牛車で往く

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たまらん坂

加藤典洋の「小説の未来」を読んだ。

 

 

以前に同じ著者の書いた「世界をわからないものに育てること」を読んだときに、柴崎友香の「わたしがいなかった街で」の読み方を紐解いた批評が面白く、この「小説の未来」にも自分の読んだことのある作品に関する批評がいくつかあったので読んでみた。自分は小説を読むときに、部分的にというか、ある一部の場面や描写に心が惹かれることこそあれど、小説全体として何を言わんとしているかといった構成・構造的な作者の狙いを捉える読みはできていない自覚があって、これまでにそういった読み方を解説している本を読んでみたりもしたのだが、いまいちその捉え方がしっくりこず、そういう小説の大枠の構造があったとしてそれがなんなん? そういうのを当てはめたとしてなんやねん、と思うことが多かった。そんな中、加藤典洋の批評には個人的に納得できるものが多く、「わたしがいなかった街で」に関するものでは、作品に書かれたことを紐解くときに、その作品をそれ以外の作品や社会の出来事の流れの中に置くことで見えてくる読みもあるということに気付かされた。自分ではほとんど見出せそうにないそんな読み方を、こちらに提示して気付かせてくれる批評家の存在はありがたい。「小説の未来」の中では、町田康の「くっすん大黒」と「河原のアパラ」が村上春樹などのその他文学作品と比較されていて、それぞれの作品は、それぞれが刊行された時代の社会的価値観を反映した構造になっていることが読み取れて面白かった。そして、それはたくさんの小説読んでいて、さらにはリアルタイムで文芸作品を追っている人にしかできないことだなと思い知らされた。とかなんとか言いながら、「くっすん大黒」よりも「河原のアパラ」のほうが勢いがあって面白いなと思っていたところを、加藤典洋も同じように「くっすん大黒」よりも「河原のアパラ」のほうがすばらしい作品であると評していることに、やっぱりそうやんな!と、読んでいてそこで一番テンションが上がった。「河原のアパラ」では、冒頭のケンタッキーでレジ前に列を作って並ぶ客に対して

「フォーク並び、した方がいいな、きっと」

などとぶつぶつ独り言を言うところを読んで、自分自身も駅のホームで、二列もしくは三列で並ぶようにと書かれているにも関わらず、二人目にやってきた人間が一人目の後ろに並んだがために、 あとに続く人たちもなんとなくでそれに従い、ホームに細長くて邪魔な一列ができているのに遭遇して『二人目なにしてんねんっ。おまえのせいでホーム窮屈になってるやんけっ』と、よく心の中で腹を立てることがあるから、分かるわぁ、となったし、単純に共感できただけじゃなくその書き方が可笑しくて笑えた(三人目に並んだ人に対しても、まだあなたまでだったら二人目を無視して一人目の横に立つことで、二列の陣形を取り戻すことができる、だからそこは怖気づかずいっちゃってくれと思う)。ほんでもって第七章に入ったところの、言葉を継いで継いで語り続ける息の長い文章が自分にはたまらなく、読んでいるとどんぶらこっこ、どんぶらこっこって感じで、読み進める中にリズムが出てくるのが気持ちいい。それに「ルー・リードのような顔をしたおばはん」っていう小ネタみたいな表現も、ルー・リードみたいな髪型と目力のおばはんを見たことある気がして笑ったし、なんならよくよく考えてみれば自分のおばあちゃんこそまさにルー・リードみたいな髪型をしたおばはんだった(というかルー・リードがおばはんみたいな髪型をしているのかもしれない)。加藤典洋の他の著作に「日本風景論」というものがあって、そこには国木田独歩の「武蔵野」に関する批評が収録されているらしく、なんならその内容が自分が「武蔵野」を読んだときに感じた風景描写の良さについて書かれたものになっているとの情報をネットサーフィンにより得たのでぜひとも読んでみたいのだが、今はもう絶版してるようで、どうにかして手に入れたい。

 

そんな「武蔵野」って頭で本屋に行ったら、「武蔵野短編集」って文字が目に入って気になったから、黒井千次の「たまらん坂」を買ってみた。

 

 

この短編集に収録されている話には、前からちょっと気になっている場所があって、些細な出来事をきっかけにそこを訪ねてみようとなる展開のものが多く、そうして街を歩いて風景を眺め、気になっていた場所の本当の姿を知るっていう流れが、適当に買ったわりに面白くて良かった。なんとなく黒井千次はまず書きたい場所があって、逆算的にそこを舞台として登場させるにはどんなストーリーにすればいいかと考えたときに、とりあえずその場所におもむくきっかけとなる出来事を前半に書けばいい(それはだいたい女性関係)といったふうに話を作ってそうで、「せんげん山」などでは、訪ねるきっかけとなる女性関係の問題が起きるまでの流れが結構粗くて、街を歩けりゃあ、散策する口実になりゃあなんでもいいみたいなやっつけ感が、逆に散策の場面を本当にウキウキしながら書いているように感じられて良かった。ここまで来たら、もはや女性にまつわる何かなどはなしで、ただただ普通に街に繰り出してくれていいとさえ思う。それに、時折挟まれるユーモアのある描写が狙い過ぎておらずちょうどいい具合で、散策に伴い過去を思い出すシーンも感傷に浸りすぎていないのが良かった。描かれている作品世界の、現実世界と近すぎず遠すぎない絶妙な距離感。「多摩蘭坂」の名前の由来が、落ち武者が「たまらん」と言いながら登って逃げたからではないかという説を耳にして、色々事実を調べているところの

 初めからそうたやすく目指す相手に巡り合えるとは要助も決して考えてはいなかったが、せめてそれらしい可能性を漂わせる戦が史実の中に幾つか見定められ、探索の環を絞っていくうちに木の間隠れに落武者の姿がちらつき出し、やがては彼等を武蔵野の片隅の丘に追い上げるその手掛りくらいは掴めるのではないか、との漠とした期待は、幾冊かの史書の叙述に触れるうちにかえって裏切られていくかのようで要助を失望させた。(中略)つまり、合戦は何時のものでもかまわなかったし、それなりの落武者はいくらでも存在すると思われるのに、彼等の内の誰一人として小さな坂道を登ろうとはしてくれないのだ。

って書き方などにはちょっとニヤリとした。ほんでもって「せんげん山」の

浅間山
 浅間山は前山・中山・堂山の三つの小さな峰からなり、その名は堂山の頂に祀られている浅間神社に由来します。海抜八〇メートルで、周囲との高さの差は三〇メートルに過ぎませんが、周囲にさえぎるものがないため、眺望はなかなか良好です。
 この浅間山は、地質的にみると、多摩川対岸の多摩丘陵と同じで、古多摩川やその他の河川により周囲がけずり取られ、ここだけが孤立丘として残ったものと考えられています……

の部分を読んで、最後の方にちらっと映る「浅間神社」という名前を手がかりに調べようと思っていた、peanut buttersの「パワーポップソーダ」のMVに出てくる河川敷が多摩川であることが図らずとも判明して、ちょっとだけテンションが上がった。

 


peanut butters 「パワーポップソーダ」 Music Video

 

実際に何度か訪ねてみたことで、東京に対してただただ大都会という雑なイメージだけではなく、生活する土地でもあるというイメージも抱けるようになった。そうすると、いわゆるでっかい東京じゃなくて、小さい東京にフォーカスを当てた曲の良さを改めて感じられるようになり、そういった曲を歌うアーティストとしてまず思いつくのは、自分の場合はandymoriになる。武蔵野に西荻窪、高円寺に井の頭公園やら渋谷道玄坂やらやら。でっかい東京のことを歌うのって大分粗いなあと思うのは、自分が夢をもって上京なんてしていないし、都会の繁華街や歓楽街ではしゃぐような人間でもないからなのだろう。