最近は自分にとって懐かしい作品に関する情報が流れてきている。まずはビーストウォーズ。
トランスフォーマーシリーズの映画が新たに2本製作されるらしいのだが、なんでもそのうちの1本がビーストウォーズを基にしたものになるらしい。マジッ?!って感じ。ビーストウォーズは、自分が小学生のころに放送されていたアニメで、おもちゃをたくさん持っていたほど好きな番組であった。中でもサイをスキャンしたライノックスが好きだった。語尾の「〜なんだな」が懐かしい。ただ、好きだと言ったわりにライノックスのおもちゃは持ってなかったが。どういうこっちゃ。コンボイやメガトロンのおもちゃは持っていて、メガトロンは喉の部分が外れて、そこに水を入れると口から水鉄砲が出る仕様になっていた。ハチのワスピーターは出てきてすぐ負けるキャラだった。「ワスピィーターへんし〜ん」って言ってる間に撃たれてどっかに飛んでいくみたいな。最終回のパロディネタ祭りは、当時小学生のわたしにはまだ早く、面白さが分からなかった。パロディネタの面白さが分かるようになったのは、大人になった証。ビーストウォーズはその後、メタルスという続編も製作され、そちらももちろん夢中になった。タイガトロンとエアラザーがよく分からない花に食べられて死んでしまったと思っていたら、なんと合体してタイガーファルコンというめちゃくちゃカッコ良くて強い戦士になって帰ってくるという胸熱な展開。小学生のころは、キャラが死ぬという展開に慣れていなかったから、二人が食べられたときはえげつないほどショックを受けたことを覚えている。普通に泣きそうになった。そんな思い出のビーストウォーズが復活するかもしれないなんて、嬉しいような、ちょっと不安なような、なんとも言えない気持ち。
そして続いてはデジモンアドベンチャー。こちらもわたしが小学生の頃に夢中になっていたアニメであり、4月から新しくアニメが放送されるようだ。それに伴って、東映チャンネルでデジモンアドベンチャーの過去の映画が放送される。
やっぱりデジモンアドベンチャーは、団地に住む小学生たちという設定が秀逸だったと思う。デジモンにおいて団地の日常は平和、平穏の象徴となっており、そんな団地の日常とデジモンが出てきたときの非日常を対比することで独特の緊迫感が演出されていた。劇場版1作目の「デジモンアドベンチャー」に関しても、太一とヒカリが住む団地の部屋でのコロモンとの触れ合いを描写したからこそ、平和な空気感を醸し出すことに成功し、後にコロモンがグレイモンに進化して凶暴になり、町でバトルが始まったときの不安な雰囲気が、より一層引き立てられていたように思える。さらには2作目の「ぼくらのウォーゲーム!」に関しても、太一たち以外の団地で暮らしている人々が、インターネット上で起きている事件に全く気づかないまま日常を過ごしているシーンを描写したことで、インターネットの世界での危機感がより強調されている(このときの太一のお母さんの能天気さたるや)。まあなんせこの団地という舞台設定、これが自分にとってはものすごく重要な意味をもっているように感じられる。正直に言うと、自分はサマーウォーズのことを完全にぼくらのウォーゲームを薄めた劣化版だと思っている。映画の舞台は団地から田舎に移り、主人公も小学生から高校生に変わってしまった。そして取ってつけたような恋愛要素。なんだかもう完全に青春っぽい、それっぽいだけの映画になってしまった気がしてガッカリする。タイトルにもサマーなんて付けちゃってるし。田舎、夏、高校生みたいな分かりやすいテンプレの青春っぽさにはもう食傷気味で、こんな安い手で感動させようとするのも、感動するのももういいよって思ってしまう。
まだ社会的に全然自立できていない存在として考えられている小学生が、大人たちの気づかないうちに世界を救っているのが良かったのに。それを同じ小学生どうしの限られた仲間たちの間だけで共有されているのが良かったのに。そして、自分たちの生きている世界とは違う世界のモンスターたちと絆で結ばれているのが良かったのに。これらの要素全てがサマーウォーズでは無くなっていて、おれたちだけの平凡な夏休みのうちの特別騒がしい1日っていう感じが消え失せていて、もうなんだかなあという感じである。サマーウォーズなんて、想いを寄せている先輩に誘われて、いきなり特別な夏休みが始まるって感じになっちゃっている。なんだか大人が考えるありがちな、どこにでもある、誰でも思いつくノスタルジーになってしまっているような気がして、残念な気持ちになる。
ノスタルジーで思い出すのはハイロウズの「青春」。この曲は今、ソフトバンクのCMで使われている。
相変わらず名曲だなあとは思うが、何かのブログでハイロウズは「青春」を分岐点として変わってしまったと書かれていたのを思い出し、『どのブログだったっけ〜』と思いながら適当な検索ワードを入れて検索すると、このブログがヒットした。
記憶の中ではもうちょっと辛辣にハイロウズの変化について書いていた気がしたが、それは気のせいであった。ただ、このブログを読むまでは単純にいい曲だなあと思っていた「青春」に対して、読むことで違う角度から捉えられるようになったのは確かである。
ブルーハーツの頃とハイロウズになった自分たちでは何が違うか。ブルーハーツの頃は青年あるいは少年の代弁者でもあったが、ハイロウズになった自分たちは純然たる「大人」である。
(中略)
『青春』という曲は、大人の視点から「あの頃こんなふうに過ごせれば楽しいだろうな」と回顧するような内容の曲である。それはある意味でブルーハーツの頃には歌えなかった「青春」の歌である。
ブルーハーツのころはいつだって今を歌ってきたヒロトとマーシーの2人が、確かにこの「青春」では完全に過去を振り返って歌っている。いつまでも青臭いままと思っていた2人も、実はあの頃は青春だったと振り返る大人のような考えになっていただなんて、言われるまで気が付かなかった。この曲は記憶の中の青春を歌ったものとなっており、2人の曲にしては"それっぽさ"が拭えない楽曲になっている。とはいえ、わたしがそういう楽曲に弱いのも確かなんだけども。そして、こういった楽曲で描かれる世界観は、わたしの人生には絶対に無かった瞬間であるはずなのに、なぜか懐かしい気持ちが芽生えてくる。
そして、そんな"なかったはずのノスタルジー"を感じる代表格が、スタジオジブリの映画だ。今さら、夏にNHK BSプレミアムで再放送されていた「久石譲 in パリ」を録画したものを見た。
ジブリ作品、そして久石譲の楽曲が喚起するえげつないほどのノスタルジー。ジブリ映画に出てくるような場面なんて、自分の人生には全くなかったはずなのに、この胸が苦しくなる感覚はなんなのだろうか。
そう思うと、過去を振り返ってやたらとノスタルジーに浸るようになったころが、大人の始まりなんだなと感じる。自分はいつから、やたらと過去を振り返るようになったのだろうか。それと同時に今を活躍している人物、例えば大谷翔平などは、過去を振り返って懐かしいなあなんて思うことはあるのだろうか。ただ懐かしいというだけではなく、わたしのようにまるで現実逃避的に過去の思い出に浸るようなことが。ないやろな、多分。過去ばかり振り返っていても、未来には進めないと言うけれど、過去を振り返らないと今を耐えられないこともあるんですよね。難しいよね。