落ち着いた夜を過ごしたくなって、ものするひとを読み返した。
1回目に読んだときには、この漫画の主人公の風景や人に向ける眼差しが気になったが、2回目は登場人物の気持ちに共感するように読んだ。
小説家である主人公は、夜中の警備のバイトをしている際に、向かいの建物の窓に「けちようじ」という謎の言葉が映っているのを目にして、そんな
昨日の夜中誰もいない廊下から見た言葉
をみんなと共有したくなる。毎日を過ごしていると時折り訪れる、やたらと心が落ち着いて澄んだ空気に満たされている夜。そんな夜に、何かハッとするような感覚に出会う瞬間がある。それはこの漫画では向かいのビルに浮かんだ謎の言葉「けちようじ」を目にしたときであり、現実では家で本を読んでいるときであったり、音楽を聴きながら外を散歩しているときであったりする。その瞬間に抱いた感覚を言葉に表すのは難しいが、別に何も問いはないのだがいきなり答えが分かったかのような、何かに気づけたかのような、そんな感覚。だけど、その感覚はひとりきりのときにしか訪れないものでもあり、それをその場で誰かと分かち合うことは難しい。でも、その瞬間に感じられたなにか神聖な空気感を誰かと共有したい思いが湧く。だから主人公は「けちようじ」という謎の言葉をみんなに投げかけた。そして主人公は
郊外の夜に光る謎の言葉みたいな文章が書きたい
と考える。「けちようじ」という言葉を目にした瞬間に浮かんできた感情。その感情を言葉で表すことは難しいが、どうにかしてあの感情を他人と共有したい。「けちようじ」という言葉だけでは伝わらないが、文章としてならばあの瞬間の感情に近いものを伝えられるかもしれない。う~ん、なんかかなり感覚的なことを曖昧に書いてしまっている。例えばスポーツをしていてめちゃくちゃ調子がいいとき。そのときの感覚って"調子がいい"っていう単純な言葉での表現しか思いつかないけれど、その"調子がいい"以上のもっと複雑な感覚が、運動している間には確かにあって。そんな調子がいいときの「最高だ!」っていう高揚感まで含めた感覚を読んでいる間だけでも味わえるような、そんな文章。余計に分かりにくくなったかもしれないけれど、そんな文章を書きたい気持ちはすごく分かるし、そんな文章との出会いをわたしは探している。それは文章、小説だけでなく、音楽であったり、映画であったり、「ものするひと」のような漫画であったり、様々な芸術作品に触れている間だけ感じられる感覚。
あとはね、主人公が恋愛し出してから急に小説が書けなくなり、それをヨーグルトの蓋が剥がしにくいことで表現したところもいい。
所詮わたしなんてこんなブログしか書いていないけれど、それでも分かるこの感じ。何かに満たされていたら、文章を書く気が起きなくなる。そして、一度書かなくなってしまうと、何かのキッカケを待たなければ、再び書く気が全く起きなくなる。その何かのキッカケは、その瞬間にははっきりしたものではなくて、けれども振り返ってみればあれがキッカケだったんだと分かるようなもの。人生は振り返ってから自分で意味を付け足していく部分が多い気がする。言葉にすれば分かりにくいけれど、そんな人生の瞬間を描いてくれているから、ものするひとはいい漫画だ。あとは書き始めるまでの時間ね。頭の中にぼんやりと考えていること、書きたいことはあるのだけれど、なんとなくスマホをいじってYouTubeを見たり、そばにある漫画を手に取ったりしてしまい、中々書き出せない時間。準備はできているけれど、もう一押し必要な感じ。実際、この文章を書くときにもそんな時間がありました。一巻の終わりに収録されている作者のオカヤイヅミと作家の滝口悠生の対談において、滝口さんは専業作家になっても、兼業のころと比較して1日で書ける小説の量は変わらないと言っている。これは保坂和志も同じことを言っていた気がする。小説は書こうと思って書けるものではなく、ただただ小説が書けるようになるまで待つことが必要なのかもしれない。もう一度言うけれど、わたしの書いているものはたかだかブログだけどもね。
主人公が、ヨーグルトの蓋が開けにくいのは何かの感じに似ているなあとその正体を頭の中で探しているときに、恋人に話しかけられて、掴みかけていた思考がどこかへ飛んでいってしまうところも共感できる。考えごとをしていて、頭の中でその考えごとを言葉として脳内に留めようとしているときに外的要因に刺激されると、考えていたことはあっという間にどこかへ吹き飛ばされてしまう。なんて繊細なものなんだろう。ああ、何か思いつきかけていたというか、分かりかけていたのに。その掴みかけていたものの気配だけが残っていて、でもそれが何だったのかは全く思い出せそうになくて、ただただモヤモヤする。この感じは特にひとり暮らしを始めてから、実家に帰ったときに味わうようになった。ひとり暮らしでひとりきりで考えごとをすることに慣れてしまうと、他人のいる空間では集中できなくなった。それでも、あのモヤモヤした頭の中のものをうまく言葉で表現できたときの悟った感じはたまらない。視界がスッキリしたような感覚。
生きていると簡単には言葉にできない感覚を抱く瞬間は絶えずやってくる。それをいちいちちゃんと捕まえて、自分の中で咀嚼して、言葉として再現しようとする。それができるから小説家はすごい。そして、そのおこぼれをもらってわたしは楽しませてもらっている。