自分もずっと行ってみたかった国立国会図書館に先日行ったという話。
何のやる気も出ないときや暇なときなどに、バンドや小説家、漫画家のインタビューを読んで時間を潰すことがよくあるのだが、ある日の会社の昼休みにpanpanyaのインタビューを読んでいると、panpanyaが武宮閣之という作家の「魔の四角形」という児童文学が好きだと言っているのを見つけた。一体どんな本なんだろうと気になり調べてみたところ、今では絶版になっていて結構レアな本のようだった。こういう絶版の本は図書館には置かれていることがあるので、試しに比較的近所の図書館の蔵書を検索してみると、運良く所蔵されていることが分かった。ラッキーと思いながらも、自宅の立地的には図書館よりも本屋のほうがさっと行ける、だから「魔の四角形」の作者である武宮閣之の作品のうち、今でも本屋に売られているものがあれば、そちらのほうが手軽に立ち読みができてありがたい。そんな作品はないもんかねと、引き続き調べていると、武宮閣之の作品についてまとめている「奇妙な世界の片隅で」というブログにたどり着いた。たどり着いたとは書いたものの、「武宮閣之」で検索した結果のほぼ先頭に出てきたし、そもそも武宮閣之に関する情報はネット上に少なく、作品についてまとめられているのはこのブログがほとんど唯一と言っていいほどだった。ブログの作品紹介にざっと目を通していくとある文字に目が止まった。「月光眼球天体説」。何やら魅力的なそのタイトルに興味をひかれた。
あらすじは、転校生のおじいさんから変わった望遠鏡を受け取った主人公の少年が、その望遠鏡を使って月の光を集めることで眼球を眼窩から解き放ち、天体となった眼球を宇宙空間に遊泳させて宇宙旅行を体験するといったもののようで、月と眼球というその要素の組み合わせから、自分は好きな漫画である熊倉献の「春と盆暗」に収録されている「月面と眼窩」を思い出した。
月面に道路標識をブン投げ、牛を放つ
— 熊倉献「ブランクスペース」③発売中 (@kumakurakon) 2021年1月18日
(1/10) pic.twitter.com/edM81LqZBu
「月面と眼窩」にも、月が眼球に取って代わって眼窩にはまるといった、月と眼球を結びつけた印象的なシーンが出てくる*1。そういった月と眼球に関する表現が、自分の好きな漫画に似ていると思った途端に、猛烈に「月光眼球天体説」を読んでみたいという気持ちが湧き上がってきた。ただ武宮閣之の「月面眼球天体説」を含む作品のほとんどは、二十年以上昔のハヤカワのミステリマガジンに掲載されていた短編ばかりで、それらの作品は短編集としてまとめられての出版はされておらず、「魔の四角形」以外はそう簡単に読めそうになかった。しかし、この簡単には読めそうにないという事実が、より自分の読んでみたいという気持ちを強くさせ、今やもう「魔の四角形」よりも「月光眼球天体説」のほうに心が傾いていた。
そうして、どうにかして読めないもんかと調べ続けて出会ったのが、国立国会図書館のデジタルコレクションのページだった。デジタルコレクションのページによると、国立国会図書館には「月光眼球天体説」が収録されているハヤカワのミステリマガジンが所蔵されているようだった。それを知ってからというもの、東京を訪ねることがあれば行くっきゃないと、国立国会図書館に想いを馳せる日々が始まった。それと同時に、東京にはなんでもあるとまでは言わないけれど、やっぱり他所よりはあるものが多いな、なんてことを考えた。まだサブスクリプションサービスが主流じゃなかった自分が高校生や大学生のころは、音源を手に入れるのはCDを通してが普通だった。そのほとんどはTSUTAYAのレンタルでどうにかしていたのだが、あんまり有名じゃないアーティストのCDが聴きたくなったときに、近所のTSUTAYAでは取り扱われていないことがよくあった。その場合、もう少し品揃えのマシな比較的都会のTSUTAYAに行く、もしくはタワーレコードで新品を買うのどちらかの選択肢を取ることになるのだが、あんまりお金がなかったもんだったから、できることならCDはレンタルで安く済ませたく、タワーレコードでの購入を選ぶ前に一旦はTSUTAYAのホームページで在庫検索をかけていた。それでも自分の住んでいる県にほしいCDが置かれていることは少なかったのだが、渋谷のTSUTAYA(SHIBUYA TSUTAYA)にだけはほぼ毎回のごとくほしいCDが置かれていた。そのたびに東京っていいなあと思っていたことを思い出し、そういう点では国立国会図書館という巨大データベースがあるのも大変羨ましいと思った(当時もツタヤディスカスという、借りたいCDをオンラインで注文すれば郵送してもらえるサブスクみたいなサービスがあった。登録や月額の支払いが面倒で利用しなかったけれど、今は普通にサブスクを使っているから、よう分からんことになっている)。
そんな経緯で国会図書館に行きたいと思い始めたのがおよそ二年前。それから去年、東京を訪れることがあったのだが、そのときは国会図書館には行かなかった。それはコロナ禍の国会図書館は入館が抽選予約制になっていて、そのシステムをちゃんと確認する前にややこしそうだなという気持ちが勝ってしまい、行くのを諦めたからだった。そんなこんなで時が過ぎ、ちょっと前に宇多川八寸さんの国会図書館に行ったというブログの記事を読んだ。
東京ってええなあと改めて羨ましく思いながら、なんとなしに国会図書館のホームページを見ると、コロナも落ち着いてきたので予約なしで入館できるようになったとのニュースが。おおっとなり、ほな行くかと。ということで三月に行った。ほんで読んで来ました(ちなみにハヤカワのミステリマガジンはデジタル化はされていたけれど、国会図書館の館内限定公開だった)。
熊倉献の「月面と眼窩」では月が眼窩にはまってしまうが、武宮閣之の「月光眼球天体説」では月の光を浴びた眼球は宇宙に飛び出して眼窩は空っぽになる。どちらの作品も月と眼球を取り扱っているけれど詳細は違う(まあその違いは読む前に「奇妙な世界の片隅で」の記事から分かっていたけれど、再度認識したという感じ)。「月光眼球天体説」の主人公は小学六年生で、父親と母親の仲がうまくいっておらず、親戚の家に預けられている。主人公は表面上それほど深刻に悩むことなく生活しているように見えるのだが、ふとした場面の思考から家庭の問題が主人公の心に影を落としているのがうかがえる。そんな主人公にとって、眼球を解き放ち遊泳する宇宙は、未知のワクワクする空間というよりは、その静けさと広がりが精神に落ち着きをもたらしてくれる穏やかなものとして書かれていて、読んだ印象としては寂しいような、でもそうとも言い切れない、独特の透き通った感じがあった。また、二人称小説でこちらに語りかけてくるような文体になっていること、その語り口がどこか上品で丁寧なことも、透明感のある印象を与えるのに一役買っている。読み進めるにつれて自分は、「きみは」と二人称で語りかけられながらも、主人公の少年と同じ目線になるわけではなく、主人公の少年が望遠鏡に目を当ててじっと空を眺めている様子をすぐ後ろで見守っているような、そんな気分になりながらこの作品を読んだ。他の作品を読んでいないから本当に合っているのかは分からないけれど、「月光眼球天体説」を読んだ限りでは、武宮閣之の少年の書き方は、『あの頃の幼かった自分……』みたいな、ある種大人になった自分と切り離したデフォルメの効いた子どもっぽい感じではなくて、ちゃんと今の自分と繋がっている、その年齢の人間がもっている聡明さをきちんと書いている感じがあって、それが個人的に良かった。そしてなによりもやっぱり「月光眼球天体説」って題名がいい。
月と言えば、自分にはなぜかずっと我妻俊樹の「月光酔い」という作品が印象に残っている。
晴れた日の夜、自身を取り囲む雲だけを明るく照らしている月の姿を見ていると、そんなはずはないのに、本当はもっとずっと遠くにあるはずなのに、月が雲のほんのすぐ後ろにいるように思える。そんな瞬間に我妻俊樹の「月光酔い」を思い出す。昔、月のあれこれについて知ろうと思い「月と幻想科学」という本を読んだときには、書かれている内容がほとんど分からなかった。
荒俣宏と松岡正剛が対談形式で月について語り合うといった内容で、わりとぶっ飛んだ発言ことを言っているのに、二人は何食わぬ顔で(実際表情は載ってないからおそらくの何食わぬ顔、でも確信している)互いの言うことを了承し合い、月の魅力をズンズン語っていく。自分には全く理解できないのに、二人の間では会話が普通に成り立っていることに、ある種の恐ろしさを覚えたほど。自分が月を見て綺麗と思ったとき、それは大きくて、丸くて、明るくて、輪郭が際立っているといった意味で綺麗という言葉を使っていて、そこに美しいという思いや感動の意が含まれているわけではない。今夜はスーパームーンなんて日にも、わざわざ外に出てまで見ようとはしない。でも夜の帰り道、ふと月の存在に気づいて目をやってしまうことはよくある。そもそも自分はなぜこんなにも月が綺麗って、そう簡単に言いたくない気持ちになっているのか。「ふと月の存在に気づいて」って書いたけれど、気づかされてって表現のほうが正しいというか、暗い夜にあんなに空で輝かれたら、そりゃあ誰だって見てまうやろっていう、そういう月の問答無用さに対して謎の悔しさを抱いているのかもしれない。それこそがやっぱり、月の不思議な魅力を証明していることになるのだろうか。
*1:ここでは関係ないけど、「月面と眼窩」の最後のシーンの、いちご牛乳を渡してカルシウムを取らせようとするところが良い。おいおい握るつもりなのが良い。