河川敷を散歩していたら、前のほうの草むらの中をアオサギがのっしりと歩いている。そこら辺の鳥よりも大きいから、野生のポケモンがおったらこんな感じなんかなと変な想像をする。もしそうだとしたらちょっと怖い。自分が近づく前に飛び去って行くアオサギの姿を見ながら、ちょっと怖かったのに逃げられたみたいな感情が湧いて、なんだかポケモンスナップを思い出した。近くで見るアオサギの瞳はギョロリとしており、何を考えているのか分からなくて気味が悪い。そもそも動物は基本的に何を考えているのか分からないから怖い。それは人間も同じなのにそうは思わないのは、人間どうしなら分かり合えるという自惚れがあるからだろうか、などという考えは思ってもいないのに頭に浮かんできただけのしょうもないもの。ただ言葉が通じる分、意思疎通ができる気になるというだけのこと。じゃあ犬でも飼って愛着でも湧けば、犬相手に何を考えてんのか分からんみたいなことをいちいち気にしなくなるのは容易に想像できる。犬側もきっと自分を愛してくれるだろうって何も知らないのに思える。どこまでが勘違いなのかは分からない。犬は人間の言葉をしゃべれないし、自分も犬の言葉が分からないから。アオサギの次は、猫が草むらの中に佇んでいてこちらを見ている。この前読んだ本に猫の目に映る景色は人間のものと異なっていると書かれていたのを思い出して、それがどの本だったのかは思い出せない。そこに書かれていたことが本当であれば、距離から考えて多分向こうの猫には自分の姿ははっきりと見えていないはずだった。猫は人間よりも人間でいうところの視力は弱いらしいから。猫でもないのにそんなことどうやって分かったんだと思いながら、それでも猫はこちらに顔を向けてじっと見ている。それはよく見えないから何がいるんだと確かめるためにじっと見ているのか、それとも本当はめちゃくちゃに視力がよくて見えているから見ているのか。猫の視界なんていう本当には実感できない科学的事実に対しては、信じるという、ある種呪術に対するような姿勢を取っている。本当のことの中には本当なのか本当には実感できないものもある。でも人間の自分だってたとえはっきりとは見えていなくても......とか、猫が見えているのか見えていないのかを考えるために人間の場合に当てはめようとして、別にそんなことをしたって大して面白くはないと考え直してすぐにやめた。それは猫を人間の物差しで測るのが面白くないってわけではなくて、猫の見えてる感じが分かろうが分からまいがどっちみち特に面白くないと思ったからだった。動物を愛でる番組で動物の気持ちを人間の言葉でアテレコするのは前者の意味で面白くない。動物を舐めているようにしか思えない。ランニングをしている人が呼吸を荒げながら自分のすぐ脇を走っていくのが気持ち悪い。最短のルートを取りたかったのかもしれないが、追い抜かすときはもっと距離を空けてくれ。アイシールド21のパンサーも相手を抜かすときに最短の滑らかなルートを取っていて、それを見抜いた進清十郎はパンサーを簡単に止めていた。おれもスレスレですれ違おうとして来るおっさんにスピアタックルをお見舞いしてやろうか。アイシールド21を読んで育った世代の自分たちは、体育の授業のラグビーで思いっ切り前にパスを出し、先生がそれを見た瞬間に思いっ切りホイッスルを鳴らした。何やってんねや!っていうのに、は?何が?って何を注意されているのかが分からなかった。後ろにしかパスを出せないラグビーは素人がやるとほとんど前に進むことがなく、攻撃側が圧倒的に不利で全然面白くなかった。アイシールド21は四巻までが最高に面白い。王城との試合に負けて雨の中練習するセナに対して、一流の選手は……っていう言葉をキャラに言わせるのではなくて、モノローグで挿し込むことによってクサい感じがなくなると振り返った今思う。ダレル・ロイヤルはん、自分、挫折もしてないのに家で寝転がったまんまですねん。ほんで体の節々が痛くなってきたから、こうやって河川敷に散歩に出てきたってわけですわ。