牛車で往く

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ワールドカップとかМ-1とか

カタールワールドカップ。開催前に放送されていた日本のサッカー史を振り返る番組を見ていたら、前回の2018年ロシアワールドカップの記憶がすっかり抜け落ちていて、グループステージでコロンビア相手に乾がゴールを決めたシーンを見ても、そうだったっけ?となった。ベルギーに勝てそうだったのは2018年のワールドカップか、じゃあイタリアとめちゃくちゃいい試合をしたのは何だったっけ?大陸間の優勝チームが集まるやつか、あれはいつぐらいの話だったっけ?などと、時系列があやふやな記憶が断片的に思い出される。やっぱり自分の中で強烈に印象に残っているのは2014年もすっ飛ばして2010年のワールドカップで、2018年のロシア大会などは時差を考えてもそんなに無理せずに見られたはずなのに、なんで見ていなかったんだろう、コロナ前だったからワールドカップを見る以外にもやることがあったんだろうかと、今さらになって考えてみたのだけれど、今回のカタール大会をガッツリ見たのは、身近にサッカーの話ができる人がいてワールドカップの話をするのが楽しかったからで、じゃあロシア大会をあまり見なかったのは、今回みたいにサッカー好きな人が周りにいなくて単純にワールドカップの話ができなかったからだと気がついた。そういうわけで、今年はそんなに息巻いて見ようとも思っていなかったところ、始まる前から楽しみだなと話題を振ってくれる人がいたから、結局地上波で放送される試合はもちろんのこと、それ以外の試合もAbemaで放送されているものをテレビにキャストして、とにかく見れる試合は見まくった。そう思うと自分は、野球好きの友だちとよく遊んでいたころには頻繁にプロ野球の中継やニュースを見ていたし、サッカーが好きな友だちと仲が良かったころにはJ SPORTSでプレミアリーグの試合を見ていて、スポーツを話のネタとして捉えているところが多分にある。

 

今大会が始まるにあたって初戦の相手であるドイツの選手を確認してみたところ、知っている選手はノイアーにミュラー、ギュンドアン、ゲッツェ、ギンターぐらいしかいなくて、何ならギュンドアンはギュンドガンと呼ばれていた気がするしで、最近の選手を全然知らない状態だった。そんなもんだからサッカー好きの知り合いに、どの選手がどのクラブに所属していて誰がワールドクラスの選手なのかを教えてもらい、教えてもらっているうちにあのころのあのクラブにはあの選手がいて強かったなどと昔の話になり、たまに知らない選手の話が出てきてはふぃーんっていう感じの空気になりながらも盛り上がった。なぜスポーツは誰がどこにいたかを話すだけでも楽しいのか。それから小中学生のころはウイニングイレブンで選手を知っていったとの話になり、記憶に残っているスピードの値が高かった選手の名前を列挙し合い、小学生のころはパスなどせずに足の速い選手でただただR1を押しながら爆走するしかなくて、それが自分だけではなく友だちもそうだったから、そうなるとそんな足の速い相手に追いつくためにこちらのディフェンスにもスピードが求められることになり、その結果ポジションガン無視で足の速いフォワードをディフェンダーの位置に配置していたことを思い出し、その後スルーパス、フライスルーパスを覚えてからはそればっかりを使い、一枚上手の友達に絶妙なタイミングでオフサイドトラップを仕掛けられてそれらを無効化された衝撃、最終的にゴール前でヒールリフトを連発し合うよく分からない感じに落ち着く、というウイイレの変遷を話し合うトークに発展した。

 

そんなこんなで迎えた初戦のドイツ戦。前半に権田のファウルでドイツのPKになったときにはおいおいおいと思ったが、堂安が同点弾を決めたときには本当に鳥肌が立って、それは相手キーパーがノイアーであること、そもそも相手がドイツであることを改めて意識したからで、それから浅野の二点目がよく分からない間に決まった。板倉が蹴り出したボールを浅野が追いかけていって、相手ディフェンダーが最初はそんなに詰めて来なかったからこっちもそれを受けてほーんって感じで見ていたら、浅野は一気にゴール前までドリブルしていって、よく見えない角度であっさりとゴールを決めた。だからもう鳥肌が立つとかではなくて、なんか決めたぞ、なんかすごいぞ、と後から分かって、ゴールを決めた事実がじわじわ面白くなるといった感じだった。

 


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日本とドイツの試合を見終わったあともなかなか興奮が覚めず、翌日は仕事があったのだけれどそのままAbemaでスペイン対コスタリカ戦を見た。スペインのパスサッカーのえげつなさを目の当たりにし(コスタリカシュート0って)、その衝撃でこれまた眠れなくなって、結局翌日はほとんど寝ずに仕事をすることになった。それからAbemaで放送されていたドイツ戦の本田の解説が良かったとの噂を耳にし、見てみたところ確かに本田のコメントがめちゃくちゃ面白くて、面白いだけじゃなく浅野の決めたシーンで「たくまぁ」って嬉しそうに声を漏らすところが本当に良くて、ゴールを決めた浅野がみんなのほうに駆けていってクルッと回るところまでを、浅野が合計何回転したんか分からんってくらい繰り返し何度も見直した。

 

ワールドカップが面白いのはやっぱりそのレア度によると思うわけで、四年に一度の開催だから選手の人生において限られた数回しか出場するチャンスがなく、それに各クラブのリーグ戦とは違って一度の敗北が優勝できるかどうかに大きく響く。だから強い弱いに関わらずどの国もめちゃくちゃ必死になって戦っていてそれがいいなと、もうそんな必死になる場面が人生にない側になって思う。幽☆遊☆白書の軀が飛影と時雨の戦いを前にして「真剣勝負は技量にかかわらずいいものだ 決する瞬間互いの道程が花火の様に咲いて散る」と言っていたのを思い出し、後半の部分は別にサッカーには当てはまらないと思い直す。自分はプロ野球よりも高校野球のほうが好きで、それもワールドカップと似たように出れるのは高校三年間だけ、一度負けたら終わりっていう限定された条件から生まれる必死さ、それが面白いからだ。今回のワールドカップは、ドイツ戦で本田の解説が面白いと知ってからはほとんどAbemaで試合を見た。Abemaのおかげで布団に入りながら試合を見ることができ、クロアチア戦で日本が先制点を決めたときには興奮して布団の下で足の裏が汗ばんだ。本田のペアの熱盛アナウンサーの解説も良くて、本田の訪ねた情報をパッと答えるわ、本田と仲が良さそうだわ、そもそも解説が分かりやすいわで、報道ステーションに出ていたときと印象が変わった。

 


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12月18日にはM-1とワールドカップの決勝があって、なんて最高の日だって感じだった。M-1はさや香の一本目が一番面白かった。「だからぼくはぁ、免許の返納をしました」と言うときの石井の普通ですよみたいなしれっとした顔とそれを聞いている間の新山の顔が面白い。「返納せえやぁ」のスピード感と顔をグンッてするところも面白い。M-1を見ているときにたまにある『うわ、このコンビ面白さ頭ひとつ抜けてるやん』っていうぐわっと来る感じが今年のさや香にはあった。ミルクボーイほどではないけど、ミルクボーイを見ていたときに近い感覚。今見てもまだまだ面白い。あとは新山めちゃくちゃスーツが似合ってる。ウエストランドも面白くて、一度自分で言った「警察に捕まり始めている」って言葉に「あっ」となり腑に落ちて、改めて確信をもって「警察に捕まり始めている!」と断定するのがめちゃくちゃ面白かった。男性ブランコの「おまえっ・・・」って言い方も面白かった。ヨネダ2000はまとっている雰囲気が軽くていいし、顔と声もめちゃくちゃいいから、見ているだけでにやけてしまう面白さがある。ウエストランドが優勝して12時にはワールドカップの決勝。前半はアルゼンチンのペースで、メッシとディマリア上手いなあとなり、そもそも今大会ではアルゼンチンの試合を見るたびにやっぱメッシはすごいなあと思い知らされた。それが後半、押されていたフランスがPKを取ってから一気にエムバペが二点目を決めて同点になり延長戦へと突入、流石に眠たくなり布団の中でスマホ片手に持ったまま寝落ちした。思い返すとワールドカップが放送されていた期間はずっと面白くて、それは何より日本がドイツやスペインを倒すほど活躍したからだと思う。ワールドカップが終わったあとの日本の選手たちの活躍も楽しみ。

 

井戸川射子の「この世の喜びよ」を読んで思い出したスーパーマーケットの記憶。

 

 

子どものころの休日、親の買い物に連れられてよく行っていたスーパーマーケットの二階、そこの紳士服売り場で売られていたスーツのハンガーには、銀色のフックの根本にサイズの表記されたドーナツ状のタグが付いていた。タグはサイズごとに色が分かれていて、子どものころの自分にとっては、分類を分かりやすくするためというスーパーマーケット側の狙いとは関係なく、ただただそのカラフルな見た目が面白かった。タグを掴んではハテナ型をしたフックの形状に沿わせて動かし遊んでみるのだけれど、フックの先端はナメック星人の触覚と同じようにボチッと丸く膨らんでいたから、タグはそこで引っかかって決して外れることはなかった。タグ自体は完全なドーナツ状ではなくて、一筋だけ切れ込みが入ったアルファベットのCの形になっていて、でもその切れ込みの幅はフックの径よりも明らかに細かったから、一体どうやって取り付けているんだろうと気になっていた。そんなことを思い出していたら、ニコルソン・ベイカーの「中二階」のスーパーマーケットの描写

 

だんだん上のフロアが近づいてくると、ステップが折り畳まれて消えていく細い隙間のところに緑色の光が見えてくる。そしてエスカレーターから降り、奇妙に静止したリノリウムの床と、その向こうに広がるカーペットのツンドラ地帯に足を踏み出すと、自分にとってはまだ未知の売場の柔らかなざわめきが耳に入ってくる。 p50

 

を思い出して(この部分の前後の描写は本当に良くて何度も読み返している)、ああ、ここから母親との買い物の記憶へと繋がっていった。中学のころ、学校に履いて行く用の白靴しか持っていなかった自分は、スニーカーを買ってほしくて母親にお願いし、それに対して母親はそんなん高くてもったいないと返してきた。互いに機嫌が悪くなるくらいめちゃくちゃ粘って、最終的にはじゃあもう買えば?みたいな感じで母親がキレながらも諦めて買ってくれたのだが、今でも普通にスッと買ってくれたら良かったやんと思っている、思春期だったんだから。と、そこからまたまたニコルソン・ベイカーの「室温」にも主人公が母親に一緒に歩くのが嫌って言ったときの母親のリアクションがあったなとか、ワクサカコウヘイの「中学生はコーヒー牛乳でテンション上がる」にも同じようなことが書いてあったなとか、そんなことを思い出した。小説の風景描写を読んで頭の中に浮かんでくる映像は、自分が実際に見たことのある記憶の中の風景をもとに生み出されたもので、今回の「この世の喜びよ」のスーパーマーケットの描写を読んでも、思い浮かべた光景は自分が行ったことのあるいくつかのスーパーマーケットを切り貼りしてできたものだった。それはニコルソン・ベイカーの「中二階」を読んだときも同じで、そこから自分にまつわる思い出に思考が飛んでいくのだけれど、そうすると結局自分に由来する懐かしさばかりに感動しているような気になる。「この世の喜びよ」に収録されてる別の短編「マイホーム」に、主人公が昔図書館でおじいちゃん見かけたけれど声をかけなかったときのことを思い出すシーンがあって、

 

声をかければ良かったと悔やんではいないのに、死んでから思い出すのは棚の前の横顔ばかり p111

 

を読んだときにも、子どものころは分からない会えなくなるってこと、今も分かっていないけれどもっと分からなかった、考えたこともなかった人生の不可逆性とでもいうのか、でもそれが分かってないほうが自由だった気もするみたいな、大人になったからこそ意識できるようになった子どものころの感覚と、子どものころにおばあちゃんと一緒に図書館に行ったときの記憶を同時に思い出して、その感覚と記憶はそれぞれ別に独立した関係のないことだったのに「マイホーム」のこの一節を読んだことでつながって、何とも言えない感覚を覚えた。小説を読んでいるときにその作品自体ではなくて、作品をきっかけに思い出したことばかりに気を取られるのはどうなのか、別にどうなのかとか考えなくてもいいか。