牛車で往く

日記や漫画・音楽などについて書いていきます 電車に乗ってるときなどの暇つぶしにでも読んでください

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TOKYO HEAVEN

十一月なのにまだまだ暖かい。だから十月ももちろん暖かかった。これぐらいの暖かさの河川敷にはバッタがめちゃくちゃいる。晴れた日には近くの草むらからバッタが飛び出してくるのが、地面に映る影で分かるときがある。十月に近所の河川敷を歩いたときには、雑草がボーボーに生えていて、その中から飛んできたバッタが顔面に当たり、体がビクッと縮こまった。顔面に当たったバッタは石みたいに硬かった。気候がいいから暇になると河川敷を散歩したくなるのだけれど、普通に虫は苦手だから、この一件以降河川敷から足が遠のいていたのだが、先日久しぶりに河川敷に寄ってみよう、虫がいそうだったら別ルートを歩くことにして一旦は様子を見てみようと思い行ってみたところ、ボーボーに生えていた草は刈られ、小さい羽虫ぐらいしかいそうにない感じになっていた。これやったら大丈夫だろうと河川敷に足を踏み入れたが、体はまだバッタにぶつかられたときの恐怖を覚えているようで、地面に落ちた葉っぱをバッタと勘違いして足が止まったりした。表面の濃い緑のほうに少し包まるようにして反った葉っぱが、薄い黄緑の裏面を上にして地面に落ちていると、それはそれはもう、遠くからではバッタのように見える。ゆっくり近づいて葉っぱだったときには安心する。バッタだったときには、よくよく考えたら目をそらさないほうがいいのに、なるべく見ないようにしてサッと、かつ静かに脇を通り過ぎる。久しぶりの河川敷には、蝉の踏み潰された死骸があって、いつの?と思う。

 

「東京上空いらっしゃいませ」を見た。

 

 

最初は「台風クラブ」が名作と聞くのでそれを見ようと思ったのだが、今の自分にはまだ早いんじゃないか、今見てもまだ面白さが分かるレベルに自分は達していないんじゃないかと思い、そこでとりあえずワンクッション的な意味合いで、同じ相米慎二監督の「東京上空いらっしゃいませ」を見ることにした。いつか見たいけれどまだ早いだろうから見ていない作品は他にも色々あって、例えばそれは「七人の侍」やら「ニュー・シネマ・パラダイス」やら。今はまるでラスボスにビビッてとにかくレベルを上げようとしているような心境で、果たしてそろそろ見てもいい頃合いだろうと思えるときは来るのだろうか。あとは、線路を歩いているときに「スタンドバイミーみたいやん!」とか、両手を広げて雨に打たれているときに「ショーシャンクの空にみたいやん!」とか、ドアに顔を挟まれたときに「シャイニングやん!」とか、見てもないくせにそういうツッコミを入れるのは調子に乗ってるので、そういったシーンに遭遇したときにちゃんとツッコめるように、自分自身で自分は映画を見たからツッコむ資格ありと思えるように、有名な作品も見て行こうと思っている。

 

ということで「東京上空いらっしゃいませ」を見たのだけれど、これがあんまり面白くなかった。台詞が台詞的過ぎて違和感があり、そもそも主演の女優の演技があんまり上手じゃなかった。この作品が特別こういった感じだったのか、それとも相米監督の作品はだいたいこういう感じなのか。もしそれが後者だったとしたら、「台風クラブ」は自分には合わないのかもしれない。何となく印象に残っているのは、足音がコツコツ鳴ってたこと。あとは中井貴一が住んでいた部屋の窓が多くて、光がたくさん入ってきていいなあと、ベランダも広くてわざわざ着替えなくても簡単に外に出られていいなあということ。窓はあればあるだけいいし、ベランダは広ければ広いほどいいから、自分もそんな部屋に住みたい。なんかゴミみたいな感想になった気がする。

 

最近、夏目漱石の「硝子戸の中」を読み返した。最初この本は「思い出す事など」が面白くて、漱石は日記が面白いんじゃないかと思って読んだのだが、そのときには「思い出す事など」に比べて描写がえらくあっさりしているように感じた。「思い出す事など」ではあった自分の感覚にいちいち引っかかるといった部分が、「硝子戸の中」では薄まり、ただ事実を淡々と書いているような印象だった。それは書かれた年代が違うからで、「思い出す事など」を書いてから数年経って書かれた「硝子戸の中」では文章がある種洗練されていて、それが逆に物足りなく感じたのだった。それから時間が経って読み返した今回、漱石が飼っていた犬のヘクトーについて書かれた第三章において

私はしゃがんで私の顔を彼の傍へ持って行って、右の手で彼の頭を撫でて遣った。

の部分の、わざわざ『右の手で』って書いたところにああと思った。『右の手で』っていちいち書かなくていいかもしれないけれど、自分も『右の手で』って書きたくなるタイプで、それは描写が細かいから良いとかではなく、『右の手で』と書かなければ何か足りない気がするという、ただただそう思うだけのことなのだが、そこがなんだか重要な気もする。『彼の頭を撫でて遣った』だけでも意味は通る。でも『右の手で』って、そう書く事で生まれる何かがあるのかないのか、ある気もするし別にない気もする――いちいち考えれば『右の手で』と書くことでそこに頭を撫でたときの手の触覚が喚起しやすくなる、いや考えすぎだろうか――、だがとにかく『右の手で』って書いてくれる、そこに漱石の良さを感じる。それから

空の澄み切った秋日和などには、能く二人連れ立って、足の向く方へ勝手な話をしながら歩いて行った。そうした場合には、往来へ塀越に差し出た樹の枝から、黄色に染まった小さい葉が、風もないのに、はらはらと散る景色を能く見た。

の『往来へ塀越に差し出た樹の枝』という、樹の枝が往来へ塀越に差し出た状態を書いているのが良い。これが良いと思うのは完全に自分の好みで、もう細かい理由とかはよく分からない。なんとなくだけれど、細かく描写してやろうと思って書いているのではなくて、書こうとして自然とそういうところまで描写することになっている感じが漱石にはあると勝手に感じていて、そこがいいと思っている。