レジ袋削減のためにエコバッグを推進するのはいいねんけど、コンビニで商品をレジに通す順番をもうちょっと考えてほしい。本当はピッ、ピッって通ったものからどんどんエコバッグに詰めていきたいところを、お弁当などのしっかりした包装形態のものより先にパンみたいな中身も包装も柔らかいものを通されると、上に重ねることを考えて、お弁当のほうからエコバッグの底に置きたいから待つことになる。その時間めっちゃ無駄やん。ほんで詰め始めたころに金額を言われて、慌てて詰めてるこっちを『早よせえよ』みたいな感じで見てくるのをやめてほしい。そっちの協力もいるやん。共同作業やん。頼むわ。とか偉そうに思ったけれど、こちら側が商品を買い物かごに入れていく時点で、底にお弁当、その上にパンとかお菓子の順番にしているから、そりゃあレジ通すときに上から取っていったらパンとかが先になりますよね。ものをよく考えずに文句を言ってごめんなさい。とはいえ、何かうまいやり方ないもんですかね。
アガサ・クリスティーの「そして誰もいなくなった」を読んだ。
登場人物を覚えられなかった。だから自分はひとを顔メインで覚えているんだと気づけた。熱が出たりすると気付くんだ、僕には体があるって事ってな感じで。小説の登場人物には名前も性格も行動もあったけれど、顔がないから誰が誰だか覚えられなかった。現実の特定の人物のことを思い浮かべるときにまず出てくるのは、性格などの言葉で表せられるものじゃなくてぼんやりとした顔の感じで、性格などはその顔の感じに雰囲気として紐づいている。だから人を覚えるにはやっぱりベースとして顔が必要である、自分には。顔がなければ印象が生まれない。漫画などであれば絵があるからキャラの顔と性格を紐づけられる、だから覚えられる。でも洋画だとあまり登場人物を覚えられないことがある。自分はまだ外国の人の顔をちゃんと細かく見分けられていない、雑にしか捉えられない。あと、海外文学を読んでいるとちょくちょく出てくる軍人の階級の、社会的な地位がいまいちよく分からず、「そして誰もいなくなった」に出てきた元陸軍大尉の登場人物に関しても、その人物がいかほど偉いのかが掴めず、発言力があるのかどうかが分からなかった。「そして誰もいなくなった」は、単純に物事が進行していって最後に種明かしといった内容であり、ただただ人が殺されていく流れを文章で追っていくだけで、閃きを覚える一文などはなかった。そんなふうにトリックとその種明かしに重きを置いた推理小説は、自分には合わないのかもしれない。そのあとに読んだ江戸川乱歩の作品では、でろでろに作者の嗜好みたいなものがにじんでいて面白かった。でも江戸川乱歩の作品は、誰が犯人か?と考えるような謎のある推理小説ではないから、そりゃあ読後感は違うだろうとも思う。あとは「群像短篇名作選 2000~2014」に収録されていた黒井千次の「丸の内」を読んで、やっぱりこの作家の書き方は自分の好みだと思った。
大人になったら連想することそれ自体に面白さを感じるようになっていると実感する。だから大して面白くないダジャレを言ってしまう。中身がどうこうよりも、思いついたこと自体が面白くて嬉しくてテンションが上がってしまい、そのままの勢いで口を滑らせる。連想するのはダジャレに限らず、上でコンビニの商品をエコバックに詰めているのを見つめる店員の視線について書いたときにも、「モントゥトゥユピーがシュートを見るみたいな感じで見るのをやめてほしい」っていう喩えが浮かんで書きたくなったけれど、冷静になったらそこまで蔑まれてないというか、虫けらを見るような感じでは全くないので、ブレーキがかかった。多分、友だちに話す状況だったらそのまま言っていたと思う。他にも、この前ゴスペラッツの「ハリケーン」を聴いていたら(シャネルズ、ラッツ&スター世代ではないからゴスペラッツの「ハリケーン」)、間奏のメロディをどこかで聴いたことがある気がして、それがキンモクセイの「さらば」のイントロにそっくりだって繋がっただけでテンションが上がった。それから友田オレ(これも"共倒れ"のダジャレですか?)の組んでいるコンビの名前「Let Me Show You THE まごころ」が、そういや「ハリケーン」の歌詞から来てんのかって気づいたことにもテンションが上がった(「Everyday is THE どしゃ降り」とどれくらい悩んだ?)。ただただ何かが何かに繋がっただけでテンションが上がる。本当に面白いあるあるやモノマネなども、感じていたけれど意識はしていなかった潜在的な認識に繋がるから面白く、その面白さを感じるに至るまでの経路は忘れていた記憶を思い出して懐かしさを覚えるときのものと少し似ている。ただ、これは経路が似ているってだけで、感情の動く幅は全然違う。