっている車のそばに黒猫が座っていた。こちらを見ながら鳴いているが、何を言っているのかはよく分からない。黒猫を見ても特に不吉な気持ちにはならない。これまでも何度も黒猫を見てきたし、そのたびに不吉な出来事に襲われるなんてことはなかったから。海沿いの町には猫がよくいる気がするのだが、それは気のせいだろうか。江ノ島にもいたような記憶がある。猫は海が好きなのだろうか。猫は海が好きなのだとしたら、自分と一緒だからなんだか嬉しい。猫にとってはそんなことどうでもいいだろうけれど。自分は犬よりも猫派だ。犬と猫はなんとなくでいつも比較される。犬にとっても猫にとってもそんなことどうでもいいだろうけれど。そんなどうでもいいことを考えながら鳴いている黒猫を見送って駅へと戻った。