芦原義信の「街並みの美学」を読んだ。
コロナ禍による自粛生活を通してより強く思うようになったのだが、自分は常々もっと気軽に外の雰囲気を味わいたい、矛盾するかもしれないが理想は家に居ながらにして外にいるような開放感がほしいと思っていて、そんなときに「街並みの美学」を読むと、住まいと街の関係や空間に対する意識が、街並みの形成に及ぼす影響などについて書かれていてかなり面白かった。基本的に日本の街並みを西洋のものと比較してあれこれ述べるといった内容になっていて、日本では家の中では靴を脱いで過ごすが、西欧では靴を履いたまま過ごすといった生活様式の違いを導入として、日本人と西欧人の住まいに対する「内部」「外部」といった境界意識の違い、そこからその違いが街に対する態度の違い(日本人は、自身の住まいの外に広がる街という空間に対して比較的無関心であるのに対して、西欧人は街も住まいの延長にある領域として捉えている)につながっていく説明の流れが分かりやすかった。日本では広場とその周囲を隔てる境界として塀が用いられることが多いが、これでは広場は閉鎖的な空間になってしまう。それに対してイタリアのように広場の周囲に直接建造物を建てて境界とすることで、広場は生活の場として生きた空間となるとの説明を読み、なるほどと思った。日本では大きな公園などに関しても、いずれも木で覆われたり塀で囲われたりしていて、周囲の空間から切り離されている(この本ではその例として日比谷公園が挙げられている)。しかし、イタリアの広場のように住居の外壁が直接の広場との境界となると、住居とその外部(広場)との距離が近くなり、家の中にいても外の活気が伝わってきそうだ。ただ、実際に受ける印象はイタリアに訪れないと分からないだろうし、もっと言えばしばらく住んでみなければ、イタリアの街並みの方がいいのか、自分にしっくり来るのかは分からないのかもしれない。さらには、その町の中で育ってきたかどうかによっても変わりそうで、こういった日本と外国を比較したものに触れるたびに、外国人の知り合いがほしい、意見を聞いてみたいと思う。
「街並みの美学」を読んでいると、芦原義信のいう魅力的な街並みというものを実現させるには、街に対しても自分の家と同じように意識を向けられるかが大切であることが分かる。
まず第一に、「街並みの美学」を成立させるためには、「内部」と「外部」の空間領域について、はっきりとした領域意識をもつことが必要である。即ち、自分の家の外までを「内部化」して考えられること、あるいは、自分の家の中までを「外部化」して考えられること、二つの領域について空間を同視して考えられること、または、空間を統一して考えられることが肝要である。 p275
このような家の外を内部化、もしくは家の内を外部化するような考え方は、「街並みの美学」を読むだけでも十分に身につくものなのか、それとも例えばイタリアのような、そういった考え方に基づいた街並みの中で生活し実感することでやっと育まれるものなのか気になるところではあるが、それを意識することで街を見る目が少し変わるのは確かである(いい感じに見れているのかは分からないが)。
ただ、外の活気が部屋の中まで伝わってきたとして、果たしてそれが自分の心持ちに何か作用するだろうか。今住んでいる家にいても、子どもたちの遊ぶ声が聞こえてくることがあるが、特に何か気分が明るくなることはない。それよりも窓を開けて網戸の近くに座ったり、顔を近づけて寝転がったときのほうが、外にいるときのような気分、家とは違う気分を味わえて、それは単純に外気に触れている、外気を肺に取り込んでいるからだろう。だからイタリア式の広場に面した住居に住んでみても、さほど今と変わらない気がするが、街並み自体が気軽に外出したくなるような、外のベンチで腰掛けていられるような、留まっていられるような造りになっているのであれば、それはそれで外に出やすく、直接的に外の空気を味わいやすいという点でありがたい。
「街並みの美学」は個人的にかなり面白く、しかし出版されたのが1979年ということもあって、もう少し最近の知見も踏まえたうえで書かれている同じような本はないのか、また、建築や街並みに関して書かれた本をあまり読んだことがなく、この本以外の考えも知りたいと思い、色々と探してみた。普通にGoogleで検索してもあまりいいものが見つからなかったので、Twitterで「街並みの美学」と検索してみると、建築学科の学生らしき人たちが互いに本を紹介しているやり取りや、「街並みの美学」と対照的な意見が書かれているらしい本の情報などが見つかった(建築学科の学生からすると「街並みの美学」は、課題図書としてよく取り上げられる本のようだ)。また、「街並みの美学」に記載されている引用文献にもいくつか気になるものがあって、それらを読んでみようと思った。
「街並みの美学」を読んでいると、原風景について書かれた部分があって、それを受けてああだこうだと考える。よく「日本の原風景」という言葉で、海や山や川などのある田舎の風景が掲げられる。それを見るたびにそもそも原風景ってものは個々人にあるもので、「日本の原風景」って言葉は全体を勝手に代表してる感じがしていちゃもんをつけたくなるのだが、人が原風景という言葉を聞いて抱くイメージについて調査した論文などを読んでいると、やはりそういった田舎というか自然の風景を思い浮かべる人が多いようだった。自分が「日本の原風景」としてよく提示されるイメージにいちゃもんをつけたくなるのは、自分の原風景の中にそのような田舎の風景は宿っていなくて、それを根拠として本当にみんなはそんなに田舎での原体験があるのか、どこかで植え付けられたイメージに引っ張られているだけではないのか、と思っているからなのだが、それこそ自分自身の経験から勝手にみんなも自分と同じだと決めつけているだけのようだった。
自分にとっての原風景とは?ってことを考えてみると、小学生ぐらいのころの記憶がよく思い出される。学校の中庭に一本だけそびえて立っていた背の高いメタセコイヤの木や、小さな森というのか山というのか、そこを分け入って野良犬と遭遇したことなどが思い出されるのだが、これが本当に原風景なのか、ただの思い出なのかはよく分からない。ただ、自分の原風景について思いを巡らせているときに、自分自身も「日本の原風景」という言葉にいちゃもんを付けていたわりに、自然の風景をいくつか思い浮かべていて、やっぱり原風景という言葉は自然との結びつきが強いのかもしれない。とはいえ自然にまつわるものばかりではなく、友だちの住んでいた団地でドロケイをしたことや、その団地のすぐ下にあった公園で秘密基地を作ったり、木にハンモックを引っ掛けたりしたこと、グラウンドでプラスチックのバットとゴムボールで野球をしたことなども思い出される。「街並みの美学」では、原っぱを原風景としていた昔の世代と比較して、団地で育っていく世代の原風景はどのようなものになるのかと心配されていたが、そのまま育った団地が原風景の一部となっている。個人的に団地には、塀の隙間や屋根の上などといった、とても大人が入ってこれない子どもたちだけの空間を見つけて、そこで遊んだ身体的な記憶が宿っているから、それが原っぱの代わりになっているのかもしれない。
「原風景」の意味を簡単にスマホの辞書、スーパー大辞林で調べてみると、「原体験から生ずる様々なイメージのうち、風景の形をとっているもの」と出てくる。「原体験」も同じように調べてみると、「記憶の底にいつまでも残り、その人が何らかの形でこだわり続けることになる幼少期の体験」となっていて、この"こだわり続ける"とは自覚的な行動を意味するのか、無自覚なものを意味するのか。辞書的な意味しか調べていないので、原風景の学術的な定義にも幼少期の原体験が要因となる旨が含まれているのかは分からないが、原風景について調べる中でたどり着いたこのページを読むと、大人になってから出会う原風景もあるんじゃないかと思えてくる。
それにしても、さっきから自分は海山川などのことを自然と呼んで書いているけれど、そういった自然と思っているものの大半には人間の手が加えられているってことを、以前にも書いたが自分なんかは藤本タツキのエッセイを読んで初めて意識し始めたのだが、この論考にも同じようなことが書かれていて、それがなぜか嬉しかった。
もちろん田は人工的な構築物だし、野原や森も含めて、われわれの周りに人間の手が入らないという意味での純粋な自然はもはや存在しないから、ここでは人々が「自然」と認識するものという意味で使っている。 p56
そういうことを意識し始めてからというもの、特に何があるというわけではないが、山の尾根に沿って送電鉄塔が並べられているのに気づいて、一体どうやってあんなところに建てたんだろうか、人間すごいなと思ったりした。海岸線に沿っていくつも積み重ねられているテトラポットを見て、これほどの数を一体どうやって置いたんだろうと、巨人が手のひらから金平糖のようにテトラポットをバラバラと落としては並べていく様を想像したりもした。そんなことを考えていると、街がとてつもない時間をかけて形成されているっていうよくある考えにたどり着くのだが、特にそのことに感動を抱くわけではなく、ただぼんやりとそう思うだけで、だからなんやねん、と自分でも思う。「街がとてつもない時間をかけて......」うんぬんは、純粋に自分の中から出てきた考えじゃなくて、どこかで聞いたことのあるような考えが頭に浮かんだだけ。100%純粋に自分から生まれた考えなんてありえないのだけれど、より自然っぽい思考はある。