のだめカンタービレを映画版も含めてすべて見終わった。我ながら単純ではあるが、出てきたクラシックの楽曲をやたらと聴いている今日このごろ。最終楽章前編の、千秋先輩とのだめが夜の川のほとりでお話しするシーンが好きで、そのシーンを何度か繰り返し見ている。千秋先輩が音楽と宇宙の深遠さについて考えている後ろで流れる、エルガーの「エニグマ」変奏曲 第9変奏「ニムロッド」が優雅で感動的で良い。
Elgar: Enigma Variations / Rattle · Berliner Philharmoniker
エルガーはこのエニグマ変奏曲を友人たちのことを思い浮かべながら作ったらしく、中でも第9変奏のニムロッドに関してはWikipediaによると「エルガーは第9変奏において、(友人のひとりである)イェーガーの気高い人柄を自分が感じたままに描き出そうとしただけでなく、2人で散策しながらベートーヴェンについて論じ合った一夜の雰囲気をも描き出そうとしたらしい」とのことで、めちゃくちゃロマンティックなことするやんって感じ。自分にも、なにか特別なことを話したわけではないけれど、あのときあいつとあのあたりを歩いたなあって記憶に残っている夜の散歩はあって、そのときのことをこんなふうに素晴らしい曲にして表現できたなら、別に他人に聴いてもらわなくても自分で聴くだけで満足してしまいそう。エルガーは果たしてイェーガーにニムロッドを聴かせたのだろうか。
このシーンの千秋先輩いわく、音楽理論を熟知して理性の力によって作品全体に対し入念に音楽の判断ができる人をムジクス、ただ音を歌ったり演奏したりする人をカントルと言うらしい。カントルはカンタービレの語源とのことで、のだめカンタービレというタイトルから、この漫画はのだめがカントルからムジクスに至るまでの物語なのかと思ったりした。
作品を深く理解するためには作者のことを知る必要があるとは、音楽ではないけれど芥川龍之介の作品を読んだときにも思ったことで、作者の宗教観などが作品の表現ににじみ出てくるから、そういった知識がないとそれに気付けない、理解できない、だから単純に賢くなりたい、そのほうが多分様々な芸術作品に触れる際にもっと面白がれるから。とはいえそんな急には無理だから、先に作品を鑑賞し終えた他人の力を借りて勉強していく。
国木田独歩の「武蔵野」を読んだ。
年末年始はなんとなく海外小説でも読もうと思い、本屋で面白そうなものを立ち読みしてみたのだが、書き出しで状況を説明される感じがなんか違うなあとなり、なんなら「私は」っていう一人称と地の文で語られている内容の距離が離れすぎのように感じられ、主人公というか書き手が文章にもう一歩二歩踏み込んでいるものが読みたい、自分が読んたことのある作品でそういったものは川上未映子の「乳と卵」とか町田康の「河原のアパラ」とか井戸川射子の「マイホーム」とかが該当するのだけれど、それはそれで違う人の作品が読みたいとなり、なんやかんやあって「武蔵野」に行き着いた。ちょうど随筆らしい書き方が、今の自分の気分に合っていて良かった。「私は」じゃなくて「自分は」って書くこの距離感。
二日置て九日の日記にも「風強く秋声野にみつ、浮雲変幻たり」とある。ちょうどこの頃はこんな天気が続て大空と野との景色が間断なく変化して日の光は夏らしく雲の色風の音は秋らしく極めて趣味深く自分は感じた。
吹く風が乾いていて涼しいことから、夏が終わりを感じ取り嬉しくなることはこれまで何度もあったが、それが夏と秋が混ざっているから良いとはっきりと意識したことはおそらくなくて、もっと言えば日差しは夏だけれど風は秋っていうふうに具体的に要素を分けて考えたこともなくて、でもこんなふうに書かれたのを読むと、自分が狭間の季節に嬉しくなっていたのは同じようなことを感じ取っていたからだと思えてくる。自分は単純に風が涼しくなったってことだけを意識していたけれど、確かに日差しが夏の強さを保っているっていうのも重要で、そのおかげで秋の過ごしやすさ+夏のいきいきとした空気が混ざり合って調和しているのが良い。
橋の下では何とも言いようのない優しい水音がする。これは水が両岸に激して発するのでもなく、また浅瀬のような音でもない。たっぷりと水量があって、それで粘土質の殆ど壁を塗ったような深い溝を流れるので、水と水とがもつれてからまって、揉み合て、自から音を発するのである。何たる人なつかしい音だろう!
エルガーとイェーガーよろしく、主人公とその友人が小金井の堤を散歩するこの場面の描写も良い。自分は多分「たっぷり」って言葉が好きで、「たっぷり」と書かれると本当に「たっぷり」っていう量感で胸がいっぱいになる。ここでは水源豊かな情景がイメージできるし、ニコルソン・ベイカーの「室温」でも
窓のシェードはどれも半分下ろしてあり、シェードの硬い布地が日の光を受けて、たっぷりの油で揚げたハニー・ドーナツの色に輝いていた。
と「たっぷり」が使われていて、この「たっぷり」のおかげで、頭の中のハニー・ドーナツがただ輝いているだけじゃなく、ムッチムチのモッチモチに膨れた姿として思い浮かび、満たされた感じ、幸福な感じが乗っかって嬉しくなる*1。あとは「水と水とがもつれてからまって、揉み合て」っていう触覚的な表現も良くて、前に書かれている「粘土質」という言葉の印象とも相まって、水が白く泡立ち擦れるような音ではなく、チューブ状の水の流れ同士が文字通りもつれてからまるような、もっとぬるりとしたイメージの音(実際はどちらも言葉にすればジョボジョボと同じ音に聞こえるかもしれないが)が想像される。自分はずっとやってみたいことがあって、それはこの武蔵野のように誰かとどこかを散歩して、その散歩を振り返った日記をお互いに書いて見せ合うってことをしたい。『へぇ、そっちはそこでそんなとこ見てたんや』とか、自分が気づいていないことに相手は気づいていたとか、はたまた同じところが気になっていただとか、そういったことを知りたい。きっと楽しいと思うから、イェーガーと武蔵野の友人のあなたがたも、曲を作ったり、随筆を書いたりしてください。お互いに聞かせ合いっこ、読ませ合いっこしてください。
ということで国木田独歩の「武蔵野」は風景描写が好みで読んでいて落ち着いて良かったのだけれど、その反動で今度は明るくて楽しい気分になれる本が読みたくなった。
*1:このすぐ後のセーターの描写でも「たっぷり」が出てきてそれもまた良い。