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勝手な雑感

映画「アフタースクール」を見た。

 

 

面白かった。映画の序盤は佐々木蔵之介が渋くてカッコいいなあとか思いながら見て(声がカッコいい)、後半に進むにつれて次第にストーリーの展開に目が離せなくなっていった。バラエティ番組から抱く大泉洋のキャラクターの印象に完全に欺かれることとなった。それから「アフタースクール」を見終わってなんとなく是枝監督の「怪物」を思い出した。それは舞台として学校が出てくるだとかストーリーの進め方だとかが、共通点と言えるほどでもない本当にかすってるぐらいの微かな接点として感じられたからだった。全貌を十分に映さずに登場人物の視点の切り替わりによって全体像が見えてくるという手法に関して、「アフタースクール」みたいな比較的エンタメ寄りの映画で使われれば面白がれるのだが、「怪物」みたいなシリアスなテーマで、その手法によって観る側の偏見というか思い込みを意識させるといったふうに使われると、なんだか腑に落ちない気分になる。そこで『自分も偏った見方してた……』と思えるほどこちとら純粋じゃないし、作者の作為を過剰に意識して冷めてしまった(こっちが勝手に感じ取っただけで、作者自身にそんな作為はなかったのかもしれないが)。テーマがシリアスであればあるほど、観る側に自身の偏見を意識させるまでの流れが自然じゃないと、偏見にさらされている対象が、気づかせて衝撃を与えるという一連の流れ、ギミックのためだけにピックアップされたもののように感じられて、途端に映画が陳腐なものに思えてくる。だから自分は「怪物」をあんまり良いとは思えなかった。

 

「アフタースクール」のエンディング曲をMONOBRIGHTが歌っていて懐かしいと思った。自分は「紅色 ver.2」が特に好きだった。

 


MONOBRIGHT 『紅色 ver.2』

 

たまに日本人は歌詞ばかりを気にするといった意見を耳にする。自分はわりとそのタイプの人間で、かといって歌詞だけに刺さっているわけでもない。メロディーに乗せて歌われるからこそ、その歌詞が刺さるのであって、ただ文字として読んだだけなら別にグッと来ないだろうと思えるものもあるような気がする。たまにアーティストが楽曲の歌詞を集めた詩集を出すけれど、あれだって読んでる人はみんな、読みながらその言葉を頭の中でメロディーに乗せてるんじゃないんでしょうか(自分の場合はそうです)。

 

そんな事を考えていたら、なんとなく小沢健二の「流星ビバップ」が頭に浮かんできた。自分はこの曲の歌詞が好きなんだけれど、一発歌詞を頭の中でメロディーに乗せずに読んでみよう、そうしたらやっぱり文字だけじゃあそんなに良いとは思わないんじゃないだろうか、ということ確かめるためにやってみた。歌詞を見ながら、できるだけ普通に文字を読もうとする。「も少し」のところで一度「もすこーし」って曲みたいに読んでしまい、「もう少し」じゃなくて「も少し」って書かれたらそう読んでまうって、と思いつつも、引き返して「も少し」を普通の「も少し」として読み直す。メロディーを付けないようにしようとすると、小学生のころの宿題の本読みみたいな、それはそれで変な抑揚を意識的につけた読み方になる(メロディーを打ち消すには、別のリズムを取り入れる必要がある)。そんなこんなで歌詞を読んでいたら、

ただ一様の形を順々に映す鮮やかな色のプリズム

のところを、曲で聴いていたときとは違う感触で良いと思った。曲として聴いているときにはオザケンって感じがチラつく、これは実際に聴きながらいちいちチラついているわけではなくて、こうやってメロディーありなしの歌詞の良さについて考えた場合に、曲として聴いているときにオザケンが歌っているわけだから、その歌声から自然にオザケンって感じ、オザケンって存在を自分は感じているんだってふうに改めて気づいたってことなんだけれど、そんなふうに曲として聴いているときには、なんとなく歌詞の一人称をオザケンと思いながら聴いていた*1。これがメロディーを排して歌詞だけを読んだときには、「ただ一様の形を順々に映す鮮やかな色のプリズム」って言葉にメロディーありのときよりも距離を感じて、言葉を小説でいうところの地の文みたいな感触で読めた。メロディーありのときには、「ただ一様の形を順々に映す鮮やかな色のプリズム」ってところを「も少し僕が優しいことを言や傷つくこともなかった?」と思っているやつから生まれた言葉として捉えていて(これに関しても、そんなふうに捉えていたことにメロディーなしで歌詞を読んだことで気づいた)、そう捉えた場合に「ただ一様の形を順々に映す鮮やかな色のプリズム」って表現から、少し感傷的で自分に酔ってるニュアンスを感じ取ってしまう。でもこの部分をメロディーなしで読むと、歌詞とそれを書いた人の関係が小説と作者の関係みたいに感じられて、「も少し僕が優しいことを言や傷つくこともなかった?」とか考えている登場人物のシャッフルしている心境を「ただ一様の形を順々に映す鮮やかな色のプリズム」と俯瞰して表現したふうに捉えられた。さっきはメロディーありのときよりも文字として読んだだけのほうが歌詞の言葉に距離が感じられたと言ったけれど、歌詞の言葉とその歌詞の中の登場人物との間に距離が生まれたように感じたというのが、抱いた印象を正確に表した言い方で、そうすると歌詞の言葉が相対的に第三者的な立場である自分には近づいているように感じられ、そんな自分の視点と俯瞰して感じられた視点が重なって、以前よりもすんなりと言葉が入ってきたのかもしれない。ぐだぐだ書いたけれど、歌詞を文字だけで読んだら、「ただ一様の形を順々に映す鮮やかな色のプリズム」って文章の言葉のひとつひとつを丁寧に読むことになり、過去を思い出したことで後悔とも言えない感情が堰を切ったように次々と溢れてきて荒れる心の中を表現したものとして、ちゃんと感じられるようになったということです。多分、普段から丁寧に曲を聴いている人であれば、そんなことはその前の「そんな風に心はシャッフル 張りつめてくるメロディーのハード・ビバップ」から読み取れるんでしょうけど。

 

自分は「流星ビバップ」の歌詞の中でも特に

薫る風を切って公園を通る 汗をかき春の土を踏む

の部分が好きで、ここに関してはそんなややこしいことを考えなくても、自分も春の夜の心地よさを知っているからシンプルに歌詞で歌われていることが良いって思えるし、今まで部屋でピアノを叩きながら悶々としていたところを、外に出て春の夜の空気を浴びたことで少し気持ちが解放されるって展開も良い。自分は柴田聡子の「雑感」を聴いていると、オザケンの「流星ビバップ」に近いものを感じるときがある。

 


柴田聡子 | Satoko Shibata - 雑感 | Understood _ Official Music Video

 

霧が晴れたら紺色の空に点々と星粒

のところが好きで、単純にメロディーに言葉を乗せている感じが気持ちいいのもあるのだけれど、ここで霧の中をバイクで走ってきた時間経過を感じるのになんだかグッと来る。さっきまではまだ少し霧に包まれていたけれど、ようやく晴れて星が見えたっていう開放感。ここに関してはメロディーのついた時間軸のある曲というフォーマットにより、この歌詞をこのタイミングで聴かせるっていうことができるから良いんだと思う。大サビのあとのCメロ(?)として歌ったからこそ良くて、文字だけで読んだらこの霧が晴れた感はかなり薄くなる。これは流星ビバップの「薫る風を切って……」のところでも思う。そして、霧が晴れて星が見えたからって、給料から年金が天引かれたことには心底腹が立つと、それとこれとは別っていうのも良い(でも妙にすっきりした感じがあって良いのは「自分でも驚くくらい」ってちょっとだけ客観的になっているからか)。自分はここでもまた、霧の中をバイクに乗って走っているのは柴田聡子だと想像しながら聴いている。

 

まあ別に歌詞ばっかりを気にしてもいいやん、と自分は思う。実際グッときちゃうわけで、そこからは逃れられないし。歌詞が良い曲については別に音楽をしていなくても何か言えるから誉める言葉がよく目につくだけで、別に歌詞が良いとは思わないけれど好きな曲もある。歌詞についてばかり話すからって、メロディをないがしろにしているわけではなくて、その良さをなんと言葉にしたらいいかが分からない。あとは単純に楽器を演奏できないから、細かい音のどうこうが分からない。

 


B-DASH - 梅抹茶~メロディック本門寺 PV

*1:オザケンはソロアーティストで、歌詞に固有名詞も多く出てくるし、キャラクターも立っているから特に顔がチラつく。