牛車で往く

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Sumida River at night is good(東京旅行 一日目)

六月の上旬に東京に行った。ずっと前から東京の町をゆっくり歩いてみたいと思っていて、誰かと一緒に行くとやっぱり有名な観光地などばかりを訪れるわけになりそれができないから、今回はソロで乗り込んだ。久しぶりに乗った新幹線の窓から見える景色は、在来線の比ではないほどのスピードで過ぎていき、線路に沿ってたわみながら伸びている架線は、高速で走る新幹線の中からはバウンドしながら後ろへと流れていくように見えた。対向の新幹線がやってきてすれ違い切るまでにはものの一秒程度しかかからず、そのほんの短い間だけゴゴゴゴゴゴゴとすれ違う車両の間で空気が擦り付けられている音がした。景色を見ていると、遠くを走っている車のフロントガラスが反射した朝の太陽の光が新幹線に座っている自分の元まで届いてくる、かと思えば新幹線のスピードは尋常ではないから、気づけば雲が覆っている空の下を走っていて、グングン天気を横断していく。追い越した上空の黒い雲は、一足先に東京に着く自分の後を追ってくるだろうかなどと考える。名古屋-横浜間で突然海の見える区間が現れて、急いでスマホの現在地をオンにして地図アプリを見るとそこは三河港らしかった。水辺がいいと感じるのは水面が光を反射して辺りが明るくなるからかもしれない。ビニールハウスもよく光る。車もよく光る。ショベルカーもよく光る。瓦屋根もよく光る。隣を並走するように敷かれた線路のレールは太陽との角度によってちょっとだけ光るときがある。静岡あたりで新幹線の速度にも慣れて、流れていく景色を見ても特に速いなどと思わなくなる。

 

東京でも特に谷根千のあたりと隅田川を訪ねたいと思っていたから、東京駅に着くとメトロの大手町駅まで歩いて、そこから根津駅まで乗り、新幹線の中で調べて見つけた散歩の達人のサイトにある地図を頼りに谷根千を歩いた。

 

san-tatsu.jp

 

谷中霊園に建てられている沢山のお墓には、識別しやすいように甲3号4側など番号が割り振られている。お墓の足元に群生しているたんぽぽは、黄色い花ではなくて綿毛をつけていた。お墓の背中にいくつも立っている卒塔婆には、全く読めない梵字が書かれているものがあれば、得入無上道、と意味は分からないが読めるものもあった。お寺と墓地の間を縫い歩き比較的車通りの多い通りに出ると、通り沿いにあるカフェ猫衛門とやらの前に人が並んでいる。大変人気そうで、猫衛門というからには猫が何か関係しているのだろうと思いながら横目に通り過ぎる。坂を降った先の妙法寺というお寺の手前にあるマンションでは、職人がマンションの植木を剪定していて、辺りに緑の香りが広がっており、その香りを吸い込むと気分が明るくなった。三崎(さんさき)坂にある谷中小学校のそばを通ったときに小学校が突然街中に現れた感じがして、そう感じたのは、自分の通っていた小学校では校門をくぐるとすぐに運動場が広がっており、校舎に至るまでには運動場の幅だけ歩く距離があったのに対して、谷中小学校の場合は道路に面してすぐに校舎らしき建物が建っていたからだった。というか、校門らしきものがないからどこが正式な入り口なのか分からない。

 

地図の通りに坂を降り、曲がって入った住宅街の路地は狭く、十字路の変なところに電柱が立っていた。

 

 

もうちょい端に寄れんかった?ってぐらい絶妙な邪魔さ。ちょうどギリ通れるぐらいの邪魔さ。路地を歩いているとほんのりと汗をかいてきた。

 

 

ここはどの辺りなのかを確認するために電信柱を見ると、谷中二丁目と書かれている。谷中二丁目に住んでる小学生は学校が近いからギリギリまで寝ていられるな、と思ったけれど、小学生のころに遠いと思っていた友だちの家が大人になるとそうは感じなくなるように、大人と子どもの遠い近いの感覚は違っているから、谷中二丁目の小学生は谷中小までは別に近いとは思っていないかもしれない。狭くて先の見えない路地の向こうから車の音が聞こえてきたから歩みを慎重に進めると、車も自分と同じようにスピードを抑えた慎重な様子で姿を現した。どこかの家の室外機がブーンとうなる音が聞こえる。路地を抜け出した根津神社入り口まで続く車通りの多い通りで、歩いている少し先の車道を猫が横切って行った。その光景を見てなぜか地元の風景を思い出す。

 

根津神社ではお賽銭箱の前に数人の列が出来ていた。

 

 

参拝に来た人たちはみなソーシャルディスタンスを守っていて、一組ずつ順番にお賽銭を入れては二礼二拍手一礼をしていく。地元のおばあちゃんと思われる人の拝む時間は長くて、何度も会釈をしては手を合わせてぶつぶつと口の中で何か言葉を転がしていた。そのあとの夫婦も同様に長くて、このふたりは社殿の敷居に入るときも、鳥居を潜るわけでもないのに一礼してから入っていた。そんな彼らの影響を受けて、自分もなんだかいつもより少し丁寧にゆっくりと手を合わせ、心の中で神様に、東京にお邪魔しています、と言葉にした。参拝が終わって、左側に続く道を進むと少し高いところに伏見稲荷のように鳥居の連なっているところがあって、そこには乙女稲荷というまた別の名前の神社が祀られていた。根津神社を出てしばらく歩く。地図を見てなんとなくで進んでいると講談社発祥の地という碑を見つけて、地図通りに来ていることを認識する。

 

少し先で見つけた公園の入り口には須藤公園と書かれていて、気づかぬ間に千駄木になっていた。地図を見るとこの公園を通り抜けるらしいのでその通りに従う。右手に池、左手に階段があって、何となく階段のほうに進むと公園全体を見渡せるほどの高さになり、階段の先はまた公園の別の出入り口に繋がっていた。公園を出て綺麗に舗装された道に出る。散歩の達人の地図にはこの道のどこかで右手に曲がると書かれていて、歩きながらここで曲がるのかなと思ってのぞいた道は狭く、なんとなくネットの道案内の大半は広くて人の多い道しか紹介しないという思い込みがあったから一度スルーして先に進んだのだが、どう考えても地図的には行き過ぎていて、今歩いている道のすぐ右にある建物の名前が分かる看板かなにかはないかとキョロキョロ探してみると、千駄木宿舎と書かれている看板を見つけて、地図ではやっぱりさっきのスルーした千駄木宿舎手前の狭い道に入ることになっていて通り過ぎてしまったことが分かった。散歩の達人のコアなルート誘導に、達人やなあ、と唸る。道を引き返して入った路地はかなり急な下り坂(大給坂)になっていて、歩く速度に自然と加速がかかるから、その加速度が上乗せされた体重を受け止めるために、足の裏全体で地面をべったんべったんと踏みつけながら坂を降りていく。降り切ると車通りの多い広い道に出て、道なりに進むと谷中ぎんざとのアーケードが見えてきて、商店街に入る。谷中ぎんざは平日の金曜日でもそこそこ人で賑わっている。

 

 

商店街の賑やかさを全身に浴びながらも、特になにかを買うことはなくスルスルと通り抜け、夕やけだんだんというおそらく有名な階段に差し掛かかった。夕やけだんだんを登り切ったところで後ろを振り返り、端に寄って商店街を見下ろす写真を撮る。

 

 

満足して日暮里駅を目指して歩いている途中、さっき撮影した写真は色んなサイトや雑誌でよく見る構図で、何も考えずにそれと同じような写真を撮ったことに気がついて、なんだか急に面白くない気分になった。無意識のうちにアングルを限定されているというか、それ以外の見方をしないようになっていることのつまらなさ。そこから思考が極端な方向に飛躍して、もっと誰も撮らないような風景、どうでもいい風景こそ撮るべきなんじゃないか、それこそが今日他の誰かじゃなく自分が東京に来たということをなによりも強く意味するものになるのではないか、などと思ったのだが、どうでもいい風景は本当にどうでもいいから、そもそも撮ろうという気が起きない。たとえ撮影したとしても、それを目の前にしているときにはどうでもいいと思っているからほとんど印象に残ることはなくて、時間が経って撮影した写真を見返してもおそらく何の感慨も蘇ってこないだろう。そうすると、本当に撮るべきはthe観光スポットの前後の風景なのかもしれない。たとえその前後の風景がなんてことのない風景であったとしても、観光スポットに至るまでのワクワクや見終わった余韻などの力を借りることで、撮影した写真を見てそのときの空気感を思い出すことができる。そして、これを繰り返して記憶の中で観光スポットとその前後のなんてことのない風景が強く結びつくと、今度は日常生活において目にしたなんてことのない風景が、いつかの観光スポット前後のなんてことのない風景に似ていたときに、それをきっかけに印象的な観光スポットの記憶までよみがえるという逆方向の回路が出来上がり、簡単に感慨にふけることができるようになるのではないか。などと考えていると、夏目漱石の「倫敦塔」の

(きた)るに来所なく去るに去所を知らずと云うと禅語めくが、余はどの(みち)を通って「塔」に着したか又如何(いか)なる町を横ぎって吾家に帰ったか(いま)だに判然しない。どう考えても思い出せぬ。只「塔」を見物しただけは(たし)かである。「塔」その物の光景は今でもありありと眼に浮べる事が出来る。前はと問われると困る、後はと尋ねられても返答し得ぬ。只前を忘れ後を失したる中間が会釈(えしゃく)もなく明るい。恰も(やみ)を裂く稲妻の(まゆ)(おつ)ると見えて消えたる心地がする。倫敦塔は宿世(すくせ)の夢の焼点(しょうてん)の様だ。

の部分のことを思い出したりして、そもそも最初はよくある構図の写真を撮ることのつまらなさについて考えていたのに、どうすれば思い出しやすいかに考えが逸れていて、いっそのこと写真なんぞ撮らずに肉眼で見たもののうち、漱石の倫敦塔のようにあとになってそこだけスポットライトが当たっているかのように覚えているのが、自然なふるいにかけられた自分にとっての印象的な風景ということなのかもしれない。

 

到着した日暮里駅は、駅名のフォントが猫をモチーフにしたものになっていて可愛かった。続いて電車に乗ってジュンク堂池袋本店を目指す。東京のなにがいいって、それはとにかく商品の在庫が豊富に揃っているってところである。気になる本の在庫をジュンク堂のアプリhonto withで調べてみると、近所の店舗にはないけれど東京の店舗にはある場合のなんと多いことか。今回は以前から気になっていたヘンリー・ソローの「月下の散歩」という本が池袋本店にあるようなので、せっかく東京に来たし見てみようと思ったのだ。

 

 

池袋駅で降りて地図に従って歩いているとガラス張りの建物が見えてきて、それが目的地のジュンク堂池袋本店だと分かる。ジュンク堂を目の前にして直前の信号に引っ掛かかる。ジュンク堂に続く横断歩道には中間地点があって、隅田川を訪ねようとしている頭で見るから、それが中州のように思える。車の流れはそのまま川の流れ。

 

 

いざ入店し、アプリによると「月下の散歩」は三階の海外文学(近代)の棚に置かれているらしいのでエスカレーターで三階に上がってみるが、これが見つからない。同じ著者ヘンリー・ソローの全日記なる本があったのでパラパラとめくってみるとなかなか良さげで、裏面の値段を見ると三千円を切っていて思っていたよりも安い。

 

 

とりあえず一旦棚に戻して当初の目的の本を探す。アプリには七階の科学の棚にあるとの表記もあって、行ってみるとこっちにあった。とりあえずこっちは買うことにして、全日記のほうはどうしようかと悩んだ末(本当はあまり悩まず)購入を決断。お金のなかった大学生のころには古本すら買うのに躊躇していたけれど、社会人になると新品の本をスッと買うようになって、なんなら積読までするようになって、こんなふうに変わってくぼくを許してって気分。

 

本を買って増えてしまった荷物を置くために、一旦ホテルに向かうことにする。隅田川を、特に夜の隅田川を歩いてみたくて、ホテルは浅草にあるところを選んだ。浅草駅で降りて江戸通りに沿って南に進むと、車道を挟んだ向こう側にバンダイナムコの本社ビルが現れて、その足元には悟空やらのキャラが立っていて、おおっとなった。ホテルに到着し荷物を置いて一息ついてから、まだ日の昇っている夕方の隅田川沿いを歩きに出かけた。蔵前橋を渡って隅田川の東岸、スカイツリーのある側を歩く。頭のすぐ上には首都高が走っている。川岸に泊まっている屋形船が水の流れに揺られてジャブジャブ音を立てている。欄干の上を歩く鳩の足音がカンカンカンと甲高く反響して、欄干の中は空洞になっていることが察せられる。期待していた分ハードルが上がっていたのだろうか、思っていたよりも隅田川沿いを歩くのは面白くなくて、川の向こうに目をやると向かい岸の方が川沿いの舗道が広くて綺麗で、歩く側を間違えた気になった。舗装された道が終わって砂利道を歩いているときに動くものの気配を感じ、足元を見ると蛇が植垣に体を滑り込ませていくところであった。蛇は動きが滑らかだから怖い。吾妻橋まで来たところで川沿いを離れて車道沿いの歩道に出て、スカイツリーを目指す。隅田公園にある芝生のエリアは養生中で人が入れないから、その分鳥が自由に歩き回って何かをついばんでいる。養生中の表札を見て、tetoの「暖かい都会から」のMVを思い浮かべる。

 


teto - 暖かい都会から(MV)

 

左手に進んで公園を抜け出したところの牛嶋神社の石段に、打ちひしがれたようにうなだれて座っているサラリーマンがいたが、自分は力になってやれないだろうからと先に進んだ。街中から見えるスカイツリー。その隣に小さな昼間の月。

 

 

スカイツリーの足元をぐるりと回って浅草の方に戻る復路で、後ろを歩いていた女性二人組の「あっ、あったあった」「なんかテラス席もあったんだけど、こっち側だったから」「うん、いいよいいよ全然」という会話が聞こえてきて、めっちゃ標準語や、と思う。向島のローソン店員ふたりが仲良さそうに爆笑しながらお店の外を掃除していて、その会話を聞いても、めっちゃ標準語や、と思う。本当は東京やら埼玉やら神奈川やら同じ関東でも、微妙にイントネーションや言葉遣いは違っているのだろうが、自分にはそれが分からないからひとくくりに標準語だと思ってしまう。一方で関東の人たちは、自分には分かる大阪っぽい、京都っぽい、兵庫っぽい、三重っぽいやらの違いが分からず、それらを関西弁とひとくくりにしているのかもしれない。なんなら、たとえ同一都道府県内であっても地区によって喋り方が違う、っていう諸々の当たり前のことを、大学生になって色んな地域出身の人たちと出会って、みんな同じタイミングで気づいて互いにはしゃぐ。都道府県で思い出したけれど、昔の東京は東京都ではなく東京府と呼ばれていて、それがどれくらい昔だったかというと一九四三年ぐらいのことで、その辺りの年代の出来事に対して子どものころはリアリティを感じられていなかったのが、大人になってからはそんなに昔じゃないように思えてきた。昔のことが子供のころほど昔じゃないように感じられる感覚は小説を読んでいるときにもあって、隅田川を訪ねるにあたって芥川龍之介の「大川の水」を読んだときにも、芥川龍之介って本当に生きてたんだな、と感じる瞬間があった。その理由は、単に昔の出来事と今を繋ぐ知識が増えたからなのか、それとも歳を重ねたことで子どものころよりも時間のスケール感、例えば十年前が実感としてどれくらい前かってことが、自身の人生の経過から掴めるようになってきたからなのか。

 

浅草まで戻ってきて、晩御飯に天ぷらを食べようと事前に調べて目星を付けておいたお店に行ったところ、一つは定休日で、もう一つは全然お店が見つからず、よくよく調べてみたところ夜は営業していないようだった。もう完全に自分のリサーチ不足のせいではあるのだけれど、それで一気にテンションが下がって心がしんどくなり、それに伴って体のほうもしんどくなってきて、もうどこでもいいから一回座りたいと、とりあえず見つけた豚骨ラーメン屋に入った。豚骨ラーメンを注文しながらも口はまだまだ天ぷらを欲していて、豚骨ラーメンに申し訳なくなるほど天ぷらのことを考えながら食べた。


ラーメンを食べ終わって一旦ホテルに戻り、リベンジに夜の隅田川へと出かける。今度は蔵前橋を渡らずに西側に降りる。川沿いに建てられた柵と堤防(?)の壁に付けられているライトのおかげで歩く道は明るく、夜ではあるが、ランニングをしている人や、散歩をしている人が何人もいる。

 

 

夕方に歩いた向こう岸の上を走る首都高は、ぼんやりとしたオレンジ色の光に照らされていて、その奥に立つ東京スカイツリーの少し出っ張った部分二つには、くっきりとした白い光が衛星のようにくるくる回っている。

 

 

スカイツリーの近くにある金の魂みたいなやつだけは本当に何回見てもセンスがないと思う。周囲の建物の光が隅田川の川面に落ちてゆらゆらと揺れていて、その光の揺れによって川が流れていることが分かる。通天閣にはライトアップの色で明日の天気が分かるっていうのがあるけれど、眺めている限りスカイツリーにはそんなことはなさそうだ。スカイツリーの上に浮かぶ雲だけがほのかに色付いていて、それを見て最初は、スカイツリーのライトの放つ光が雲にまで届いているのかと思ったのだけれど、スカイツリーの近くまで来ると、スカイツリーの先端がそのまま雲に刺さっているのが分かった。スカイツリーの先端を横切っていく雲の形の変化が、走馬灯のようにライトに照らし出されて浮かんでいる。吾妻橋まで来ると橋を渡って首都高の下を歩き、すみだリバーウォークに入る。

 

 

すみだリバーウォークは東武鉄道の高架橋のすぐ横に設置されていて、電車が通ると振動が伝わって、普通に不安になるくらいガッシャンガッシャン音が鳴ってめちゃくちゃ揺れる。歩道橋から隅田川の下流のほうに向くと、吾妻橋が真っ赤に光っていて、その奥の駒形橋は青色に光っていて、隅田川にかかる橋はどれもめちゃくちゃ明るい。

 

 

吾妻橋の下を通っていく屋形船も明るく光っていて楽しそう。歩道橋を渡り終えて、もう一度隅田川沿いの舗道に入り、今度は行きとは逆方向に歩く。涼しい風が吹いてきて本当に気持ちがいい。ベンチに座っておしゃべりしている人たちの姿が多く、中には地べたに座ってすごい勢いで喋っている外国人もいて、語らいの場となっている隅田川沿い。

 

 

釣竿を二本垂らして夜釣りをしている人を見て、夜に釣りをしながらゆっくり川を見つめるのはなんとも心が落ち着きそうだと思った。橋のかかったところに差しかかるとライトアップのおかげで周囲が明るくなって、橋の上を車が走る音と波が橋を洗う音が大きくなる。途中ベンチに座って隅田川をなんとなしに眺めてみる。風が涼しくてずっと居れる気がする。屋形船が生み出した波がゆっくり迫ってきて目の前まで届く。川が受け止めると光は柔らかくなる。本当にずっと居れる気がする。いい夜の散歩をすると、これまでの良かった夜の散歩の思い出も一緒に蘇ってくるからたまらない気持ちになる。夜に歩く隅田川は良い。

 

とはいえ本当にずっと居れるわけではないから、適当なところでホテルに引き上げて露天風呂に入った。露天風呂に吹いてくる風も涼しくて、ずっと上を向いたままぼーっとする。目が悪いから空の様子は分からないし、さっき歩いていた限り天気は曇りで星なんて出ていなかったのに、斉藤和義の「空に星が綺麗」が頭の中に流れてきて、そういえばコマンダンテって東京に行ってから全然見いひんけど元気にしてるんかなあ、石井くんは相変わらず漫才中にちょくちょく噛んだりしてんのかなあ、とか、別にファンでもないお笑い芸人のことを考えたりした。

 

 

二日目に続く。

 

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