牛車で往く

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あとになって分かることばかりなのかもしれない

最近は講義形式の方がなんとなく話が入ってきやすいかなと思い、そんなタイプの本をよく読んでいる。

 

 

絶対的な過去っちゅうもんは存在しえないし、歴史は完結するものではなくて、絶えずそれを振り返る今現在との関係性によって解釈が変化するものであるということ。最初は信じられていなかったアリスタルコスの地動説が、コペルニクスの登場によって千年以上の時を越えて「意味」を持ち始めた例が分かりやすかった。

 

すでに起こった出来事は、新たに生じた出来事と関係づけられることによって、これまでもたなかった意味を獲得します。少なくとも紀元前二七〇年から一五四三年の間、アリスタルコスの業績は「地動説の先取り」というポジティプな意味をもたず、異端の説として退けられてきました。これから起こる未来の出来事をも勘案するならば、このような意味生成の過程は完結することはありません。その限りで、歴史は絶えず語り直されるものであり、出来事は新たな意味を重層的に身に纏うものなのです。それからすれば、「歴史修正主義」という言葉は現在ではペジョラティフ (侮蔑的)な意味で使われていますが、クワインが「いかなる言明も改訂を免れない」と言った意味で、歴史記述は「修正」や「改訂」を免れることはできず、またそれを絶えず要求しているのです。 p90

 

この本は歴史の認識について考える入門書的位置付けであろうもので、とはいえなんだかいまいち内容が記憶に残らないまま読み終わってしまったのだが、多分より詳しい他の本を読む際に、読んだ部分がなんとなくで頭に残っていて理解しやすくなったりするんだろう。

 

歴史を考える―「歴史=物語り論」の脱/再構築 - 東京外国語大学

 

これとかを読んでいると、歴史といえば"日本の歴史"みたいな国単位の大きなものを思い浮かべてしまうけれど、その中にはもちろん個人レベルの小さなものもあるはずで…といったことについて考えさせられるのだが、簡単に答えが出るもんじゃなかろうに何か答えのようなものを探しながら読んでしまい、思考がまとまらなくなってくる。大きな歴史の物語の中に回収されて個人の歴史が埋もれてしまう問題について考えたときに、大きな歴史の物語は個人の歴史をないがしろにした間違ったものという考えがちらついてしまい、とはいえ歴史には神的な視点つまりは正解なんてものは存在しえないわけで、それこそ人それぞれの歴史に対する視点が無数にあるはずで、それを大きなものひとつに集約しようとするからこっちが正しい、あっちは間違っているなどといったふうになってしまうのではないか。じゃあどうしたらいいのか、個人の歴史を大きな歴史に反映させようとしない限りは、それはないがしろにされたままになってしまうんじゃないのか、コツコツと市井の人々の話を聞き個人史を集めてみてもそれは宙ぶらりんのままになるのか。それこそそんな即時的なことではなくて、いつか訪れる倫理観の変化に伴い歴史的事実が解釈し直されるときに、参照されるものとして個人の歴史がちゃんと残っていることが重要なのだろうか…とか、自分の足りない頭ではもう堂々巡りになってこんがらがってくる。そもそも自分は最初、時間の捉え方というか、時間論的なものについて調べていたはずが、気づけば歴史に関するものにたどり着いており、一体何が知りたかったのかがよく分からなくなった。

 

 

キリスト教について自分はあまりにも何も知らなすぎるから勉強しようと読んだ。

 

 愛が語りうるものであれば、ひとは愛を概念化することができる。けれども、愛は概念化を拒むものであるということを様々な方法でダーシーは語るのです。

 ニーグレンの仕事を否定するわけではないけれども、概念化された愛というものに対するある警戒感を持つ必要はある。ダーシーの言うように、愛は概念化すると、その本質を掴み損ねて部分化していくということは認識し直していいと思うし、概念化を拒む愛のあり方のほうが私たちの日常生活に近いのだと思うのです。ともすれば、何もかもが概念化されることによって普遍化していくという現代の神話のようなものを信じがちですが、けっしてそうではない。 p68

 

もうずっと同じことばかりを考えてしまうけれど、何かを理解しようとするときに行われる概念化・抽象化、その際には圧縮されることで失われる細部が絶対にあるわけで、しかしそうとは分かっていながらも言語化して伝えたいこともあって、伝えたいこと全体とその細部の両立の難しさ、そもそもそれが不可能であることを何度も思い知らされる。愛とかそういったものの本質はそれを感じている瞬間にしかない。この部分を読んで田島列島の「子供はわかってあげない」で朔田さんが馬のジョニーに言われていたセリフ

 

いいか

お前らの使っている言葉っていうのは鋳型であり代用の具なんだ

言っとくがソコに入り切れる程俺の存在は小さくない

 

を思い出すのだけれど、このジョニーすら恋の比喩であってそれ自体ではない。こういったことは「キリスト教講義」の天使について書かれた部分にも出てくる。

 

若松 宗教の世界では、あるところにいくと、言語からほとんど完全に離れてしまうところがあって、天使論はそこを包括して展開していかないといけないのだと思います。人間にとって天使は経験であって論理ではないからです。神というのも神的経験がなければならないところを、言葉だけで語り得る神論にしてしまっては自らの試みを破砕することにもなりかねない。

 宗教の内実は、そもそも概念化し得ないものです。それを概念でのみ語ろうとするとき、最も重要なものから遊離することになる。それを語り得るのは概念化された言葉ではなく、経験に裏打ちされた言葉です。 p135

 

天使は神秘的存在で、論理で説明できるものではない。そういった私たちの理解を超えた存在を認識するためには、"天使に触れた"といった実際の神秘的経験が必要となる。この本を読めば読むほど、キリスト教ってものは勉強で知れるもんではないなあと思えてくる。神の存在を信じて聖書を読まない限り、自分はその上辺をなぞり続けるだけなのだろう。いや、そもそも神の存在を信じて聖書を読んでいるのか、聖書を読むうちに何かが芽生えてくるのか、その何もかもが分からないまま。

 

 

そんなことを思いながらも、ヨーロッパの人々の"キリスト教"に基づく社会が書かれているこの本を読む。この本はまだ日本の社会と比較して書かれているから幾分分かりやすい。比較としての日本があるおかげで抱ける、ヨーロッパにはあって日本にはない文化の"ない"といった感覚。キリスト教を信仰しているヨーロッパの人々は、神という唯一の存在に対して祈りや告白や懺悔によって向き合うことで自分自身が"個人として存在するもの"であると認識しているのが窺い知れ、これも自分にはない感覚だなと思う。裸の自分と一対一で相対する存在って思い浮かばない。

 

 

あとは講義形式じゃないけれど、この本を読んで得られた小説を読む際のメタ的視点。一人称と三人称の視点の違いによって生じる、書かれている内容と筆者との距離の違い。他者の感情を「嬉しかった」などと言い切ることで生まれる不自然さとの戦いや、神的視点の三人称を装いながらも意図的に読者に見えない部分(つまりは見せない、書かない部分)を作ることで、読者側が想像力をはたらかせて作品に介入できる余地を生むといった手法。夏目漱石すげえってなりながらも、果たして自分は今後この本に書かれたことを意識しながら小説を読むことができるのだろうかとも思ってしまう。忘れてしまいそう。

 

そして、長嶋有の「夕子ちゃんの近道」。

 

 

もう何回読み返してんねん、っていうくらい読み返してる。この小説は一人称小説なんだけれど、主人公による心情の吐露とか自分語りがあまりない。だからこそ、たまにくる主人公の感情が揺れた瞬間の描写にはジーンと来る。今回読んだときには、朝子さんがドイツから帰ってきて主人公の働いている骨董屋を訪ねてきたところがめちゃくちゃ良くて、主人公が久しぶりに朝子さんを見てパッと誰だかすぐに分からなかったとこあたりから、ジワジワ良いと言った感覚が生まれ始め、それがそのあともしばらく続きながら読んだ。あとは、この小説では登場人物の性格が、主人公の分析ではなくて登場人物の行動を見た場面をもって印象づけられていて、その場面設定がめちゃくちゃ上手い気がする。夕子ちゃんだったら変な近道を知ってるだとか、朝子さんだったら家のすぐそこの空き地で大学の卒業制作に没頭していて最終的に熱を出して倒れてしまうだとか。それぞれの登場人物は言葉で分かりやすく説明できるような特徴的な性格ではないんだけれど、それぞれの出てくる場面の描写を丁寧に書くことで知らないうちに自分の中で個別の印象的な人物として立ち上がっている。やっぱり何回読んでもいい。

 

 

「夕子ちゃんの近道」を読んだ流れで、そういえば長嶋有がこの本に影響を受けたって言ってたな、一回読んだけどあんまり内容覚えてないな、と思い読み返した。この本に収録されている四編のうちのひとつ「連笑」は、定職につかずブラブラと生きている主人公が怪我をした弟の面倒を見ることになり、それをきっかけに幼少期の弟との思い出を振り返りながら、主人公自身と弟の関係、そして父親、母親を含めた家族関係について思いを巡らせるといった内容になっている。「連笑」は一人称の小説なのだが、「夕子ちゃんの近道」を読んだばかりということもあって、読んでいると主人公が自分とか弟の性格についてめちゃくちゃ説明するやん!と思ってしまった。いやまあ、過去を振り返るって形式やからそういうふうになるもんやとは思うけど。まあそれはいいとして、兄弟のいる自分にとっては、幼少期の兄弟が互いの人格形成に与え合う影響力の大きさについて考えずにはいられなかった。相手がああいう性格になったのは、もしかしたら自分が小さいころにああいうことをしていたからじゃないか、と気づいたときのヒヤッというかゾッとする感じ。無意識のうちに自分が相手に人生を左右するほどの影響を与えていたのかもしれないという事実に対する恐れとでも言うのか。親からの抑圧といったふうに影響を与えられた側からの視点で書かれた作品は数あるけれど、「連笑」のような影響を与えた側の自覚とそれを自覚したことによって生まれる哀愁について書かれたものはあまり読んだことがなくて、前に読んだときにはよくもまあ引っかからなかったもんだなと思うほど、今回はなんとも言えない読後感が残った。

 


www.youtube.com

 

音楽はアナログフィッシュの新曲「Is It Too Late?」をよく聴いている。作詞がギターの下岡さんで作曲がベースの佐々木さんというバンド史上初の手法で作った曲らしく、そう言われると確かに佐々木さんが歌う曲にしては歌詞がいつもの感じと違うなと思った。下岡さんの書く少しシリアスな歌詞に影響を受けたのか、曲調がタイトなものになっていて(実際に詞が先か曲が先かは知らないけれど)、このスタイル、めちゃくちゃハマってる気がするぐらい曲がカッコいい。途中の短い間奏も良くて、アナログフィッシュは活動歴が結構長いのにまだまだフレッシュな曲が作れてすごいなと思う。

 

あとは今更だけどMomの「PLAYGROUND」。

 

PLAYGROUND

PLAYGROUND

  • アーティスト:Mom
  • Life Is Craft
Amazon

 

今はもうずいぶん寒くなったけれど、10月上旬ぐらいの涼しい夕方にこのアルバムを散歩しながら聴いていたらめちゃくちゃしっくり来て、たまらない気持ちになった。「スカート 」なんて前からいい曲だなと思っていたけれど、ここまでいい曲やったっけ?と思うほど良く感じた。もう色んなものの印象が後から変わっていくのは、自分が変わっているからか。

 

 

あとは「東京」の

 

あの子もその子も

怒る前に泣いてしまう

 

って歌詞のやり切れなさ。

 

pocket.shonenmagazine.com

 

漫画は「錬金術無人島サヴァイブ」を読んでいる。絵が上手で可愛いから。話は普通だけど。そんな感じです。

 

今週のお題「読書の秋」