牛車で往く

電車に乗ってるときなどの暇つぶしにでも読んでください

スポンサーリンク

二重の極み

紙で指を切った。そうしてこの曲を思い出した。

 


チャットモンチー 『ハナノユメ』

 

それから「るろうに剣心」で、剣心が切った大根の断面をもう一度合わせると元通りにくっついたシーンを思い出し、傷口を指でつまんでギュッとくっつけた。自分は紙で指を切るたびにチャットモンチーの「ハナノユメ」を思い出し、それからるろうに剣心を思い出して傷口をギュッとつまむ。くっつくわけがないって、この文章を書いている今は思っているのに、いざ指を切ったときにはより合わせて薄くなった切り口の線がそのままスーッと消えないかと、つまんだ傷口をしばらく見つめてしまう。チャットモンチーの曲は、彼女たちが解散してから頻繁に聴くようになった。もう解散してしまったからこそ帯びているちょっとした切なさみたいなものを、チャットモンチーの曲から勝手に感じている。「Majority Blues」なんて解散しているからより一層良いまである。初めてライブハウスで聴いた生音の衝撃と、その衝撃の残ったグラグラと揺れているような不安定な体で帰る帰り道。バンドによって出力の仕方は違うとは思うが、音楽と出会った瞬間のことを明るくじゃなくてこういう曲調で歌うのが良い。ギターを弾かないから分からないけれど、歪んでいると言うのか、そういうギターの音色もめっちゃ良い。自分は好きだったバンドには再結成なんてしてほしくないタイプで、本人たちの気持ちがどうとかは置いといて、自分がしてほしくないからしてほしくない。好きだったのに解散してしまったバンドの曲は、ちゃんと終わったバンドのものとして自分の中で結晶化している。一度そうなったからには、それは一生そのままにしておいてほしい。自分は彼らの曲を解散したバンドの曲、もう二度と新しく曲は出さない人たちの曲として聴いているのに、再結成してなにやらわだかまりみたいなものも溶けて、和気藹々と『音楽ができる喜び!』みたいな表情で演奏されても、『あれ本気じゃなかったんかよ』と冷めてしまう。声もなんか柔らかくなってるし。幸いにも自分の好きだった解散したバンドが再結成したことはまだないから、みんなどうかそのままじっとしておいてほしい。こんなことを言っておきながら、再結成したらしたで一度はリリースされた楽曲を聴いてみるとは思うけど。でも実際、再結成ではないけれど、学生のときにめちゃくちゃハマって聴いていたアジカンの「ソルファ」が、時間が経って新録版としてリリースされたのを聴いてみると、全く良いとは思わなかった。「サーフ ブンガク カマクラ」の完全版に関しても同じで、あの三十分ちょいっていう短さが良かったのにという感想を抱いた(まあ本人たちもそんなことは承知でやってんだろうけど)。アジカンのそんな新録アルバムたちを聴いて、やっぱりめっちゃ良かったやつの一発目の感触を更新するのは相当難しく、せめてもっとあんまり売れなかったアルバムでやり直したら良かったのにと思った。だから解散してしまっためっちゃ良かったバンドも、めっちゃ良かった記憶のままでいてほしい。もう帰ってこないことによる補正をかけてしまっているから、それを超えるのはなかなか難しい。

 

チャットモンチーの曲では他に「8cmのピンヒール」が好きなのだが、この前、読んでいた稲垣足穂の『飛行機の黄昏』に

針でつついた穴のようにたくさんピカピカしている星

という文章が出てきて、「8cmのピンヒール」の歌詞みたいだと思った。稲垣足穂のころはまだ、夜になると星が多く見えていたから星に焦点がいってこういうふうに表現したのだろうが、町の電気の明るさに星の光がかき消されるようになった現代を生きるチャットモンチーは、星よりも大きくて輝きの強い月に目がいったのだろう。

 

 

『飛行機の黄昏』に収録されている「彗星一夕話」や「おそろしき月」、「横寺日記」などを読んでいると、ふいに『稲垣足穂ってマジで生きててんな』と感じる瞬間が訪れる。それは稲垣足穂の書く文章に、親しみを感じたからだった。

 

 小学校前の文房具屋の店先に、月じるし鉛筆の台紙を見るたびに、私には不審にたえない一事があった。紙製のお月様は実は半月に近いほど肥えているがともかく三日月型だとしておこう。三日月型をしているものの正確には三日月でなかった。三日月様はかおを向かって左側へ向けているのに、この西洋の紙の三日月は顔を右に向けていたからだ。これは暁方あけがたに東へ差しのぼるだと気が付いたのは、ずっとあとの話だった。そのうちにある明け方、まだあたりが暗い時刻におもてに立って、私は未明にのぼってくるお月様が、なるほど人間の横顔に酷似していることを知った。つまり明暗線のジグザグが、宵月にくらべていっそう人間の横顔に近いのである。月じるし鉛筆会社の創設者はきっと早起きなのだと思わずにおられなかった。 

p53

 

月じるし鉛筆の会社、ステッドラー社の三日月はこんな顔をしている。

 

jaa2100.org

 

自分は、稲垣足穂が最後の「月じるし鉛筆会社の創設者はきっと早起きなのだと思わずにおられなかった」ってふうに考えたのがたまらなく好きで、この文章のおかげでステッドラー社の三日月をちゃんと血の通った、誰かしらの人間によって作られたマークと思えるようになった。こういう何かの背景にあるものを感じ取ったり想像したりすることで、一気に対象との距離が縮まるのが面白い。そして『飛行機の黄昏』を読んでいて一番グッと来たのは、稲垣足穂が、星々を軸にして過去と未来とが今に重なり合うのを感じている瞬間だった。

 

八月八日 日曜
 八時過ぎに崖上に立って、の胴を指しているはずを求めた。月光は既にみなぎっているが、かすかな、然しくっきりした愛らしい矢形は見付かった。
 山羊、、水瓶、、が判明しないのでいずれ他の星を台に導き出すことにし、カシオペアの上方にケフェウス五辺形を求めた。ペガススの方形はいつもながら堂々としている。みんな昔見たのと同じ星座だ。にもかかわらず異ったものに映じるのは何故であろう? これら星々は今後とても仰ぐことだろうが、その度毎に変った印象を与えるに相違ない。太陽は日毎におじみだが、時刻によってずいぶん印象に差異がある。同一時刻でも窓越しに見るのと庭先で仰ぐのとは別物だ。この事柄は、常にこちらに向って何事かを囁きがちな星々の上に移してみると、いっそう度合が著しい。既に墓の下へ去った人々が目にしたもの、今後生れてくる人々が見るであろうもの、そしてこういう自分が前世にあって、又、考えられもしない将来にあって、何処どこからか眺めているかも知れないところのもの!

p135

 

今、遠く夜空に認めている輝く星は、多分過去も未来も同じように夜空にあった、もしくはあるのだろうという、自分と他人との人生を比較した大きな時間軸の奥行き。それから、今の自分は昨日の自分と同じ星を見ているのに昨日とは違うものを感受していて、ということは未来の自分もまた今の自分とは違う印象をこの星から受けるのだろうという、自分自身の人生単位の時間軸の奥行き。星々に、夜空にずっと浮かんでいるという変わらなさと、それらの表情はずっと変わり続けているという計れなさが同居していることに気づいたとき、胸中に複雑な距離感が生まれるのを感じ、それが胸がキュッとなる郷愁のような何とも言えない切なさを覚えさせる。我妻俊樹のブログの旅情について語られた文章や、プルーストの無意志的記憶に関する考察を読んで、自分の中で異なる二つの時間がダブったときに旅情や懐かしさといった感慨が生まれるということを考えるようになったのだが、ここでもそれと似たようなことが起きている。過去の一瞬が今の自分にフッと湧いてくるように、星を通して想起した未来の自分が、想起した途端に確かな輪郭をもって今の自分にフッと重なった感覚。星を眺めて遠い時間に思いを馳せるなんてことは、別に珍しいことじゃないのかもしれないけれど、稲垣足穂のこの文章のように、一日の時間の中で星を眺め、そこでどんなふうに感慨を抱いたのかを自分の言葉で詳細に書かれると、安い感傷なんかではなく本気なんだと思えて、こちらも胸を打たれる。