以前ブログに書いたこの本を読んで以来、ずっと行ってみたいと思っていた住吉川に先週行った。
住吉駅を出てまっすぐに住吉川へ向かってしまうと、川に着いてから歩いて下る距離があまりないかなと思い、ある程度北に上ってから向かうことにした。住吉の町は六甲山の麓に広がっているから坂になっている。半袖でも汗をかくほどの暑さの中、マンションや大きな一軒家が作る影に隠れるために道の西側ばかりを選んで歩き、住宅街の隙間の坂道を登っていく。
坂のずっと向こうに見える白く霞んでいる山の姿は、坂を登り山手の方に近づくにつれて、次第にはっきりとした緑に変わっていった。十五分ほど北に歩いた辺りで坂を登るのがしんどくなってきて、なんでこんなに暑い中こんなことをしているんだろうなんて考えてしまう。そんな考えを引きずったまま、そろそろ行くかと住吉川のほうに向かった。
住吉川は周囲の道路よりも低いところを流れていて、道路からその様子を見下ろしてみると、歩道と堤防はほとんどコンクリートで舗装されていた。堤防はひと二人分を上回るほどの高さがあって、河川敷の西側ではそれが日を遮って影を作っていたが、東側にはもろに太陽の光が差していて影が一切なかった。それを見て東側を歩くと暑さで死んでしまうと思い、西側の階段を選んで河川敷に降りた。河川敷には風が吹き通っていて、日陰で浴びるそれは額と首の後ろに滲む汗を冷やしてくれた。見上げるようにして町の様子を観察しながら歩いていると、途中、川にかかった橋の上を市バスが走っていった。
黄緑と白を基調としたバスの車体は発色が良く、やたらと清潔そうに見えた。そんなふうに見えたのは夏みたいな日差しのせいだと思い、そこでサニーデイサービスの「パレード」を思い出した。
バスが走っていった橋の下では、川の音が橋に反響してうるさくなり、そのおかげで水が流れていることを意識した。薄暗い橋の影の下で眺める川底の石畳は立体感がなくて偽物みたいに思えてくる。
住吉川には段差のある床止めの落差工がいくつも備えられていて、段差を降りてすぐのところでは川の水は白く泡立っていた。堤防の壁には、川が増水した際にそれを知らせる回転灯と、そこから急いで道路の高さに上がれるように最寄りの階段までの距離を知らせる看板のセットが、間隔を空けていくつも設置されていた。川の中流の辺りでカルガモが六羽ほどいるのを見つけて、住吉川は浅くて水が透明だったから、水中で水をかくカルガモのオレンジ色の足の動きがはっきりと見えた。後で調べてみると、住吉川の水は生活排水が流されていないため、蛍が住めるほど綺麗であるらしく、だからあんなに透明だったんだと腑に落ちたと同時に、大抵の川では生活排水が流されているのが普通なんだろうかということが気になった。川にいるカモの何羽かは暑いからか顔を体に突っ込んで突っ立っていた。その様子を最初に見たときには、首が飛んだカモが立ち往生しているのかと思ってびっくりした。これも後になって調べて分かったのだが、カモは羽毛に覆われていないクチバシから体温が逃げやすくなっており、寝るときにはクチバシから熱が逃げてしまわないように顔を後ろに回して身体の羽の中に埋め込んで眠るらしかった。
でもこの日は夏ぐらい暑くて、実際そうやって寝ている顔のないカモの姿は暑くて気だるそうで、体温が逃げるのを防ぐためではなく日差しを避けるためにそうしているようにしか見えなかった。
中流の辺りにはそんなに人はいなくて、ウォーキングやランニングをしている人を数人見かけるぐらいであったが、阪神の魚崎駅近くの下流辺りに差し掛かると川に入っている人の姿が多く見られるようになった。見かける親子連れにも様々なパターンがあって、お母さんも一緒に川に入っている母親と子ども、お母さんは川に入らずに川岸から声をかけているだけの母親と子ども、そうして父親と子どものペアがいたり、父親同士が友達なんだろうか、父親と子どものペアが二組一緒になったグループなどがいた。子どもはみんな網を持って何かを取ろうとしていた。おじいさん二人と男の子一人のグループを見て、年齢を重ねたおじいさん二人のその見た目から、何か川について博識な人っぽいなという頼もしいイメージを勝手に抱いた。他にも川に入ってはしゃいでいる高校生男子のグループや、足を川につけながら楽しそうに喋っている女の子二人組などもいた。自分の家のすぐそばにも川が流れているが、そこでは川に入る人はほとんどいなくて、住吉川の光景とはこれまた違う。川のある生活といえども、自分の家の近くの川は河川敷が主役で、住吉川は川自体が主役のように思える。
住吉川からの帰りに図書館に寄って、カモの本を見つけてはパラパラとめくってみたり、なんとなく川についての本を探したりした。そこで「川を知る事典」という本を見つけ、読んでみるとこれが思いがけず面白かった。
川のあれこれを教科書的に書いているのではなくて、色んな蘊蓄を混ぜた文章中心の内容で、所々で小説っぽい表現を用いて川にまつわる現象を説明していて、それが鼻につくわけではなく分かりやすいものになっていて良かった。読んでいると高校の地理の授業で習ったことが出てきたりしたのだが、今の方が高校生のころよりも意味が分かるようになっているというか、意味をちゃんと読み取ろうとしていて、あのころは本当にただただ知識として断片的に覚えようとしていただけだったんだなと改めて感じた。でもそれはそれでしょうがない気もしていて、実際にあのころの自分の生活の近くには川なんてなかったもんだから、川に対して1ミリも興味を持っていなかった。いや、仮に生活の近くに川があったとしても興味を持っていなかった気がする。じゃあなんで今はこんなに川について本を読んだりしているのかというと、それはひとえに暇だからである。暇ができると気づけば自分の生活を見つめようとしている。そうすると川やらなんやらに自然と目が移る。そういうもんなんだと思う。
「川を知る事典」には、氾濫による洪水を防ぐために川の流れを変えたり、はたまた川の枯渇を防ぐために別の川の流れを引っ張ってきて合流させて水量を調整したりといった、人の手が加えられた川の一面に関する記述が数多く出てきて、それを読んで藤本タツキのこのエッセイを思い出した。
このエッセイは、読んで以来ずっと自分の頭の片隅に残っていて、ことあるごとにその内容を思い出す。藤本タツキは、幼少期には「非自然」なものである自動販売機を木と同じ「自然」なものと認識していて、それから木々などの「自然」と思っていたものは実は人の手が加わった「非自然」なものであると知り、「自然」と「非自然」の境界は曖昧なもので、それを曖昧なものとして受け入れる姿勢をもつことが、新しい事に出会ってもそれを面白がれる姿勢に繋がると言っている。自分はそんな藤本タツキの「自然」と「非自然」ははっきりと分けられるものではないという考えに対して、頭では分かっているのだけれど感覚としては素直に受け入れられなくて、どうも奇妙な気持ちを抱いてしまう。住吉川を歩いたり田んぼの脇を通ったりして自然を感じ、そうして藤本タツキの言っていたことを思い出してはこれらも人の手が加わった非自然なものであると思い直し、それでもどうにもそれらが非自然なものとは思えないと考え込んでしまい、自然でもあり非自然でもある、もしくは自然でもなく非自然でもない、といった宙吊りの状態のままにしておくことができない。それは、藤本タツキのように幼少期に「非自然」のものが「自然」なものと調和しているのに触れるといった経験が、自分にはなかったからかもしれない。
そんなことを考えているとまた別のことに考えが及んだりして、それは自分が何か風景を見てグッと来るときの理由として、その風景が自分とは関係のないものだと感じるから、といったときがあるんじゃないかということだった。この日住吉川の風景を見てグッと来たのも、高速道路を走っていて車の窓から覗いた夜景にグッと来るのも、そのどちらもが自分の日常生活にはほとんど関係がない(と思っている)からではないか。住吉川の自然やそこで過ごす人々の風景なんて、一瞬訪ねたとはいえ、近くに住んでいない自分にとっては実際にはほとんど関係のないもので、高速道路で通り過ぎていくだけのビルの明かり、それは知らない誰かが夜遅くまで残業しているからこそ灯っている明かりなのかもしれないが、そんな知らない誰かの人生と自分の人生は全く関係がなくて、そういった関係のなさが何か自分の感情を動かしているんじゃないか。自分にはなぜかずっと忘れられないシーンがあって、それはいつかのクリスマスぐらいの季節に街中で宅配ピザのバイトがサンタクロースのコスプレをしながら原チャリに乗っているのを見たときのことだった。これはこっちが勝手にそう思っただけで実際の本人の気持ちは分からないのだが、そのバイトの大学生らしき男の子は別にサンタクロースの格好をして誰かを喜ばせようとも思ってなさそうで、かといって仕事がめんどくさいとも思ってなさそうで、そんな淡々と働いている姿を見て、勝手に自分との関係のなさを感じ、妙に感動したことを覚えている。自分と関係のないものを見て、そこから鏡のように自分もまた彼ら彼女らにとっては全く関係のない存在であることを認識し、そう思うことで自分自身に対しても客観的に距離をとることができて、自分自身の人生に対して少しだけ自分とは関係のないもののように思える、そう思えることで心が軽くなる、そういった何かがある気がする。住吉川の人々やカモを見ては関係ないなあと思い、高速道路の夜景を見ては関係ないなあと思い、クリスマスにコスプレをして働く大学生を見ては関係ないなあと思う。行き過ぎた関係ないなあは他人の人生を軽視していることになるのかもしれないけれど、本当はそれ以上に自分の人生を軽視したいのかもしれない。おれの人生はおれには関係ない、そこまで深刻なものではないと思わせてくれ、そう思いながら生きれたらどんなに楽だろうか、なんてことをちょっとだけ考えてしまう。そんなことは叶わないと知りながらも。