牛車で往く

電車に乗ってるときなどの暇つぶしにでも読んでください

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茶の花畑に連れてって


スピッツ / 渚

 

渚っつーのは頭の中にしかないもんで、実際海に行ったときに波打ち際を渚やな、とかは思わん。海に行ったときに思うのは、ただただ見通しが良くてだだっ広いのが良いなということで、自分の住んでいる近所にもそんなところがあったらいいのにって思う。人口減少が進んでいるとか言うけれど、工事中のもんはなんやろうとフェンスに貼られている標識を見てみればマンションであることが多い。なんでなん? 芝の手入れとかは誰がすんねんとかそういう細かいことには目をつむって、もっとだだっ広いだけの芝生広場みたいなものを作ってほしい。視界を遠くまで貫通させたいから。

 

hedge.guide

 

人口が減少していてもマンションが増えている理由のひとつとして、核家族化などの影響で世帯数自体は増えているからというのがあるらしい。そんなことより、自分は二拠点生活をしたい。大きな庭に面した縁側のある木造一戸建てがほしい。これまた誰が手入れすんねんとかは置いといて、いっそのこと庭には枯山水があってほしい。ほんでそこを主要拠点ではなく、第二拠点としたい。そこを軸として生活するとせっかくの枯山水に飽きてしまうので、普段はマンションで生活して、休日とか癒しがほしいここぞという場面で木造一戸建てに赴いてゆっくりしたい。訳の分からないくらい希望に満ちた気分でこういう妄想をすることがある。この妄想が明るい未来として自分を待っていると信じられるときある。ああ、仕事辞めたいって、ネガティブな感情で思うのでなく、仕事辞めてもどうにかなりそう!っていうか、どうにでもなる!って生きる希望に満ち溢れた状態で思えるときがある。多分そんな気分になれているときは、自分の人生を自分の人生じゃないと思えているときで、自分を自分という駒として捉えて操作するみたいな思考になれりゃあ全部が上手く行く気がする。

 

EIGHT-JAMで宇多田ヒカルが、曲の2番に入る冒頭の歌詞はこれまで歌っていたことからガラッと内容を変えてインパクトをもたせることができるみたいなことを言っていて、曲のそういう唐突さが小説とは違った良いところだと思う。急にさっきまでとは関係のない歌詞になったけれど、とはいえさっきまでの歌詞が頭に残っているから、そのふたつが互いに響き合っているように思え、それによってなんとも言えない情緒が生まれる。なんというか、比喩とかではない方法でこっちが勝手にそれらに共通する情緒があるように感じてしまう、そんなふうに距離のあるふたつを並べられるのが良い。とかなんとかうだうだ考えたけれど、じゃあ例えばどんな曲がそれに該当する?って聞かれたら、すぐにはピンと浮かんでこない。別に唐突とか唐突じゃないとか距離がどうこうとかじゃなく、わりと短いフレーズなのに、それを並べてメロディを付けることで、結構具体的な質感の感動を抱けるのが曲の良いところなのかもしれない。

 

 

FoZZtoneの「暮らそうよ」なんて、ギュッてしたら寝落ちした深夜のオフィスで学生のころの夢を見て、起きたら何か知らんけどすっきりしてたわっていう短い場面しか書かれていないのに、良いなあと満足度が高い。まあそのギュッてした部分の描写がいいんだけれども。前の席のやつのよう分からん英語の書かれたTシャツに、指に埋まった鉛筆の芯を見つめるってところを聴くと、教室の中、固い木の椅子に座って、机の上に置いた手のひらを背中を丸めながらじいっと見つめている、映像とも何とも言えない情景が頭に浮かぶ。そこから目が覚めて夢って気づく、なんか知らんけど懐かしい夢を見て妙にすっきりした、っていうこの短い話で良いなと思わせることができるのは、曲という形式だからのような気がする。

 


FoZZtone - 茶の花

 

「茶の花」とかも、小説に比べたら場面の描写はざっくりしているのに、その場面のチョイスに並べ方、何個かピックアップされた隣のちょっといい子との会話の進展させ方などが上手だから、コンパクトでかつ満足感のあるひとつの時間が描かれているように感じられる。茶の花を話題とした隣のちょっといい子との会話、大サビでのその会話の着地のさせ方が上手い。茶の花きれいだったなあというつぶやきに対して、隣のちょっといい子は、咲く頃に茶の花畑に連れてって、なんてふうには返してくれない、でも笑ってくれたっていう歌詞の運び方、演出が上手いと思う。なんていうか、大したことはないけれど後になったら妙に印象に残っている時間・場面みたいなものを、曲だったら歌える感じがある。街ですれ違った人の着ていたシャツの色が、自分の好きな感じの絶妙なネイビー具合で、日差しを浴びたそれがやたらと発色良く目に映ったみたいな、大したことはないけれど妙に印象に残った瞬間を、曲であれば単純に場面としてワンフレーズで描くだけで、情感をもたせて表現できる感じがある。なんとなく、小説で同じような瞬間を書こうとすると、ある程度ちゃんと書かないと何でもない場面として流れていってしまう感じがあって、でもある程度ちゃんと書くと過剰に意味のあるシーンになってしまう。俳句や短歌だと、文字数的にその瞬間のことしか書ききれないから、瞬間のことだけが強調されて一日とか人生の中にあったふとした場面っていうふうには表現できない気がする。曲であれば、フワッとなんか良いって瞬間を、その瞬間だけじゃない一連の文章の中に置くことができ、でも一連の文章は小説ほど長くはないから、文章の中である程度の重みをもって存在させることができて、フワッとなんか良いって感じをそのまま上手く表現できる。そんな気がする。あとメロディも手伝ってくれるし。FoZZtoneの曲にはフワッとなんか良い瞬間や場面が描かれているものが多くて、「チワワ」とか「ベイビーゴーホーム」とか「TWILIGHT」とか「のぞみ」とかにそういう要素がある。「大脱走のテーマ」は、その極北といった感じ。

 

 

なんかもう場面とか時間さえ書いてくれたらいいと思う。それさえ書いてくれたら、その人の良いなと思うものや感性とかが分かる気がする。カネコアヤノの「ジェットコースター」の「隣に座った知らないこどもの瞳を忘れられないまま 夜を迎える」も同じ感じで良い。小沢健二の「天使たちのシーン」なんかも印象的な場面の描写を集めたもので良い曲だけれど、ちょっと詩的過ぎる。