牛車で往く

電車に乗ってるときなどの暇つぶしにでも読んでください

スポンサーリンク

スケボー

近所のスーパーに行こうとショートカットで公園を通ったら、奥のほうの雑草の生えた茂みの中を白ブリーフ一丁のおじいちゃんが小走りで横切っていった。それを見た瞬間ちょっとだけテンションが上がった。雪山でイエティを見つけた(と思った)人もこんな気持ちだったんだろうか。これまで幾度となく通り抜けてきた公園で、こんな変わった人を見たのは初めてだった。夏やし暑いからなあ、とか思ったけれど、もっと緊急事態で走っていた可能性もある。なにはともあれ、自分からかなり距離が離れていたからこんなふうに呑気に思えたのだと思う。そんな瞬間を目撃し、おじいちゃんが小走りで横切っていく残像を脳内で何度も再生しながらスーパーに向かって歩いていたら、ごっつええ感じの「みどりぃ~の中を~走り抜けてく真っ赤な人志!?」ってやつがふいに浮かんできた。そんな夏の1ページ。

 

オリンピックのスケートボードのストリートがかなり面白かった。東京オリンピックのときは全く見なかったことを後悔したほど。女子も男子も面白くて、二日連続最後までちゃんと見たから寝不足になり、その状態で浴びる通勤時の朝の強い日差しは殺人的でめまいがした。トリックの具体的な難易度などは分からないけれど、解説の瀬尻選手が「うわあ」とか「やべえ」とか素直な感想を言ってくれるおかげで、それが出たときはとりあえずすごいんだろうと思えた。自分は男子の白い服を着たカナダの選手がカッコ良いと思った。ランの時点で出遅れ金メダルはおろか銅メダルも採れないような状況の中、そんなことは関係ないといったようにトリックでボードをグルングルン回して背面で着地する技を決めていて、素人目に派手でカッコ良かった。トリックを決めた後に吠える姿は、バスケの選手がダンクを決めたときみたいだった。アメリカのナイジャ・ヒューストンもキレがあってカッコ良かったし、堀米雄斗が最後の最後にトリックを成功させ、吠えたあとにボードを蹴とばしたのもカッコ良かった。

 

 

この技がどれだけすごいのかも分からないのに決めた瞬間は興奮したし、実際めちゃくちゃすごい技で逆転したのにも興奮した。国籍関係なく競技自体が面白いから普通に全部見ていただけだけど、この時間まで起きていて良かったと思った。スケボーは着地の瞬間のシュタって感じがカッコいい。障害物の手前で飛び上がり、一緒に跳ね上がったボードも体と同じ軌道を描く。着地するほんの寸前で空中のボードを両足で踏みつけてレールの上に乗る。このときのカシューって音も良い。ほんでもって地面の上に上半身前かがみの姿勢で着地。シューゲイザー。って感じがカッコ良い。なんかもう出ているひと全員カッコ良くて普通に憧れの感情を抱いた。スケボーが面白すぎて、終わった後もまだまだオリンピックは続いているのにスケボーロスでそれなりの喪失感を抱く。自分はスケボーと言えばTV GirlのこのMVを思い出す。

 


TV Girl - Misery (Official Video - Deluxe Version)

 

いまだにボーカルのTrung Ngoに戻って来てほしいと思う。

 

オリンピックは面白かったし、最近開幕した今期のサッカープレミアリーグには日本人選手が増えてるしで、スポーツを見るのが面白い(EUROも面白かった。アベマありがとう)。でもふとしたときに山内マリコの「ここは退屈迎えに来て」の「家帰ったらスカパーでプレミアリーグ見るだけで寝る時間だし」ってセリフを思い出す。

 

 

このセリフに出会ってからというもの、ことあるごとに思い出しては冷や水をぶっかけられ人生の退屈に無理やり向き合わさせられるような気持ちになる(とはいえ面白いから山内マリコの他の小説も読みたいのだけれど、やっぱり現実を直視させられそうで怖くてなかなか手が伸びない)。部活動をしていた高校生のころの自分が『スポーツなんてやるもんで見るもんじゃない。見て何がおもしろいねん』と思っていたことは明確に覚えていて、そんな当時の自分が何がおもろいねんと理解できなかった人間に今の自分はなっている。そんなことを考えて、ああ~、とかちょっとテンションが下がるけれど、大谷が40-40を達成したニュースを見て、すげえ!やっぱスポーツっておもしろ!って元気になる。

 

 

このアメリカ感強めの演出がいい。最後の水をかぶるところがスローになっているのとか最高。

 

もうちょっとちゃんと小説を読めるようになりたいなあ、と漠然と思っていたので文学批評に関する本を何冊か読んだ。

 

 

手始めにやさしそうなものを、とこの本を読んだ。構造主義などの話でちょくちょく聞く、古今東西の物語は似たような骨組みでできているってことを簡単に解説してくれていて分かりやすかった。でもちょっとやさしすぎた感もある。

 

 

次に読んだこの本は翻訳がぎこちない日本語で分かりにくく、すぐに読むのをやめました。

 

 

個人的に入門編としてはこの本が一番わかりやすかった。これまでの文学批評がどのように発展してきたのかが簡潔にまとめられていて、新しい批評論はひとつ前の批評論のカウンターとして生まれてくるという流れは、ロックンロールリバイバルやらヒップホップやら流行の音楽の流れに似てんなと思った。

 

 

自分は頭にボルトの刺さった怪物をフランケンシュタインだと思っていたのだけれど、怪物を生み出した博士こそがフランケンシュタインだった。バカボンと思ったらバカボンのパパかい、キテレツや思ったらコロ助かい、マッサンや思ったらエリーなんかい、のやつでした。他に何がありますかね。

 

 

結局一番面白かったのはこれだった。というか勉強という感じに疲れたから、話し言葉のこの形式が読みやすくかつ面白く思えた。ただ、いくつか読んだ本の内容が身についている気は一切せず、本当はもう一段階上の実践的な内容のものを読んだり(立ち読みしたところ「文学理論のプラクティス」という本が良さそうだったけれど、途中でくじける気がしてやめました)、それから実際に批評してみようとして読んだりする必要があるのだろうが、そこに至る前に力尽きた感じがある。自分は新しい何かを勉強するときに入門編の本を読んで、そこで飽きることが多い。それを自覚しながらもどうにも頑張れない。

 

そういえば筒井康隆の小説って「富豪刑事」しか読んだことがないなと思い、「虚人たち」を買った。

 

 

この小説では物語中において1ページ当たりに進む時間が決められていて、その時間の進むスピードに合わせて描写を書き進めなければならないという制約がある。その制約をこの小説の主人公とされる一人称的視点の人物は了解しており、その了解のもとに行動を決定する。でも行動をつかさどるのはあくまで作者で――もっと言えばこの作品自体で――、登場人物たちはみな自分の行動がそういった小説のルールに則って決められているのだとメタ的な自覚を持っている。そうして小説のルールについて考えてみたり、自分は所詮ルールのある小説内の登場人物に過ぎない、作り物の人格に過ぎないと思ってみたりする。この小説は、そういった登場人物の思考を通して「小説を書くこととは」について考えられた作品のように思えた。途中に出てくるひたすら車で道路を走るだけのシーンでは、1ページ当たりに進む時間が決められているから(というか筒井康隆がそういうルールで書くとして決めたのだが)、目的地に到着するまでにかかる時間分は車で走っている描写を書き続けなければいけないのだけれど、そうして無理やりに書こうとしても風景に変化がないから書くのがしんどいだとか、普通の小説だったらこんななんでもないシーンは省略してしまうけどそうはいかないだとか、そういったことを登場人物が考える。それは多分、なにかを描写するときにはそれをどれだけ細かく書くのか、そもそも書くのか省くのか、人間が目で見るときには風景の全体から印象を受けるのに、小説の風景描写はそれとは違って部分部分を詳細に一つずつ分解して書いているから実際とは違うのではないか、と小説家が考えるのと同じことで、筒井康隆はこの作品でそういったことを真面目に、それとも茶化しながら書いている(どっちかと言えば、そういうルールについて真剣に考えている小説家が書いたらこんなふうになるだろうと、もうひとつ上の次元に立って筒井康隆は書いている感じがする)。ほんで実際に車で走る描写をちゃんと詳細に書いてみると、退屈で長くて面白くないことが分かる。読んでいて本当に読み飛ばしたくなる。でもニコルソン・ベイカーの「中二階」は、詳細な描写でも広がりを感じて面白い(細かい描写でも退屈しないのは、あの思い出したって感じがミソなんだろう。一生連想ゲームできる面白さ。ストーリーがある作品で描写を詳細にしようとしても、話を前に進める必要があって、いつまでも同じ事柄について考えをこねくり回せない限界があるから)。ことはそう単純ではない。