牛車で往く

2026年かい

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狢の一員

小説を読んでいたら、なんか暗い雰囲気のやつばっかりやなあってなって、テンションが上がらずに途中で閉じるのを繰り返す。明確に暗くないものでも、ジメジメしているというほどではないけれど、乾いているか湿っているかといえば湿ってるって感じるものが多くて読んでいてしっくり来ない。保坂和志が何かで言っていた、小説は暗くなりがちみたいなことが頭によぎる(だいぶ曖昧な記憶)。とにかく暗くない、深刻じゃない、でもなにも能天気なわけでもない、読んでいて明るくなる、ニコルソン・ベイカーの「中二階」みたいな小説を読みたい。でも、そんな自分の好きな「中二階」を堀江敏幸は書評

本文と脚注の転倒。ふつうなら寒々とした参考文献の列挙か、あらずもがなの評言ばかりならぶ「注」を、生き生きとした愉快な読み物に変容させたのは作者の手柄だろう。だがこの転倒があまりに軽やかで、あまりに鮮やかなだけに、注釈という手段に訴えざるをえない現在の語り手の姿が、かえって浮き彫りにされてしまう。おびただしい注を持ち前のユーモアで量産し、読者に内面を悟られまいとする寂しげな横顔。無駄話に戯れることが、じつは本当の自分をたえず隠蔽していく恰好の逃げ道だということを、彼はなかば承知しているのではないだろうか。

と評しており、保坂和志の言っていたことは書き手ではなくて、読み手が勝手に暗い方向に読んでしまうといったものだったっけ?と首をかしげる。いずれにせよ、全くそんな感じではないのに「おびただしい注を持ち前のユーモアで量産し、読者に内面を悟られまいとする寂しげな横顔。無駄話に戯れることが、じつは本当の自分をたえず隠蔽していく恰好の逃げ道だということを、彼はなかば承知しているのではないだろうか」とは普通に考えすぎだろうと思う。なぜそこまでして深読みしようとするのか。そして「中二階」みたいな小説を読みたいと言っておきながら、いざ「中二階」や同じニコルソン・ベイカーの作品「室温」を開いて読むと、なんかちがうなあ、飽きたなあ、と食傷気味になっている。仮に「中二階」みたいなニコルソン・ベイカーではない人の作品を読んだとしても同じ感情を抱くことは容易に想像でき、自分はすでに知っている雰囲気の、けれどもまだ未知の感情を覚えさせてくれる作品を読みたいといった、かなり矛盾した想いを抱いている。あんな感じの本を読みたいとぼんやりしたイメージはあるが、あまりにその通りに来られるともう知ってると思ってしまう。だからあの手この手で上手く騙されたい、自分は。

 

ということで、小説をやめて「捨てられないTシャツ」という様々な人たちのTシャツにまつわる思い出話が書かれている本を読み、それからその本の前書きで紹介されていた「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」という本も続けて読んで、だいぶ小説よりは湿っぽくなくていいとなったのだけれど、あとちょっと何かが物足りない感じがあって、そうして「死ぬかと思った」ぐらいが今の自分にはちょうどいいんじゃないかと思いついた。さくっと電子書籍で読みたいと思い調べてみると、古い本だからか電子書籍が見つからず、とはいえ本で手に入れるほどか?と急に冷静になる自分がいて、結局何も読むのをやめた(どうでもいいけど、「死ぬかと思った」とか芸人のエピソードトークとかを聞いていると、そんなにウンコを漏らす人っておるんやって思う。確かにごくごくごくまれに電車の中で屁ではなくて確実にウンコのにおいがするときあるけど)。

 

 

 

 

ハンターハンターの念能力みたいな名前の台風クラブの新曲「不明の不演不唱(あけずのぶるうす)」が良くて頻繁に聴いている。

 


台風クラブ/不明の不演不唱(あけずのぶるうす)

 

ギターとベース二人のユニゾンした歌声やMVの光の具合(MVの監督がthe Loupesのボーカルの人だった)がまさに深夜から明け方にかけてのぼんやりした感じを再現しているようで、その感じから自分はずいぶん前に読んでいいなと思ったcar10のアルバムのAmazonレビューに書かれていた銭湯みたいなリヴァーブって言葉を思い出した。初めて聴いたときに「三条まで行って バイバイ手を振って」ってところで、MVの映像の舞台が京都ってことはわかっていたんだけれど、歌詞に急に具体的な場所の名前、三条って言葉が出てきた瞬間に、自分の人生にもあったいくつかの京都の夜が蘇ってきて、一気にグッとたまらない気持ちになった。河原町あたりで飲んでそろそろ帰ろうって京阪の駅に向かってしゃべりながら三条大橋を渡る、そんなベタな、でも良いなっていう京都の夜。夜の散歩はいくつになってもいいもんで、そんな気分になったからそれ町の深夜に徘徊するシーンのある話を抜粋して読み返した。ので下にまとめます。

 

第16話 ナイトウォーカー 2巻収録
栄養ドリンクを飲んで覚醒し眠れなくなったタケルが歩鳥といっしょに夜の商店街を散歩する話。「夜は敵が強いんだ」というタケルのセリフを聞いて、小学生のころのポケモン銀バージョンを思い出した。我が家では18時以降のゲームは禁止されており、ゲーム内の時間設定を律儀に現実世界と合わせていたもんだから、18時以降の夜に出てくるホーホーなどのポケモンを全然手に入れられなかった。ポケモン自体もゲームボーイをもっておらず、ゲームボーイのカセットをスーパーファミコンに挿して使えるスーパーゲームボーイなる拡張カセット(そのバージョン2)でやっていたから、親に隠れてゲームをすることも出来なかった。18時以降にゲームをする方法はただ一つ、友達の家に遊びに行ってひたすらに居座り続けることであった。明らかにタケルのリュックサックの中にエアガンらしきものがあるのに、わざわざSS(スリングショット)を使って真田を呼び出そうとしたのは、その威力を気にしてだろうか。自分自身は、この話のタケルのような初めて夜中の0時をまたいだ瞬間の記憶がない。多分中学くらいで初めてだと思う。あと、家の裏口からそ〜っと帰ってくるときの歩鳥の顔が好き。てか2巻面白い話ばっかやな。一番好きな巻かもしれん。


第36話 卒業式 5巻収録
ユキコが学校に忘れた宿題の問題集を歩鳥が一緒に着いて行って取りに行く話。校舎を散策した歩鳥が自身の小学生時代を色々思い出していたけれど、自分も行ったら色々思い出すのだろうか。もはや下駄箱から廊下を歩いて階段を登り教室に入るまでの道のりの、どの光景も今は思い出せない。歩鳥が遊具を見てこんなに小さかったっけと思い、そこから卒業とは「校内が社会全体っていう錯覚から卒業するんだ」という考えに至るところがなんだか切ない。確かに小学生と高校生なんて体の大きさが全然違うし、なにより歩幅が違う。小学生のころに遠いなと思っていた友達の家までの距離は、中学、高校になるともはやスッと行ける程度のものになる。友達の家に行く時にかかる10分が今感じる10分よりも長く、遠く感じたのは、単純に子どものころは早く起きて早く寝なければならないという一日の活動時間の短さも起因していたのだろう。親の送り迎えがなくなり友達の家から自宅まで1人で帰るようになったころ、夜に出るポケモンを捕まえるべくして粘ったあとの、空が暗くなり始めた帰り路の心寂しさたるや。普通に怖かった。めっちゃ立ち漕ぎして全速力で帰った。逢魔が時。


第66話 燃えよ 歩鳥 9巻収録
歩鳥が真田の親父、八百屋、クリーニング屋と夜回りをして放火犯を捕まえようとする話。火の用心と言いながらカンッと拍子木を合わせて音を鳴らす。歩鳥が拍子木をヌンチャクのように振り回すシーンがあるが、自分の友人の中にはブルース・リーの洗礼を受けたものはひとりもいない(自分自身も)。ジャッキー・チェンもそう。そう思えば火の用心の見回りって、家の中で声や音こそ聞いたことはあるが、徘徊している姿を目撃したことはない。ていうか最近はあまり聞かない。今はみんなストーブとかではなくエアコンを使うようになったから、火を用心する必要もなくなったのか。

 

数年前から大喜利かというほどに「夜+助詞+動詞」っていうフォーマットの曲がじゃんじゃん出てきて、もういいってって食傷気味になりながらも(ナイトをクルージングするのももういい)、そう言う自分も夜の散歩に心地よい切なさみたいなものを感じており、その感覚が好きでもあるから、結局同じ穴の狢(panpanya)なのか*1。同じような小説には退屈を覚えていたのに、郷愁やノスタルジア的な切なさは繰り返し味わいたくなっている。永井荷風は「放水路」で

四、五年来、わたくしが郊外を散行するのは、かつて『日和下駄』の一書を著した時のように、市街河川の美観を論述するのでもなく、また寺社墳墓を尋ねるためでもない。自分から造出す果敢い空想に身を打沈めたいためである。平生胸底に往来している感想に能く調和する風景を求めて、瞬間の慰藉にしたいためである。その何が故に、また何がためであるかは、問詰められても答えたくない。唯おりおり寂寞を追求して止まない一種の慾情を禁じ得ないのだというより外はない。

と書いており、自分は荷風ほどの潔さをもてていない。さらに荷風は「銀座」にて

これに反して停車場内の待合所は、最も自由で最も居心地よく、聊かの気兼ねもいらない無類上等のCaféである。耳の遠い髪の臭い薄ぼんやりした女ボオイに、義理一遍のビイルや紅茶を命ずる面倒もなく、一円札に対する剰銭を五分もかかって持て来るのに気をいら立てる必要もなく、這入りたい時に勝手に這入って、出たい時には勝手に出られる。 
(中略) 
新橋の待合所にぼんやり腰をかけて、急しそうな下駄の響と鋭い汽笛の声を聞いていると、いながらにして旅に出たような、自由な淋しい好い心持がする。 
(中略) 
自分は動いている生活の物音の中に、淋しい心持を漂わせるため、停車場の待合室に腰をかける機会の多い事を望んでいる。何のために茲に来るのかと駅夫に訊問された時の用意にと自分は見送りの入場券か品川行の切符を無益に買い込む事を辞さないのである。

と書いており、ここまで来たらプロやなと思う。あえて感傷に浸ろうとする行為をすんなりと認めがたいのは、なんだかなあと思っている熱闘甲子園みたいなお涙頂戴的なものにハマるのと同じ行為に思えてしまうから。でも、もういっそのこと狢の一員として、堂々と胸を張り開き直ってやろうか。そもそもなんで我慢してんのか。ていうかホンマにこんなこと考えなあかんか?

*1:「同じ穴の狐」とも言うことを知らなかった。「同じ穴の狢」のほうが『な』が三つあって語感がいい。