牛車で往く

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もやがかかった影のある形ないもの

すっかり少し冷たい風が足もとを通る頃になりましたけれども、夏からずっとaikoの「花火」を聴き続けている。特にAメロが良い。

 


aiko- 『花火』music video

 

眠りにつくかつかないかシーツの中の瞬間はいつも

あなたのこと考えてて

夢は夢で目が覚めればひどく悲しいものです

花火は今日も上がらない

 

Aメロのメロディに対する言葉の乗せ方がすごく良くて、「眠りにつくかつかないかシーツの中の瞬間はいつも」まで一気に言ってしまってから(とはいえ一音に一語で無理矢理に詰め込んでいるわけではなく)、「あなたのこと考えてて」でちょっと緩める緩急のおかげで、「眠りにつくかつかないかシーツの中の瞬間はいつも」の部分を聴いたときに、長い文章がリズムに乗って運ばれてくる心地よさを感じることができる。そのあとの

胸ん中で何度も誓ってきた言葉がうわっと飛んでく

1ミリだって忘れないと

のところでは、「眠りにつくか〜」の部分と同じように言葉が進んでいくのが気持ちいいのに加えて、「うわっと」って歌い方がうわ〜って思うくらい良い。ここの「うわっと」って言葉には本当に「うわっと」って感じがあってたまらない。でも自分は最後の

もやがかかった影のある形ないものに全て

あずけることはできない

ってところが一番好きで、「もやがかかった影のある形ないもの」ってやつが具体的に何を指しているのかは分からないけれど、もし胸ん中で何度も誓ってきた1ミリだって忘れないという言葉であれば、やっぱりこの恋を諦め切れないって意味に聴こえるし、もっと抽象的な恋の気持ちを表しているのであれば、好きと伝える一歩が踏み出せないって意味に聴こえる。自分はどちらかと言えば後者のほうだと思っていて(というか後者のほうで解釈したほうが自分にとって都合よく想像を膨らませられる)、そもそもこの「もやがかかった影のある形ないもの」って言葉の、もやがかかっていて曖昧だけれど、影が差すように存在は感じられ、けれどもやっぱり形はないからもどかしいっていう揺り戻しの、「もやがかかった/影のある/形ないもの」っていうコンボ感というか、畳み掛ける感じに胸がキュっとなる。心の中の捉え所のないものを、この言葉を三つ選んで繋げて、さらにはこのメロディに乗せて表現するって、aikoめちゃくちゃすごいなとなる。そして、そういった曖昧なものに「あずける」ことができないという、あずけるっていう言葉を選んだ身体性というのか、この全身で恋をしている感じ、全身全霊で向かっているからこそ不安になっている感じが良い。良いとしか言えない。この良さを誰か上手く説明してくれてはいないだろうかと「aiko 花火」で調べてみると、〝他の人はこちらも検索〟欄に「aiko 花火 すごい」というワードが挙がっているのを見つけた。今まさにこうして検索している自分と同じような気持ちの高まりを迎え、もうそうとしか言いようがないからその興奮のまま「aiko 花火 すごい」と検索した人がいる、しかもそんな人が〝他の人はこちらも検索〟欄に挙がるようになるほどたくさんいることが面白く、同時にそんな人たちに対して、同志よ、と嬉しさも抱いた。自分はaikoの「花火」にこんなふうに夢中になっているから、ウォークマンのA-Bリピート機能を駆使して、1番のAメロの部分ばかりをしつこいくらいに繰り返して聴いている。良い。

 

とにかく自分がaikoの花火を聴いて思ったのは、音楽にはメロディがあるおかげで、そこにうまく歌詞を乗せられれば、言葉にグルーブが生まれるというのか、とにかく言葉がグングン進んでいく、運ばれていく感じを出すことができる、それが羨ましいということだった。とはいえ、考えてみれば小説の中にもaikoの「花火」を聴いているときと同じような感覚を抱くものはあって、例えば夏目漱石の「草枕」の一文

逡巡として曇り勝ちなる春の空を、もどかしとばかりに吹き払う山嵐の、思い切りよく通り抜けた前山の一角は、未練もなく晴れ尽して、老嫗の指さす方に巑岏と、あら削りの柱のごとく聳えるのが天狗岩だそうだ。

なども、読んでいて言葉が乗ってくる感じがある。一文自体は長いけれど、それぞれの文節の長さは揃っていておさまりがいいから、冗長にはならずリズムが生まれている。さらには文章の中身も次第に視界が広がっていくような書き方になっており、読み進めながら「逡巡として曇り勝ちなる春の空を」でグン、「もどかしとばかりに吹き払う山嵐の」でグン、「思い切りよく通り抜けた前山の一角は」グンと、自転車のペダルを交互に漕いで進んでいくような感覚を覚える。自分はこういった長い文章を読むことによる心地よさを、漱石の「草枕」や「思い出す事など」などの作品から感じることがよくあって、これらの作品には俳句や漢文が出てくるからそれが何か関係しているのかと思い、「夏目漱石 リズム 漢文」などと調べてみた。そうすると、知りたかったこととは違うが、夏目漱石が鴨長明の方丈記を英訳していたという情報が出てきて、さらに調べてみると、どうやら漱石の草枕は方丈記に影響を受けているらしいとの情報もあった。それを受けて方丈記を読んでみると、確かに「ありにくき世」という章に書かれている内容が草枕の「智に働けば角が立つ〜」の部分にそっくりで、そんな事実を今さらになって知った。そして方丈記にも読んでいて語感のいいと感じるところがあって、

空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて、あまねく紅なる中に、風に堪えず、吹き切られたる焔飛ぶがごとくして、一二町を越えつつ移りゆく。

の部分を読んで、なんとなく漱石っぽいなあと順序が逆のことを思った。そこから枕草子や徒然草などの、中学か高校で習ったはずの過去の有名な随筆作品を改めて読み直してみると、当時は感じなかった言葉のリズムの良さを感じたりした。書かれている内容に関しては、枕草子の「心ゆくもの」の段の一段目が好きで、「夜、寝起きて飲む水」の部分が良い。

 

esdiscovery.jp

 

平安時代に生きていなければ分からないことがつらつらと述べられている中、突然出てくる現代にも通ずる感覚。夜中に目が覚めて覚えたのどの渇きを癒すために、冷蔵庫から取り出した水を飲み、ふうっと一息ついたときの確かな心ゆく感覚。清少納言のころとははるかに時を隔てているからこそ、自分と同時代を生きる人が何かを言ってそれに共感したときよりも、より強い共感を感じる(時を経るロマンに勝手に感動しているだけかもしれないが)。とはいえ、枕草子はずいぶん昔の作品なのに今でも通用する感性はすごいって、それは別に今の時代が昔と比べて進化しているわけではなく変化しているだけで、かもめんたるの漫才でも言われていたけれど、昔の人は五七五で縛りをつけて俳句を楽しんだりしていて、今を生きる自分よりもよっぽど風流なことを嗜んでいたわけである(かもめんたるの漫才の「ああっダメダメ!これ怖くなっちゃうからダメ!」ってとこが面白い)。

 


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自分がaikoの「花火」について何かを語ろうとするとき、結局良いとしか言えなくなるのだけれど、枕草子も読んでいたら "をかし" "をかし" の連続で、それを受けて確かに "をかし" としか言いようがないなあと思うから、勝手にやっぱり最終的には "良い" とか "をかし" とか、そういうふうに言うしかないよねって気分になる。良いもんは良い、をかしきもんはをかし。いやでも、そういう言い表しにくいものを「もやがかかった影のある形ないもの」って表現したaikoはやっぱりすごい。