牛車で往く

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最近読んだ本の感じ方やら

自分は柴崎友香の「ビリジアン」が好きなのだけれど、読みながらいまいち掴みきれない感覚があって、みんなどんなふうに読んでいるのだろうと調べたところ、この作品は過去を思い出すようにして書かれている、そんなふうに思いながら読むとよい、とのコメントを見かけたので、それに倣って読み返してみた。デパートの屋上でダラダラする「片目の男」という章の

七月になって、また屋上にいた。売店の前の白い椅子に座っていた。前と違って緑色のパラソルが開いていた。同じ素材の白いテーブルを挟んで座っていた七井が言った。

「禿げたらどうしようと思って」 p48

っていう場面転換のところを読んだ瞬間、デパートの屋上にいたって感じがぶわっと伝わってきてすごかった。デパートの屋上の空気感じゃなくて、デパートの屋上にいたっていう読者である自分の存在をも含めた没入した感じ。それはこの部分を、そのすぐ前に書かれていた、片目の片足を引きずったおっちゃんに写真の撮影を頼まれた前日の場面からの流れで読んだからで、そりゃああらゆる小説はそういうもんなのかもしれないが、ビリジアンのこの部分ではそういった文章の流れがより一層意識されたというか、前の場面から「七月になって・・・」に移ったときに、アパートの屋上の全景がぶわっと頭の中に広がった感じが本当にしたのだった。自分は「ビリジアン」の、

近くのブランコでは、下級生が一回転しそうな勢いで思いっきり漕いでいた。錆びた鎖がきいきい鳴っていた。赤錆色の鎖の冷たい手触りが自分の手にも蘇ってきた気がして、そのとき、あの錆と血が同じ鉄の味だとわかった。 p117

って気づくところが好きで、その気づくまでの手順というか、ブランコを漕いでいる様子を見たり、錆びた鎖のきしむ音を聞いたりしたことで、そこから実際には触れていないはずの鎖の冷たさが手のひらに宿って、そうして感覚が高められたことで味覚が拡張され、口の中で感じている血の味がブランコの錆の味にまで繋がった、意識が届いたっていう描写の流れが、ちゃんと体があるなって感じがしてたまらなくいい。

 

 

そんなふうに読みながら、やっぱり他の人の読み方が気になって色々調べていると、三村尚央の「記憶と人文学」という本を見つけ、読んでみたところこれが面白かった。

 

 

「ビリジアン」の読み方が載っているわけではないのだけれど、さまざまな文学作品の記憶にまつわる描写を現象学的に考えてみるといった内容の本。プルーストの「失われた時を求めて」に関して書かれた部分を読んで、何か懐かしいと感じたとき、それは思い出を思い出したから懐かしいの順番ではなくて、懐かしい感覚がまずあって、それに合った記憶が後から蘇ってくる、その順番のときがあるなと思った。そして、後者の順番の方が懐かしいといった感覚が強い気がするとも思った。そうして読み進めた先で、意図的に思い出した記憶(意志的記憶)と不意に思い出された記憶(無意志的記憶)では、後者の方が強い情緒的反応を引き起こすといった、さっき自分が考えていたことが書かれていてなるほどとなり、そこからさらに自分が最近本を読んで感じたことについて考えた。井戸川射子の「マイホーム」の、主人公がおじいちゃんを図書館で見かけて無視したことを思い出す場面を読んだときに、自分が子どものころにおばあちゃんと一緒に図書館に行ったときのことを不意に思い出し、その瞬間体にぶわっと情動が引き起こされた。それに対して、並行して読んでいたジャン=フィリップ・トゥーサンの「カメラ」のフェリー船内の描写がなかなかすんなり入ってこなくて、昔自分が乗ったフェリーの記憶を手がかりにして読み進めようとしたときに、それに伴ってあまり綺麗でない船内に古びたアーケードゲームの筐体が二つだけ置かれていたこと、誰もそれをプレイしているところを見たことがなかったことなどを思い出したのだが、そのときには特に感情の昂りなどは生じなかった。それは能動的に思い出したのと受動的に思い出されたの違いがあったのかもしれない。そう考えると、確かに不意に思い出した無意志的記憶の方がより迫真性のある記憶の蘇り方で、そして自分の場合には、そういった無意志的記憶が呼び起こされるきっかけとして、文章によって身体感覚を刺激されることがある気がする。「マイホーム」のその場面では、まずそれ以前に書かれた身体を使った描写を読むことで、自分の身体の感覚が刺激され励起状態になるとでも言うのか(例えばドアを身体で押し開ける描写のところとか)、なにせそういった状態にさせられ、その状態で過去の記憶にまつわる描写を読むことで(おじいちゃんを図書館で見かけて無視したところ)、その描写にまつわる自分自身の身体の記憶が不意に呼び起こされ激しい情動を催したのかもしれない。

 

 

 

などと考えて、またまた「記憶と人文学」について調べていると、次は「日常記憶地図」という、ある土地にまつわる色んな時代の記憶を色んな人々から集めた記録集に出会った。

 

my-lifemap.net

 

販売されている冊子は深川・清澄白河が舞台のもので、去年隅田川に行きたくてそのあたりを訪れたのもあって、手に入れて読んでみた。色んな人の深川・清澄白河周辺にある公園や小学校、商店にまつわる思い出が書かれていて、自分は最近こういった他人の個人的な生活が垣間見れるものに興味を持っていたから面白かった。さらには日常記憶地図では、色んな人の視点で同じ町を眺めている、比較しているものになっていて、もし自分の住んでいる町もしくは住んでいた町が舞台であれば、同じところに生きてる他人の存在がもっとリアリティを持って感じられて面白いんだろうなと思った。ホームページには深川・清澄白河以外に、大阪・上町台地と奈良・郡山城下町のものがあって、これからあらゆるところでこの企画をどんどんやって、がんがん増やしていってほしい。

 

mylifemap.web.fc2.com

 

深川・清澄白河編では、職場のある東京駅の方から自宅に帰る際、永代橋を渡って隅田川を越えることで、仕事とプライベートのスイッチが切り替えられたと書いている人がいて、都会を流れる大きな川にはそういった境界的な認識が宿ることもあるんだなと興味深かった。それから隅田川といえば永井荷風も何か書いているんじゃないかと思い随筆集を開いてみれば、「深川の散歩」という題の一編があり、日常記憶地図の番外編として読んだ。読んでいる途中で、書かれているところは今どうなっているんだろうということが気になり始めたので調べてみたところ、「深川の散歩」の内容に沿って写真を撮っているブログを見つけ、それと突き合わせながら読み進めたのだけれど、そうしながら何かが足りない、しっくりこない気がずっとしていて、それはやっぱりブログの写真が、自分が撮ったわけじゃない、自分がいない風景のものだからだった。自分は実際に見たことのない風景の写真によって心が動かされることがあまりない。でもそれが文章であれば、上に書いたように、書かれた風景を読んでそれがリアルに頭に思い浮かぶとは別に、何かのはずみでその文章に関連した、もしくは全く関係のない自分の記憶が蘇って感情が湧き上がることがある。自分にとって写真は、ピントの合い方が肉眼とは違うし、そこに写っている空気感もいまいち掴めないから相性が良くないもののような気がしていて、だからまた時間ができたら、実際に深川・清澄白河のあたりを訪ねて自分の目で見てみたい。