夜空に浮かぶ月がふと視界に入ったときに「綺麗だなあ」と思うことがある。月の綺麗さに心が奪われて、一瞬だけ俗世から離れられる。でもちょっと待ってくれ。自分はいつから月が綺麗だなんて思うようになったのだろうか。
確実に言えるのは、高校生のころは月が綺麗だなんて、全く思っていなかったということだ。そもそも月が視界に入ることなんてなかった。それは、月のおかげで心が救われる必要なんてなかったからだろう。もっとひどい言い方をすれば、月の綺麗さなんていうよく分からないものに頼らなければならないほど、自分は感動したがってはいなかった。あのころの自分は、別に月が綺麗であろうがなかろうが、毎日楽しかったし悩みもなかった。本当に月の綺麗さを必要としていなかった。
そしてこれは月に限った話ではなくて、同じようにオリンピックも必要なかったし、海も必要なかったし、旅も必要なかった。ただ、部活帰りにコンビニ前で友達と喋る時間さえあれば良かった。そして、その時間の素晴らしささえも、当時は特に意識などしていなかった。今でも友人とたむろしてお喋りをひたすら続けるのは楽しい。しかしなんだろう、高校生のころにはなかった、この楽しい時間は有限であるという焦燥感にも似た感覚。ジリジリと音を立てて時間がなくなっていくような。今にして思えば、高校生のころのコンビニ前の時間は終わりのない永遠のようであった。いや、正確に言えば、終わりなんて意識していなかった、意識する必要がなかったのだ。今じゃ油断すれば明日の憂鬱がすぐに顔を出す。こんな楽しい時間もいつか終わり、明日が来てしまう、そんな考えが頭をよぎる。高校生のころは、楽しい時間に終わりがあるだなんて知らなかった。ずっと永遠に続くなんてことすら考えなかった。こんな時間が永遠に続けばいいだなんて、それは終わりを知っている人間の思考だ。ただただなにも思わず、ただただ楽しかった。振り返った高校時代は遥か遠く、今や月よりも遠い距離まで離れてしまった。いつか月にたどり着くことはできるかもしれない。だが、あの頃に戻ることは二度と叶わないだろう。今まで過ごしてきた日々は確実にノンフィクションであったはずなのに、思い出にはフィクションのように手が届かない。
そう思うと音楽の趣向も変わってきた気がする。中高生のころは、なにを言ってんのか分からないけれど曲がカッコ良ければそれで良かった。そんな曲ばかり聴いていた。しかし、今では歌詞の内容を重視するようになった。自分と同じ喜び、自分と同じ寂しさ、そういったものを歌ってくれてる歌詞には、ひどく心が惹かれるようになった。音楽だけではなく、マンガや小説の類にも同様の傾向が見受けられるだろう。どんどん自分の世界に近いものばかりを摂取するようになってしまった。そして、ふとこう思うのだ。自分は芸術作品の素晴らしさを純粋に受け止めることができていないんじゃないかと。なにか現実世界の嫌なことを忘れるためにすがっているんじゃないかと。
なんだか自分がどんどん平凡な人間になっていっているような気がして仕方がない。生きることは素晴らしいことと思うために、自分は些細なことに美しさを見つけようとしているんじゃないか、感動しようとしているんじゃないか。こんな人生も悪くないさなんて。ベランダで浴びる夜の風が全てを誤魔化してしまう。それっぽく誤魔化してしまう。月が綺麗だなんてことを歌う曲に感化されて、「ああ今日は月が綺麗だなあ」なんてそのまんまのことを思ってしまって、どんどん平凡な感性になっていってしまう。今日も明日も明後日も、ずっとずっと続いていく日常。あのころは良かっただなんて、ひたすらにノスタルジーと戦う夜を繰り返している。なんでこうも全てがわざとらしくなってしまったのか、なんてことをふと思ってしまった。