牛車で往く

2026年かい

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壁打ちみたいな短歌鑑賞

休日に仕事関連でやらなければならないことがあって、一日中家の中でパソコンのキーボードを叩いていると、次第に背中や肩が凝ってくる。地べたに座って低い机の上に置いたパソコンに向かって作業するのが姿勢として悪いために余計に凝りやすくなっている気がするが、椅子を持っていないのでどうすることもできない。そんな凝りを外に出ずにどうにかしたくて部屋の中をウロウロ歩いてみるも、大して広くもない我が賃貸では動く範囲が限られ、あまり体をのびのび動かすこともできず、すぐに目が回ってくる。いっそのこと外に出るかなんて思いもするが、ヒゲも剃ってないし着替えるのも面倒で、せっかく起こした腰をまた地べたに下ろす。


楽しくないけどやらなければならない作業に対するせめてもの抵抗として、ながらで作業するというものがある。テレビを見ながらだったり、音楽を聴きながらだったり。大学受験のときに音楽を聴きながら勉強しようとして、意識がほとんど音楽に持っていかれて頭が全く働かなかった経験があるが、この日の作業はただひたすらに文字を打ち込むような頭を使わないものだったから、我妻俊樹のnoteで知った短歌・川柳耳学問というポッドキャストを聴きながらキーボードを叩いた。ちょうど我妻俊樹特集回の作者読み、人生読み(作者の人生を鑑みて短歌に歌われていることを考察する)、作中主体読みといった短歌の読み方うんぬんの流れで、川柳人の暮田真名が我妻俊樹の短歌に対する自身の読みを解説しているのが面白かった(28:30あたり)。

 

 

古着屋でマネキンがしてるヘッドフォン 愛の言葉はくせになるから

 

古着もマネキンもヘッドフォンから流れる録音された音楽もすべては何かの再生・再現で、愛の言葉(歌)もまた人間が何度も繰り返してきたものであり、その点においてのみ短歌で歌われるものたちは呼応している。決して心のないマネキンが愛の言葉を聞いて愛を渇望したり恐れたりしているわけではない、そうだとすると古着屋という言葉が浮いてしまう(古着屋という言葉が浮いてしまうとは、暮田真名ではなく髙良真実が言ったことだが)。この評を聞いて、感情移入しない読み方、キャラクターを考えない、歌われている光景のその場に立ち会っている人の視点ではない、ただ事実として歌われている言葉、並べられている言葉だけを受け取るというシンプルな読み方を学ばされた。確かに、仮に心のないはずのマネキンが愛の言葉のクセになっているってことに面白さを見出して作ったのだとするならば、「古着屋で」って言葉はいらない気もするし、でも「古着屋で」って言葉をつけることによって、古着の一度買われたのに手放されたっていう切なさが、心がないはずのマネキンにも呼応して切なさを帯びさせるような気にもなってくるんだけれど、「古着の一度買われたのに手放されたっていう切なさ」の切なさっていう感情まで持っていっているのが多分やりすぎている。古着は誰かが使っていたものがもう一度売られたものっていうただの事実の段階で止まればいいのに、手放されるのは切ないとか勝手に古着にまで感情移入している。

 

でも短歌って楽しみ方が難しいというか、暮田真名の解説を聞いて、そういう読み方があるんだと自分にはなかった読み方に気づかされたのは面白いと思うんだけれど、じゃあ改めて「古着屋でマネキンがしてるヘッドフォン 愛の言葉はくせになるから」を言われた通りに読んでみてこの短歌自体から面白さを感じるかと言われてみれば、う~んって感じになる。自分は穂村弘の短歌に関する本を読んで短歌って面白いとなり、それから歌集の「シンジケート」やら「ドライ ドライ アイス」やらを読んでみたのだが、それらをあまり面白いとは思えず、どちらかと言えば穂村弘のエッセイで紹介されていた永田紅や五十嵐きよみなどといった、場面が想像しやすい、共感性の高い場面を切り取ったような短歌を作る作者のほうが好みだと思った。それは単純に穂村弘の短歌には読み方が理解できないものが多かったからで、読み方が理解できないと何の感情も湧いてこないというか、あまりに引っ掛かるところがないからただただ困るってだけになり、そんなときに何も考えずに「分からないを楽しもう」みたいな常套句をとりあえず言ってるだけのやつのことが頭に浮かんできて、分からないなりに結論みたいなものを出している人が言うならまだしも、ただの思考停止を棚に挙げられましても、楽しむにも試行錯誤のとっかかりがいるやろ、そもそも楽しもうってなんやねん、「分からないなりに考えてみよう」とかのほうがまだ納得できるわ、と分からないことによるイライラが八つ当たり的にバーチャル世界のそいつらに向かう。ていうか、普通に歌集ってまるごと一冊読んだら分からない、難しい短歌のほうが多くないかと思う。特に、読んでも光景などの浮かんでこない、もしくは思い浮かべたところでその光景が共感を生むわけでも面白いわけでもない、事実とか理由とかを並べてるのに整合性が取れなくて抽象度の高いような短歌は鑑賞の仕方が難しい。だから自分は解説がついている短歌の本ばかりを好んで読み、「短歌ください」や「世界中が夕焼け―穂村弘の短歌の秘密―」なんかはその解説がありがたい。大学生のころに、まず「短歌ください」の投稿された短歌を読み、その感想を穂村弘の解説を読む前にアイフォンにメモし、それから穂村弘の解説と自分の感想を比べるってことを、寝る前の布団の上で夜な夜な行っていた時期があって、あれは大変面白かった記憶がある。

 

とか色んなことを考えたり、思い出したりしながら我妻俊樹のnoteを読む。

 

note.com

 

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短歌一首のサイズは、身も蓋もなさを受け止めたあとにつくり手が態勢を立て直すには、容積があまりに小さい。「秀歌は誰にでもつくれる」という甘い実感を押しのけて、何かほかのことを考え始める余裕が果たしてあるのか。

【歌評】クビレと摩擦|我妻俊樹」より

だなんて、まさに自分は短歌の作り手ではなく、ただの読み手であるにすぎないのに、秀歌ばかりに目がくらんで何かほかのことを感じ取ろうとしてこなかった(ただの読み手にすぎないからこそ、余計にそうなってしまったようにも思える)。薄々分かってはいたけれど、自分は良い(そして分かる)短歌として「クビレと摩擦」で言われている秀歌しか受け取ろうとしていなかったし(まさに穂村弘の本でその考え方を知り、それ以外の楽しみ方をいまいち分かってないまま、ここまで来た)、歌集を連作として読まずにただただ単発の短歌が並んだものとしてしか読んでいなかったことを、我妻俊樹のnoteを読んで意識させられる。と同時に、結局自分は短歌そのものからではなく、短歌について語られた文章からしか短歌の面白さを感じられないんじゃないかとも思えてきて、それはほとんど自分の代わりに他人に考えてもらっているだけの思考停止やんって、自分なりの読み方を見つけられないままでいる。それはたぶん、答え合わせまでとは言わないけれど、短歌について自分はこういう読み方したけどどう?って話す場がないから、意見を交流する場がないから、自分なりに読んでみようとはならないんだと思う。映画や漫画などは日常で人と対面してどんなふうに見たか、読んだかっていう話をすることがあるけれど、短歌はないから。そう思うと、「短歌ください」を読んで自分の感想を穂村弘の解説と比べていたのは、かなり力技かつ一方的ではあるがある種の交流(勝手に送信・勝手に受信)みたいになっていたような気もする。