牛車で往く

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積み重なって立ち上がってくるもの(藤原無雨「水と礫」)

寝る前に布団の中でスマホをいじっていると藤原無雨の小説「水と礫」の試し読みに行きついて、それが面白かったから買ってしまおうかと一日悶々と悩んだ結果、買った。

 

水と礫

水と礫

  • 作者:藤原無雨
  • 発売日: 2020/11/13
  • メディア: 単行本
 

 

試し読みはこちら

web.kawade.co.jp

 

試し読みでは、都会での仕事を訳あってやめた主人公が旅に出ようとするところで終わるのだが、実際に買ってその先を読み進めていくと、主人公の旅の話が一度完結して、そこから最初に戻って新たな視点で再び話が始まり、少しだけ先ほど終わった話の続きが明らかになる。それが終わると三度話が戻っては視点が変わって進んでいくといったふうに、小説がループ構造をとっていることが分かってくる。そんなふうにループを繰り返しながら、少しずつ話の続きが明らかになり、二歩下がっては三歩進むように話全体が前に進んでいく。だから読者としては、一度知った話をもう一度読む時間と初めての話を読む時間のふたつを過ごすことになる。一度知った話を読んでいる間は、それは読者であるこちら側にとっては過去の出来事になってしまっているから書かれている出来事との間に距離を感じるのだが、そこからまだ聞かされていない話に移っていくと、自然と登場人物たちと同じ高さまで自分の目線が下がっていくのを感じ、少し不思議な感覚を覚える。そして、前の一文で「まだ聞かされていない話」なんてふうに書いたが、自分はこの小説を読んでいると、次第に話を読んでいるというよりは、聞かされているような気分になっていった(実際、途中で人称が語り部的なものになる瞬間がある)。ある話が初めて出てきたとき、つまりはある話を一度目に読んだときには、普通の小説を読んだときと同じ"読んだ"といった感覚を抱くのに、話がループしてその話を二度目に読んだときにはそれが"聞いた"といった感覚に変わっている。だから「一度知った話をもう一度読む時間」とか「一度知った話を読んでいる間は」と書いた部分も本当は「一度"聞いた"話をもう一度読む時間」や「一度"聞いた"話を読んでいる間は」と書いた方が自分の感覚としては正確な気がする。そんな感覚の変化が読み進めるたびに積み重なっていくことで、最終的には物語全体からなにか歴史のようなものが感じられるようになってくる(自分の中ではなぜか星新一のショートショートを読んでるときと似た感じを覚えた)。

 

「水と礫」を読んでから少し時間が経ったある日、散歩をしながらFoZZtoneの「Rainbow man」を聴いていると、ふと「水と礫」のことを思い出した。

 


www.youtube.com

 

どちらにも「砂漠」や「水」がキーワードとして出てきて、単純に作品の世界観が似ているから、この二つが自分の中で繋がったのだろう。思い出した瞬間は『そういえば「水と礫」って「Rainbow man」っぽいな』といった具合に、「水と礫」を読むよりもずっと前から知っていた「Rainbow man」の方を上流として捉えていだが、「Rainbow man」のほうもやっぱり「水と礫」の影響を受けていて、このときはいつも以上に歌詞の

 

バックパッカーが水をオーダーする

俺はじっとそれを見つめる
何て美味そうに飲むのだろう

羨むのは傲慢だろう

 

の部分が耳についたのだった。「水と礫」では、体の中に占める水の割合の話や、砂漠を抜け出して助けられたときに水を飲む描写などがあって、そこが印象に残っていて「Rainbow man」のこの部分がいつも以上に引っかかったのだろう。そんなことを考えていると他にも水を飲むことについて歌っていた曲があったなと思い、しばらく記憶を辿っているとそれがLantern Paradeの「甲州街道はもう夏なのさ」であることを思い出した。

 


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潤すために乾かしたかのような僕の喉が

 

のところ。のどが渇いているときは不快だが、その渇きを癒す瞬間の解放感を味わうと、この渇きがなければこんな解放感を味わうことはできなかったなんて、そんなふうに思ってしまう。こうして「水」や「渇き」といった言葉を共通項として、いくつかの作品が数珠繋ぎになったけれど、それぞれの作品から受ける印象はそれぞれによって違う。「水と礫」からは先ほども書いたように小説から感じる距離感から大分カラッとした印象を受けるが、反対に「甲州街道はもう夏なのさ」からはかなりジメっとした印象を受ける。「Rainbow man」はこの二つの中間ぐらいの感じで、作品から感じとられる湿度がどれも違う。

 

こんなことを考えていると、さらに「ときめき生活日記」というブログの水に関する記述のある記事を思い出した。

 

melrn.hatenablog.com

 

わたしはこの記事の文章が好きで、特に

 

 麦茶が注がれたガラスのコップに水滴がついて、指でなぞるとテーブルの上に小さな水たまりができる。厨房に設置されたクーラーの冷気は座敷まで届かない。背中に汗が滲んでくる。

 

といった部分の描写を読むと、たまらないほどその場の空気感が喚起されたような気分になる。この文章には全体を通して周囲の人物や風景の様子が書かれているだけで、それを見ている本人の心情などはほとんど書かれていないのに、いや、そんなふうに感情が規定されていなくて、こちらが入り込む余地があるからこそなのかもしれないが、その場の明るさや湿度などが読むだけでものすごく伝わってきて、半端じゃないほど夏の空気感が感じられる。「水と礫」の選考委員を務めた磯崎憲一郎が「小説は具体性の積み重ね」と、どこかで言っていたことをなんとなく思い出す。そして、この文章はやたらとジメジメしているように思える。

 

「水と礫」の終盤ではひとりの人間の中には、その親や兄妹、祖父や祖母などの一族みんなの見てきた風景が詰まっていると書かれていたが、他人の文章を読んでいてもその人が見てきた風景が詰まっているな、なんてことを思う。それは当たり前のことかもしれないが、実際に自分が自分の目で見る風景は、その中でも自分の意識に引っかかる部分しか見ていないし見れないわけで、同じ風景を見ていたとしても、人によってそこから得る情報は異なるわけである。そんな自分とは違う他人の見ている風景を小説やら映画やら音楽やら短歌やらブログやらは感じさせてくれるから、それらに触れるたびに自分の中に今までなかった新たな視点が芽生える。そうして印象に残ったものは、自分の中で浮き沈みしながら少しずつ時間をかけて馴染んでいく。いつしか自分にも、夏の定食屋で冷たい麦茶の注がれたコップの表面に、触れていた指の体温が伝わって、そうして溜まった水滴が垂れてテーブルの上に小さな水たまりを作っていることに気づく瞬間が訪れるかもしれない。それが訪れたときに、自分の世界が少し広がった感覚を覚える、そんなことを想像する。自分は膨大な自分以外の人やものが積み重なってできていると改めて思う。

 

なんやかんや書いたけど、それぞれの作品から感じる湿度の違いは、単純に砂漠か日本の夏かって違いなだけな気もする。多分そうやな。