牛車で往く

日記や漫画・音楽などについて書いていきます 電車に乗ってるときなどの暇つぶしにでも読んでください

スポンサーリンク

妹尾豊孝写真展と入江泰吉「万葉大和路」展を観に奈良へ

先日、奈良市写真美術館に妹尾豊孝写真展を観に行った。

 

 

近鉄電車に乗って近鉄奈良駅へ。この日はとても天気がよくて、電車に乗るのが楽しく、明るい曲調の曲ばかりを聴いた。

 

 

 

ホンマに朗らかにって感じになりました。

 

近鉄奈良駅に降り立ち改札を出ると、左手にはせんとくんが立っている。せんとくんは綺麗な二重をしている。せんとくんの角も危ないので鹿と同じように切り落としましょう、なんて考えが頭によぎる。近鉄奈良駅へと向かう電車にはそれほど多くの人は乗っていなかったのだが、駅にはたくさんの観光客の姿が。駅を出てすぐの東向商店街もパンパン。でもコロナでなければこれぐらいの観光客の数が本来の姿であると思うと、そりゃあ観光地は自粛によってバカでかい経済的損失を受けるなと感じる。京都では清水寺周辺のお店の閉店が続いているなんてニュースも。阿闍梨餅美味しいのに。

 

news.yahoo.co.jp

 

目的地である奈良市写真美術館へは駅からバスに乗って行けるのだが、天気もいいし歩いて行ったろうではないかと、そのまま商店街の中へ。人ごみをくぐり抜けてしばし進むと、右手にでっかい池が見えてきた。そこでふと、『ああ、そういえばここって、高校の遠足で来たな。』と思い出す。興福寺南円堂の階段を降りてすぐのところにお土産屋が並んでいる光景にも見覚えがある。高校生のわたしと友人たちには奈良はまだ渋すぎて、とりあえず東大寺やら春日大社やらをサッと見た後は、セガのゲームセンターに行ってマリオカートをして時間を潰していた。あのころは学校に連れられて来たが、まさか今度は自分の意思で再びこの地を踏むことになろうとは。ご無沙汰しておりました。

 

そのまま南東の方向に歩き続けると、次第に人は少なくなっていった。駅周辺を離れると、まあまあ歩道が狭い。美術館近くの破石町辺りまで来ると、もはやほとんど普通の住宅街といった様子。追い抜かされたり、すれ違ったりする人の中にも自転車に乗っている人の割合が増えてきて、もはやここは観光地ではないといった雰囲気。そんな普通の住宅街を歩いていると、途中の駐車場に鹿が二匹、突然姿を現した。こんなところにも鹿がいるなんて。しかもアベックで。奈良、恐るべしやな。そして、なんやかんやで奈良市写真美術館に到着。

 

f:id:Cluster-B:20200922195644j:plain

 

まず建物がめちゃくちゃ綺麗。エスカレーターを下って展示室へ。コロナウイルスの感染対策としてチケットを購入する前に、感染の疑いがないかをチェックする質疑応答の用紙に回答を記入。

 

展示は、妹尾豊孝の写真展と入江泰吉の「万葉大和路」展の二本立て。最初は妹尾豊孝が大阪と京都の人々の様子を写真に収めた「大阪環状線 海まわり」と「5,000,000歩の京都」の二つの展示から。展示されている写真の撮影された時期は、だいたい80年代後半から90年代にかけてが多かった。中でも、家の裏口と塀の隙間に積み上げられた荷物の上で本を読んでいる女の子と、波止場に留まっている船の上から堤防に手をひっかけて、つっかえ棒のように海に落ちないよう踏ん張っている少年の写真が印象に残った。少年のほうなんて、タイトル欄に「この子はこの後、海に落ちた」みたいなことが書いてあって、それを読んでひとりマスクの下でにやけてしまった(柴崎友香のTwitterに写真がありました。)。

  

  

写真はすべて白黒であり、撮影された時代も少し前のものであるのだが、写真を眺めていると、昔の資料を見ているような印象を受けるのではなく、町を歩いていてある瞬間を目撃したような、そんな印象を受ける。最初に貼ったTwitterのリンクのサムネイル画像になっている「八幡屋公園 時間に遅れた野球少年 田中3丁目 1992.4.26」といったタイトルの写真を見ても、『うわぁ、あの子だけユニフォーム着させられてなくて拗ねてるわ。なんかあったんかな。』と、そのシーンをその場で眺めているような、出くわしたような、そんな気分になってくる。少年、君のどうしたらいいか分からん無力感がこちらにも伝わってくるよ。自分の前を歩いていた50代ぐらいと思われる夫婦の旦那さんのほうは、写真を見て「うわあっ!こうやって欄干の上に座るやつおったわ~。」とか「そうそう!こんな風に別嬪さんが立って宣伝しよってん。」とか言いながら、懐かしさを覚えてテンションが上がっていた。めっちゃ楽しそうでよかった。

 

妹尾豊孝の展示コーナーが終わると、次は入江泰吉のコーナーに。万葉集に収録されている和歌で詠われている風景を収めた写真。やっぱりネット上の画像で見るのとは全然違うなというありきたりな感想を抱く。中でも「三輪山雨情」に心惹かれた。三輪山に霧がかかっている写真なのだけれど、その三輪山の緑の深さたるや、なんとも言えないくらい綺麗であった。「弓月ヶ岳宵月」の空の紫がかった色も綺麗だったな。近づいてよく見てみると、ほんのり光っているような表面をしていたのだけれど、あれは写真を印刷する手法によるものなのだろうか。印刷する媒体にもよるよな。そして、妖しい雲と書いて妖雲(Mystic Cloud)という概念を知る。今の時点では妖雲が収められた写真を見ても『へえ~』ぐらいにしか思わなかったが、自分はこの展示を見たことで妖雲なるものを知ったので、これからは空に(おそらくの)妖雲を見つけると『あっ!妖雲や!』と気づくことができる。そんな風にして次第に妖雲といったものが自分の中に馴染んできて、自然に受け入れられるようになってから再び同じ写真を見ると、また違った感情が生まれてくるのだろうか。知らないものでも一目見て『なんか綺麗やなあ。』と気づけるものはあるだろうが、それが何かを知ることでやっとその良さを感じられるものもあるだろうから、わたしは自分の中で妖雲を育てていこうと思いました。

 

というわけで、美術館とか映画館とかを出た後、はたまた小説とかを読んだ後には、周囲に対するセンサーがいつもよりもちょっとだけ感度良く立っているボーナスタイムみたいなものが自分に訪れる。美術館を出て、早速空を眺めてみる。全くもって妖雲は浮かんでいない。このボーナスタイムが終わる前に(妖雲に対する自分の集中力というか、興味が消えてしまう前に)、なんとか妖雲よ、空に姿を現してくれ。でも、妖雲って不吉の前兆か・・・。やっぱりなしにしてもらおうかな。