1月は結構本を読んだ。
朝吹真理子の「きことわ」はとても丁寧な作品で良かった。この小説では現実と夢と過去の記憶が入り乱れながら話が進んでいくため、読んでいると自分の記憶は現実のものなのか夢のものなのか、正しいのかねじ曲げてしまっているのか、なんてことを考えてしまいそうになるのだが、ぶっちゃけそんなことはあんまりどうでもよくて、それ以上に読んでいると自分の感覚、特に触覚が刺激される感じがあって、その体験がものすごく面白かった。特に冒頭の永遠子が見ている夢の中で、貴子の目に入りそうになったまつ毛を取ってあげるシーンの描写が良すぎる。ゾクゾクする。読んでいると肌触りみたいなものがしてきて、それがとても柔らかい。「きこちゃん」、「とわちゃん」っていう二人の名前の語感もなんだか心地良くて、呼び合うときの呼気が感じられる。そんな風に感覚を優しく刺激されるような文章でもって、現実と夢と記憶の曖昧さについて書かれているから、まさに自分が眠っている間に夢を見ているときに感じる、実際には何も触れていないし聞こえてもいないのに、実感としてはあるといったあの不思議な感覚に近いものを読んでいると味わうことができる。
レイ・ブラッドベリの「火星年代記」は個別に感想を書いたのだけれど、これまた面白かった。
「確かに美しい町だね」隊長はうなずいた。
「それだけではありません。ええ、かれらの町は美しいですとも。かれらは、芸術と生活をまぜあわせるすべを心得ていました。アメリカでは、芸術と生活とは、いつも別物でしょう。芸術は、二階のいかれた息子の部屋にあるものなんです。芸術は、せいぜい、日曜日に、宗教といっしょに服用するものなんです。しかし、火星人は、芸術を、宗教を、すべてを持っていました」 p136
作中に出てくるこの言葉は、レイ・ブラッドベリにとっての芸術のあり方の理想なのかは分からないが、これに近いことは色んな人が言っているよなあと思う。
二階から階段を上りはじめた私が、階段の先でふたたび二階にたどり着くこと。そのとき私は「かつていた二階」と「たどり着いた二階」のふたつを同じ平面で生きはじめることになる。作品がこれら「ふたつの二階」を取り結ぶ階段でないなら、どれほど魅力的な行き先が示されたにせよ、私は結局どこへも抜け出せず、行き止まりで階段を引き返してくるしかない。
(我妻俊樹 56577 Bad Request 「たどり着いた二階」)
小説の想像力とは、犯罪者の内面で起こったことを逐一トレースすることではなく、現実から逃避したり息抜きしたりするための空想や妄想でもなく、日常と地続きの思考からは絶対に理解できない断絶や飛躍を持った想像力のことで、それがなければ文学なしに生きる人生が相対化されることはない。
(保坂和志 「小説の自由」 p298)
この二つも「火星年代記」の引用した部分と、全く同じではないにしてもそう遠くはないことを言っているような気がする。どんなに面白い作品であっても、その作品が現実に繋がっておらず独立した世界を立ち上げているのであれば、それは現実逃避以外のなにものでもなく、その世界から帰ってきたわたしたちはただただ今まで通りの現実に直面して、その作品世界との対比から読む前よりも息苦しさを感じてしまうことになる。あるべき芸術の力とは、日常の思考からは離れながらも(二階から階段を上がりながらも)、その道中で身につけた新たな価値観やものの見方が現実世界に繋がっている(新たな二階へとたどり着く)必要がある。その作品に触れたおかげで、帰ってきた現実は、同じ現実でありながらも今までとは違う現実になっているといったような。とはいえ難しいよな。
岸政彦の「はじめての沖縄」は、沖縄のガイドブックなどではなくて、沖縄の歴史を辿りながら、その構造に迫っていくといった本。沖縄のタクシーの運転手に関して書かれている部分を読んで、自分の中学時代、修学旅行で沖縄のタクシーに乗ったときに運転手のおじちゃんからスニッカーズをもらったことを思い出した。おそらくそのおじちゃんはダッシュボードの中にスニッカーズを常備しており、ただでさえ暑い沖縄の、その車の中はもっと暑いだろうから、手渡されたスニッカーズの表面はチョコがドロドロに溶けていて、中はネチョネチョでものすごいことになってた。おじちゃんは溶けていることなんて全く気にしていない様子であったが、わたしは食べている間に溶けてカップの底に液状に溜まったアイスにすらちょっと嫌な気分になるタイプであり、『あんまチョコを車の中に入れとかへんやろ…』と心の中で思わずにはいられず、そのスニッカーズも結局開けたけれど食べなかった気がする。まあそんな思い出話は置いておいて、
(中略)私たちは「単純に正しくなれない」のだ、という事実には、沖縄を考えて、それについて語るうえで、なんども立ち戻ったほうがよい。 p242
といった考えは肝に銘じておくべきであるし、これは沖縄のことだけでなく、あらゆる物事について考える際に重要なことのように思える。自分の立場とそれに対峙する立場のそのどちらもが、単純にどちらかが正しいとは言い切れない。そんなことは頭で分かっておきながら、いざそうするのはこれまた難しいけれども。
ネットの記事ではtofubeatsとミツメの川辺素の激長対談が面白かった。
読んでいて音楽的なことは全く分からないのだけれど、川辺素の歌詞に対する考え方が特に面白かった。
川辺 - (中略)コラージュ的な、何の変哲も無いものが同じ空間に合わさると、急に意味分からなくなるようなことが好きだったりするので。出来るだけプレーンな言葉を使いつつも。
tofubeats - プレーンな言葉を使うことは意識してるんですね。
川辺 - そうですね。あんまり言葉一つで意味を持ちすぎてることが嫌で。だから歌詞の中に「渋谷」とか入れたくないんですよ。
tofubeats - あー、それは確かに分からないでもないですね。
川辺 - いつ読んでも大丈夫っていうのは極論を言うと無理なんですけど。どうしてもこの時代に生きてる感覚になるので。でも出来るだけ、100年後とか200年後に聴いてもなんとなく分かるぐらいの感覚が良いなって。
tofubeats - タイムレスな感じって、超意識してやってるんですね。それはめっちゃ面白いです。
わたしはどちらかと言うと、小沢健二とかandymoriみたいな、歌詞にゴリゴリの固有名詞が出てくる人たちが結構好きで、固有名詞が入っているとその時代感、まさに今を歌っている感じというか、自分の暮らしや人生に近いところを歌っている感じがして感情移入しやすい。そんな曲の例として、フッと頭に浮かんだスピッツの「Na・de・Na・deボーイ」でも「明大前で乗り換えて街に出たよ」という歌詞の部分で一気に曲の世界に入り込める感がある(明大前で乗り換えたことはないけれど)。でもそうすると、tofubeatsや川辺が言うように、言葉の意味が限定されてタイムレスな感じが出ないのも分かる。オザケンの「LIFE」とかは、色褪せない名盤だと思うが、時代を感じはするし(この二つは厳密には意味的に両立するのか...)。ただ、川辺の言うプレーンな歌詞にすると心情の吐露が難しいっていうのも、聴いている側としてはめちゃくちゃ分かる。言葉がシンプルな分、具体的なイメージがつかみにくいし、ブルースみたいなものも感じにくい気がする。でもミツメみたいな、世界と一定の距離を保っているような歌詞の曲は曲で、自分の気分がその歌詞の距離感とちょうど合うときがあって、そのときに聴くとなんとも言えないぐらい胸にジーンと来る。
ミツメ - 天気予報 @ mitsume plays "A Long Day"
ミツメの「天気予報」とか、めちゃくちゃハマる日があって、その日に聴くとカッコ良すぎて何回もリピートしてしまう。淡々と進んでいくこの感じ。ベースが特に良い。
音楽では最近、YUKIの「WAGON」をやたらと聴いてしまいます。
特にライブ版が良くて、joyのツアーDVDに収録されている「WAGON」を見まくっている。
ライブ版の「WAGON」は、歌にも演奏にもパワーがこもっていて、聴くと問答無用にエネルギーをぶち込まれる感じがして最高である。YUKIすごい。ちなみにこのライブDVD、途中で『まだ歌わんの?』ってぐらい長めのMCが入っていて、そこで2005年ってインリン・オブ・ジョイトイがまだまだМ字開脚してたころかと知ることができます。ついでにFM802で土曜日に放送されていたチャートトップ20に「joy」が一生ランクインしていたことも思い出す。そんな感じで1月が終わりそう。