長期休暇を取った際に、四日目以降から小説やら漫画やら音楽やらにえらく入り込めるようになる。個人的にそれは仕事の毒素が休暇四日目になってようやく抜けるからだと思っており、その実感をもって振り返ってみれば、あまり小説やら漫画やら音楽やらに入り込めずにいたそれ以前の日々が、自分にとっては日常だったんだと気づく。日常とかいう具体的にどんな日々を指すのか意味の曖昧な言葉を、そんなふうにして自分なりに解釈し、そうしていまこの瞬間、遠くの隅田川まで意識を飛ばしてみると、『ああ、いい。また行きたい』と頭の中の想像だけでグッとくるから、自分はいま日常から脱している。日常の真っ只中であれば、隅田川を思い浮かべてもまた訪ねたいとまでは思わない。
旅行はしばしば日常から脱することを目的に取られる手段かもしれないが、すでに日常から脱した状態で旅行に行ったほうが、感受性の鋭敏な状態で巡ることができるから、旅先の本当の素晴らしさを味わえる気がする。四日目から旅行に行く、二泊三日で六日目に帰って来る、帰ってきてすぐ次の日に仕事はしんどいから一日は家でゆっくりしたい、ということで旅行に行くには一週間は休暇がほしい。そもそもなぜ日常においては楽しみきれないのかといえば、仕事のこと、やらなければいけないことが頭にちらつくからで、毒素というのはこれらを指している。だからいっそのこと仕事を辞めてしまいたい、辞めてしまえれば常にハイな状態でいられる、という今更のことをずっと思い続けている。それにはやっぱり金がいる。これも今更のこと。年末が近づいて近所の駅の宝くじ売り場に行列ができている。常々金がほしいと思っているくせに、行列を眺めては『よう並ぶわ』なんてふうに他人事のように思う。ジャンボ宝くじのCMで妻夫木くんがずっと滑り続けている。本当に救ってあげたい。妻夫木くんも本当は誰か助けてくれと思っているはず。成田凌は別に救ってあげたいとは思わない。auのCMは桃太郎のやつは面白くないけれど、高杉くんのやつは見てられる。同じ会社のCMでも面白いものと面白くないものがある。アイフルのCMはなんか許せる。借金で金を得ても人生は楽にならない。自分の脳みそでは借りた金を使って一気に資産を膨らませる方法が思いつかない。
panpanyaの「商店街のあゆみ」を読んだ。
自分は黄色の表紙に弱いのかもしれないと、平方イコルスンの「スペシャル」の一巻や熊倉献の「春と盆暗」などを思い浮かべて思う。紙魚の手帖で連載されている熊倉献の漫画が「春と盆暗」のころの作風に近くて自分は嬉しい。「商店街のあゆみ」では単純に絵がうまくなっている気がする。絵も描けないくせにそう思う。「スーパーハウス」のまだ見ぬ試み感が良かった。バトル漫画風の迫力や緊迫感を出すために絵のアングルにこだわっている感じが。それに今回は、各短編の間に挟まれている日記もしくはエッセイに記憶にまつわるものが多くて面白かった。今回カバーを外して本体の表紙を見ると、よく見るなと思っていた天井の模様が現れた。会社の天井も、マンションの階段フロアの天井も、スーパーの天井も、この板材が使われてるのが多いなと最近気付いたところだったから(とはいえ気づいたのは一年ぐらい前のことだけれど)、それを見て嬉しくなった。平方イコルスンの短編集もそろそろ出るらしくて楽しみ。スペシャルはまだ消化し切れておらず、誰か謎を解き明かしてくれ。語ろうにも理解できていないから言えることがなく、いまでもまだモヤッとした読後感が宙吊りのままある。序盤の平和なころのほうが好きだった。だって読み始めたころには、こんなオチになるとは思っていなかったから。