牛車で往く

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どこに行ってもついて来る歴史(レイ・ブラッドベリ「火星年代記」)

最近は外に出るのも憚られるから、外出したとしても家と会社の間、もしくは家とスーパーの間を往復するぐらいしかない。そうすると、もう飽きるほどに通ったこれらの道中に、なにか面白いものはないかと探すようになった。そんな風にして日々を過ごしていると、冬になると河川敷には鴨がたくさん集まるようになることや、流れが一段低くなる川の段差の直前の部分では、水面がゼリーみたいにツルツルプルプルしていること、町のなんともないところのなんの意味があるのか分からない工事が始まっていることなんかに気づいたりする。かといって、そんなことに気づいたところで特になにか面白いわけではなくて、『ああ、そうなんや』ぐらいの感情しか湧いてこない。自分はこのブログでたまに、近所の河川敷で起きたことや見かけた風景について書いたりしているが、特にこの河川敷が好きというわけでもなく、歩いていて特段楽しいといったこともない。ただ、歩いていると、そう言えばこんなことがあったなあと、なんとなく覚えている瞬間がその河川敷にはある、ただそれぐらいの感じなのである。とは言いながらも、それまで何も思っていなかった地元に対して就職を機に離れてから急に愛着みたいなものを感じるようになったことを考えると、今住んでいる場所に関してもいつか離れるとなったときに、近所の河川敷を含めた町全体をいいところだったなあなんて思うようになるのかもしれない。そのときになってそんな風に思うのは、うまく言葉にはできないが、なんだか少しズルい気がするのだけれど、それはそれでそういうものなのかもしれないとも思う。

 
なんてことを考えながらレイ・ブラッドベリの「火星年代記」を読んでいると、仮にそんなときが実際に訪れるのかは分からないが、もしも地球を離れるとなったときに、果たして自分は地球に対しても、地元を離れたときと同じような寂しさを感じるようになるのだろうかなんて疑問が湧いてくる。

 

火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)

火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

もしも地球が恋しくなって、そのときに思い浮かべるであろう母星の風景は、自然と日本の風景になるのだろうし、そうして思い浮かべる母国の風景は、自分が実際に住んだり行ったりしたところの風景になるのだろう。わたし自身の人間のスケールの問題なのかもしれないが、どこまで行ってもわたしは、自分の身近な範囲までしか自分の世界として捉えられないような気がしている。

 

「火星年代記」は火星を舞台にしてはいるけれど、あくまで焦点は人間に当てられていて、地球人が地球と同じように火星を発展させようとする過程における、地球人と火星人、もしくは火星での地球人同士の関係が描かれている。ブラッドベリ自身も、この作品をサイエンスフィクションとして捉えるのは間違っていると思うとの旨を冒頭の章「火星のどこかにグリーン・タウン」で記述しており、この章名からも窺えるように、ブラッドベリは火星における市井の人々の営みを描こうとしている。それは言わば、火星の世界ではなく、火星を舞台にしたレイ・ブラッドベリの世界。

 

収録されている短編の中で、「月は今でも明るいが」ももちろん素晴らしいのだが、わたしは特に、火星に来た神父たちが火星人たちの原罪を見つけ出し、そして救済しようとする「火の玉」が好きだ。神父たちの奮闘する様が滑稽でもあり(火星に教会を造り鐘を設置しようとするところなんて特に)、たとえ自分たちにとっては意味を成さなくとも、自分たち以外の人々にとっては意味のある世界もまた我々は信じなければならないといった神父の演説は教訓にもなり、はたまた日本人であるわたしには最後のオチがまだ地球の重力を振り切れてない皮肉のようにも思えて、なんとも色んな魅力の詰まった話のように思える。

 

この小説で描かれている多くの地球人は、たとえ火星に行ったとしても地球人でしかない。地球人の地球人らしさの大部分は今現在置かれている環境ではなく、これまで積み重ねられてきた地球それ自体の歴史によって支えられている。そしてそれは、アメリカ人らしさはアメリカの歴史に、日本人らしさは日本の歴史に、そして個人の自分らしさは個人の歴史にと、フォーカスが小さくなっていったとしても同じようなことが言えるように思える。最後の章、「百万年ピクニック(これまた、タイトルがいい)」では、地球を逃れてきた一家の主が火星で再生しようとするにあたって、地球に関する様々な書類を燃やして、これまでの地球での生き方を清算する。その場面を読むと、歴史(過去)が人間を規定する、縛り付ける力がいかに強いかを思い知らされる。と、ここを読んでから再び「夜の邂逅」に戻ると、火星人と地球人の言い合いを、一周目に読んだときとはまた違った不思議な味わいを伴って読むことができる。*1

 

 火星人は目をとじ、またひらいた。「とすると、結論は一つです。これは何か、時間と関係のあることなのです。そう。あなたは過去の幻影なのだ!」

「いや、あなたが過去の人ですよ」と、もう余裕をもって地球人は言った。

「ずいぶん自信があるのですね。だれが過去の人間であり、だれが未来の人間であると、どうやって証明できます。今年は何年ですか」

「二〇三三年です!」

「それがわたしには・・・・・なんの意味があります?」

 トマスは考え、肩をすくめた。「ないでしょうな」

「今年は四四六二八五三SECだと、あなたに言ってもなんの意味もないのと、おなじことです。無ですよ、無以上ですよ! 」 p177

 

「火星年代記」はそれぞれの短編が互いに反響しあっていて、読み返すたびに面白い。

*1:この場面、火星人サイドから「今年は何年ですか」と聞いてきて、それに答えたら「なんの意味があります?」って、そりゃあそうやねんけど、なんか腹立つなぁってなります。この後も、最初はそっちから先に「あなたは過去の幻影なのだ!」とビックリマークを付けてまで言ってきたのに、最終的に「わたしたちが生きてさえいれば、だれが過去であろうと未来であろうと、そんなことがなんでしょう。」なんて言ってくるもんやから、もう戸惑ってしまいます。ほんで、それを言われた地球人のトマスはトマスで手を差し出して「また逢えるでしょうか」って、どこでそんな友情芽生えてんって感じですけど、なんとなく芽生えてる感もあるのが不思議な場面でございます。この場面、好きです。