牛車で往く

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もうすでに人間なのに

太陽ホールディングスのCMを見ると、スピッツの「流れ星」のMVを思い出して聴きたくなる。

 


スピッツ / 流れ星

 

1番のAメロ、ベース抜きの演奏で草野マサムネの声の通る感じが良い。ドラムのスネアの音が響いているというか、拡散している感じも良い。MVを見ながら聴いていたら、それこそ広い宇宙空間の遠くにまで声が通っていくよう。まあ宇宙は真空なんで音は伝わらないんですけども。秋になると「花鳥風月」が聴きたくなるのは、ジャケットの色合いが秋っぽく見えるからか。

 

花鳥風月+

花鳥風月+

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とか言っときながら、最初から通して聴こうとした際には、結構な頻度で「猫になりたい」でお腹いっぱいになる。

 

テレビで企業のCMをよく目にするようになると(よく目にするような気になると)、勝手にそろそろ就活の時期か?と思うのだが、そもそもそういった類いのCMが就活生に向けたものかどうか分からない(そうじゃなかったとしたら、B to B企業のものは一体誰に向けたもの?)。就職活動とやらを経験してからというもの、テレビに映る夏の高校野球の、甲子園のフェンスやら外野席の天辺などにズラッと並べられた企業名がやたらと目につくようになりノイズが増えた。中には受けようかなと思っていた企業の名前もあり、中途半端にどんな会社かを知っているせいで余計に意識に入ってくるから鬱陶しい(受けようとしておきながら)。企業CMの中には人間力が身に着くとか言っているものがあって、人間力ってなんですのん、訳の分からん!って思うんですが、検索してみたらなにやら内閣府による定義とやらが出てきて、おいおい行政が言ってんのかいっ、といった気持ちになった。Wikipediaの記載によれば、知的能力要素、社会・対人関係力的要素、自己制御的要素の三つをギュッてしたものが人間力らしい。生まれてこの方ずっと人間やらさせてもらってましたけど、それに低い高いがあるとは思っとりませんでした。こういうよく分からない言葉がそれっぽく使われているのに出会うたびに、猫になりてぇって思う。でも本当はただただそんなものを気にせずに生きられる、圧倒的金持ち人間になりたい。人間力を凌駕する圧倒的財力を成した人間になりたい。

 

この前の「テレビ千鳥」のフェンシング回が面白かった。

 

 

ちゃんと相手の突きを弾いてから突き返すという、津田の経験を凌駕するユースケの圧倒的才能に笑った。フェンシングのエペというワードを聞くとEXITのオリンピック近代五種の漫才を思い出すのだけれど、あれも面白かった。エペ、エペ、レーザーランのレーザーランをギュッてするりんたろー。のジェスチャーが好き。千鳥もダイアンも東京で売れたことだし、コロナも落ち着いてロケができるので、「今ちゃんの実は」を復活させてほしい。武将様が船の上で西代にイライラしてブチ切れるのをまた見たい。そのあと魚たちに殺気立っているのを勘付かれないように缶コーヒーで一服して冷静になるのも見たい。

 

江國香織の「川のある街」を読み返した。やっぱり一番最初の、小学生の女の子の望子が主人公の話が良い。ピーマンを近くで見すぎてただの光っている緑だだとか、友達の美津喜ちゃんに初めて出会って「それウッドチップっていうんだよ」って言われたこと、そのときの美津喜ちゃんの顔が生真面目に見えたのをときどき思い出すだとか、本当にあった時間って感じの描写が、自分にはかなり刺さる。望子がそんなふうに美津喜ちゃんに初めて出会ったときのことをときどき思い出すのを美津喜ちゃんは知らないってことを、勝手に想像アンド補完して、そうして何も知らない美津喜ちゃんが望子と仲良く普通に遊んでいることにグッとくる。自分は多分、小説において主人公というか主格がここにいない誰かのことを考える描写に弱くて、それは誰かのことが好きだとか可哀そうだなどといった感情を飛ばしたものではなく、誰かと過ごした時間を思い出したり、誰かの行動や癖を思い出したりといった、ただ思い出しただけの描写に弱い。思い出したということは覚えていたということで、ただ覚えていたというだけで、それが覚えていたその出来事に何か特別な意味を与えるように思えてならない。大人になったら、そのときには大して何も思ってなくても、思い出したことで後効きで実感がやって来る感じが増えた。そこにはもはや思い出したことが本当か嘘かは関係なくなっている部分もある。これはほとんど思い出補正のようなものなのかもしれないが、温泉に行ったときよりも思い出した温泉に行ったときのこと(頭の中に浮かぶそのときの映像ともいえない雰囲気)のほうが温泉感がより強いし、沖縄に行ったときよりも思い出した沖縄に行ったときのことのほうが沖縄感がより強い。なんならそのときには感じていなかったことが、思い出したときには感じられることも多々あって、それはもうゼロから生み出している分補正ではなく妄想、空想、創造という方が正しい気がするが、でもそういうことが本当に実感を伴って起こるからどうしようもない。思い出そうとして思い出したことよりも、あっ、って忘れていたのに不意に蘇ってきたことのほうが、脳とか体が勝手に覚えていたっていう事実のおかげで(覚えようとしたわけじゃないのに覚えていたのは、覚えておこうかどうかを選べない自分の意志の関わらない出来事で、自分の意志の及ばない部分の自分が忘れられなかったみたいな必然感がある)、余計に自分にとって本当に大事な記憶なんじゃないかと思えてくる。っていう、プルーストの無意志的記憶みたいなことを何度も思う。さらには思い出した記憶が、花火が綺麗だったなどといった、そのときに感動しただろうから覚えていてもおかしくない印象的な出来事ではなくて、本当になんでもない出来事であればあるほど、覚えていた理由が謎な分、思い出した今にとっては綺麗などといった簡単な言葉では言い表せない独特の感触があって、妙な情動がもたらされる。そんなふうにして、「川のある街」でもおそらく望子自身にとって初めて美津喜ちゃんと出会ったときのことを思い出すのは、そこになんの特別な意味もなくただただ思い出すという行為でしかないと思うのだが、第三者視点の自分は勝手に、望子が美津喜ちゃんのことを思い出しているという行為自体に特別な意味を与えながら読んでいる。だから霜降り明星の漫才のネタでは「しょうもない人生!」って言われていたけれど、自分が死んだときの走馬灯には、この路地抜けたらこのでっかい道路にでるんかぁ、ぐらいの瞬間のことも結構な割合で入れ込んでほしい。それはそれで、そういった記憶を思い出したときにしかない面白さがあるだろうから。