会話で「ウェルカーム」って言われたから、「welcome to 競輪場♪」って昔のCMの曲を思い出し、あれはレキシの人が作ってたなってことから100sの「キャノンボール」のイントロが頭の中に流れてきて、それが最近キャプテンストライダムの「恋するフレミング」のイントロを聴いたときに「キャノンボール」のイントロと似てるなって思ったのとちょうどやんってなった。「恋するフレミング」のAメロの、ちょっと投げやりなというか、顔を傾けながらマイクに口を近づけて歌ってそうな歌い方(ちょっと奥田民生みのある)が好きで、「呟いたあ⤴」の「あ⤴」のところに妙な色気を感じる。
「続 街並みの美学」に、天橋立を眺めるポイントは五ヵ所存在していて、中でも大内峠にある公園からの、陸地が横一線になって見える眺望こそが、股越しに逆さで見たときに天にかかる橋のように見えるものであって、有名な遊園地にあるお立ち台みたいなところから覗く、陸地が手前から奥に向かって見える眺望は、実はあまり美しいものではないということが書かれていた。確かに考えてみれば、海に浮かぶ横一線の陸地が逆さになると、陸地の海と触れる平らな部分が天を向くことによってそこが橋の上の歩く場所みたいに見え、天に横にかかった橋のように見えると納得できる。あの遊園地のところからでは、島は上下の方向に伸びていて、普通に見ようが股越しに覗こうがあまり眺望に変化はない。大学生のころにその遊園地から天橋立を実際に見たときも、ほ~んって感じであまりピンとこなかった。天橋立は天まで続く橋ではなくて、天にかかった橋ってことですねと納得しかけたところで、「はしだて」の意味を調べたら「はしごを立てること」って出てきたもんだから、ほんなら横方向に伸びるんじゃなくて上方向に伸びてなければ話が違いますやんってよく分からなくなりました。なのでこの話は一旦放っておきます。
電車に乗って改札を出て右に曲がったところで前から「Clap Your Hands Say Yeah」ってヘナヘナの字で書かれた服を着た男性が歩いてきて、『クラップユアハンズセイヤーの服着てる!』って脳内でちゃんとこの文字のままのことを思った。『クラップユアハンズセイヤー』って1字ずつちゃんと脳内で発音した。それから『クラップヨヘェァンズ』ってヘナヘナの高い声が頭の中で響いてきた。Clap Your Hands Say Yeahの場合は、知ってるバンドのTシャツを着ている人を見つけた嬉しさよりも、なんか面白いって感情が勝った。
夜の10時半ぐらいに筒井康隆の「文学部唯野教授のサブ・テキスト」の一杯のかけそば分析を読んでいたら、強烈にうどんが食べたくなり、耐えきれず冷凍うどんをゆでた。関西のお店で食べるあの澄んだ黄金色のだしによるうどんを家で食べたくて、でも以前にそんなお店の味が再現されていると評判のヒガシマルのうどんスープを買ったところそんなに美味しくなくて、結果、いまは創味食品の「創味 京の和風だし」に落ち着いている。 ゆでたあと直接食べる紺色の鍋の中に、なんとなく色味の分かる黄金色のだしが入っているのが最初は嬉しかったが、結局外で食べるうどんのほうが美味しく思え、それは外で食べるっていう雰囲気によるところが大きい。家は落ち着くから美味しさまでも落ち着いてしまう。だからお店と全く同じ味であったとしても、家で食べることで問答無用に美味しさはちょっとだけ落ちる。
なんかその、「燦々」までのアルバム、特に「祝祭」と「燦々」が良すぎてそれらに十分に満足してしまい、それ以降のアルバムを聴いてなかったのだけれど、サブスクの流れで流れてきた「腕の中でしか眠れない猫のように」があまりに良くて、自分は今さらながらひどく感動いたしました。その日のうちに繰り返し何度も聴いて「真っ赤なギターにぃ~」が来るのを待ちわびるようになり、最終的には聴くたびにこの部分のチャージされる感じが胸にグググググっと高揚感をもたらすまでに至った。自分は「私たちいつも頑張っているね」みたいな自分自身を慰めるような言い回しが全然好きじゃなくて、そんな慰めに何の意味があんねんとまで思うのだが、カネコアヤノが歌ったらなぜか何も思わないというか、なんなら慰めなんかじゃなくて本気で言っているように聞こえて、自分は無条件にカネコアヤノを信用している。誰かに同意を求めるんじゃなくて自分でホンマにそう思ってるって感じで、なんだかカネコアヤノを聴いていたら、時にはブチギレたってもいいんじゃないかみたいな、もしかしたら良くないかもしれない方向へと気持ちが前向きになる。カネコアヤノはマジで本気って感じで、ヘナヘナしていないのが良い。歌声の説得力が違う。
町田康の「人間の屑」を読み返した。ほとんど忘れていた。最後のほうの大阪でうどん屋を開店したところのいやん、いやん言いながら二日酔い、這う這うの体で町を練り歩くところが面白い。町田康が朝吹真理子の「きことわ」の文庫本に寄せていた解説も面白かった記憶があって読み返したらやっぱり面白かった。面白い面白いって簡単におれは言うけれど、映画「国宝」を見た人にめちゃくちゃ良かったでと薦められたときに、そんなに面白かったん?と聞いたら、面白いとかじゃなくて目が離せんって感じと訂正され、その後にどんな風に良かったかをネタバレを避けて説明されたときも、こちらは正直言ってどれだけ薦められようが映画館で三時間もおとなしく座っておけるほど気も長くないのではなから見る気もないと、とりあえずの相槌として、へえ、そんな面白かったんやと返したところ、またもや、いや面白いとかではないねんと返されて、面白いにも人それぞれ微妙なニュアンスがあることを知らされた。面白いをめっちゃ愉快の意味で捉えるやん、そんなに納得できんか、面白いという言い回しが、と最初は思ったが、言葉をできるだけ正確に使って自分の抱いた感情を伝えようとする姿勢は、確かにそうあるべきですと、家で落ち着いている今は思う。面白いとかいう感想で片付けられたくない微妙な印象の残る作品は確かにあるから、あまりに見る気のなさすぎた自分が適当に上辺だけの返事をしていたことを痛感しました in da house. 正確には、痛感しました at home.
N'夙川BOYSの「シャンソン」が仕事中頭の中でずっとかかっている時期があった。シャンシャン、シャンシャシャンシャン。自分はシャンソンのことを勝手にアジアの民謡的なものだと思っていたけれど、フランスの歌謡曲のことだった。多分、新春シャンソンショーの、新春ってことはお正月、お正月ってことは日本的なものっていう連想から勝手にアジアって決めつけていたのだろう。あと上海に響きが似てるし。シャンシャン、シャンシャシャンシャンハイ♪ ソンシュン ソンシュン ソンシュン ソンシュン、スンション スンション スンション スンション。


