映画「シャイニング」を見た。
これまでの人生、ろくに見たこともないくせに「シャイニングかっ!」っていうツッコミをしたことがあって、見たこともないくせに知ってるみたいにツッコむのはだいぶ洒落臭いことだから、ちゃんとツッコミの資格を得るために前々から見ようと思っていたところをようやく見た。よく目にする有名なこのシーンを、自分は顔が挟まっているんだと思っていたけれど、実際に見ると挟みに行っていた。「Here's Johnny!」と言いながら、自らの意志で顔を突っ込んでいた。映画では、誰もいないでっかいホテルのエントランスを独り占めして小説を書くっていうシーンがあって、そういう現実にはほとんどありえないシチュエーションを撮影することによる快感みたいなものを想像した。生きていておよそ出会うことも見ることもない、そして他の誰も撮ったことのないシチュエーションを、おれは思いついて映像として実現させているっていう快感、それを自分だったら感じるだろうと、引きで撮られたホテルの薄暗いエントランスでの長回しのシーンを見ながら思い、そうしてキューブリックもそんなふうに興奮したんじゃないかと勝手に想像した。雪の降り積もる中、迷路で逃げる息子とそれを追う父親のシーンでも同じようなことを考え、二人を少し離れた背後から追い続けるカメラワークと、ときおり迷路の隙間から漏れてくる光と雪の白さから、大して映画を見てきていないけれど、自分にとってはこの映画にしかないかもって思えるシーンに出会うのが、映画を見ていて一番面白い瞬間かもしれないと思った。映画というものがそう簡単に要素に分解して語れるものかは分からないが、ストーリーに重きを置いたものよりも、ある時間や空気感が再現されていたり、印象的な瞬間や光景が収められた作品の方が、自分は好みのように思う。あとは妄想の中、壁が赤塗のトイレで昔の管理人にこぼされた飲み物を拭かれるシーンや、237号室の女の亡霊が緑色の壁のバスルームから出てくるシーンの雰囲気が、「2001年宇宙の旅」の終盤のよく分からない部屋にたどり着いたところと似ていて、「2001年宇宙の旅」の終盤もちょっとしたホラーだったように思えてきたりもした。まあなんにせよ、ちゃんと「シャイニング」を観たのだから、これにて自信を持って「シャイニングかっ!」とツッコむことができる資格を得たと言ってもいいでしょう。これからは誰かが顔を隙間に挟もうもんなら、ガンガンツッコんでいく所存。
それから「ゴースト・ドッグ」も見た。
「武士道といふは、死ぬことと見つけたり」の一節で有名な日本の江戸時代の書物「葉隠」を愛読し、伝書鳩を通信手段にしている変わり者の殺し屋ゴースト・ドッグ。ある日、彼は命の恩人であるマフィアの幹部ルーイから、ファミリーの一員フランクを殺すよう指令を受ける。ファミリーのボス、レイは溺愛する一人娘ルイーズにファミリーの全財産を託したが、彼女はフランクを愛してしまったのだ。ルイーズに父の指令と悟られないようフランクを消すというのがゴースト・ドッグの仕事だったが、ある行き違いからゴースト・ドッグはマフィアとの抗争に突入していく。
という映画ドットコムのあらすじを見て、大学生のころに読んだ「自死という生き方」という本に葉隠が出てきたことを思い出し、ギャング映画でもあるしなんとなく面白そうだと思って見たのだが、本当に何も感じずに終わった。自分はギャング映画なんて、いつだれが突然死ぬんだろうという緊張感があってなんぼのもんだと思っており(「ソナチネ」、「パルプフィクション」、「レザボア・ドッグス」くらいしか見てないのに、偉そうなこと言ってすみません)、「ゴースト・ドッグ」に出てくるギャングたちは全員弱そうなジジイばかりでゆるく、そういった類の映画ではなかった。そもそも突然死ぬかもしれないという緊張感は、主人公サイドに仲間が何人もいる場合に成り立つ話で、「ゴースト・ドッグ」の主人公は一人きりの殺し屋だったから、それが成立する構造ではなかった。葉隠の武士道に憧れをもつ主人公は、時代劇の刀を鞘を納めるときのように銃をくるくる回しながら腰に納めるのだが、それがパロディに見えて普通にダサいと思ったし、そのダサさが逆に良い、面白いなどとも思わなかった。全体的になんやったんやといった感じだった。自分はFilmarksなどの口コミから面白い映画を探すときに、レビュー全体の採点の高さよりも、自分があまり面白くなかった作品のレビューを見て、自分と同じように面白くなかったという感想を、自分にしっくりくる内容で書いてくれているユーザーのオススメを参考にすることがよくある。言い方は悪いが、悪口を言い合って盛り上がるように、好かないものが一緒であれば仲良しになる、そっちのほうが感性を信じられる気がする理論。感想を掘る鉱山となる自分があまり面白くなかった作品としては、世間の評判が高いものであるほど良い。でもこれ、よくよく考えてみれば、世間の評価は低いけれど自分は面白いと思っている作品における自分と同じ意見や、そもそもあまり語られていない自分の好きな作品に関して好きと言っている同じ意見にも、好かないものが一緒の場合と同様に好感度を抱くから、少数派の中で意見が一致すればいいだけという話でもある。ただ、世間の評判がいい作品の中からハマっていない意見を探すほうが、そもそもの母数であるその作品に触れている人の数が多いから見つけやすい。
村上春樹の「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」と「カンガルー日和」を並行して読んでいたら、似ている描写がいくつか出てきて、次第にどれがどの本に出てきた描写か分からなくなって混乱した。
線路は丘陵に沿って、まるで定規でもあてたようにぐいと一直線にのびていた。遥か先には雑木林のくすんだ緑が、紙屑でも丸めたような形に小さく見える。二本のレールは太陽の光を鈍く反射させながら、重なりあうように緑の中に消えていた。どこまでいったところで、きっと同じような風景が永遠に続いているのだろう。そう考えるとうんざりした。これなら地下鉄の方がずっとマシだ。
「1973年のピンボール」 p15
「デーーーイ・エイ・トリッパー」
あの曲を聴いていると、列車のシートに腰かけているような気分になる。電柱やら駅やらトンネルやら鉄橋やら牛やら馬やら煙突やらガラクタやらが、どんどん後に過ぎさっていく。どこまでいったって、たいして変わりばえのしない景色だ。昔はずいぶん素敵な景色みたいに思えたものだけれどな。『カンガルー日和』「32歳のデイトリッパー」 p139
それにしても「風の歌を聴け」とか、文章の流れが綺麗すぎる。めちゃくちゃ上手いやんって偉そうにも思う。どんな気分のときに読んでもスッとすぐに文章に馴染めるから、「風の歌を聴け」はこれまで何度も読み返している。上で挙げた三つを並行して読んでいるのも、「カンガルー日和」を読んでいたところで、似ている描写があるとは言ったものの、もう少し文章に癖のなかった「風の歌を聴け」のほうが好みだったと思って読み返したくなり、その流れで「1973年のピンボール」も手に取ったからだった。「風の歌を聴け」が好きだった自分は、「カンガルー日和」を読み始めた当初あまりハマれなかったのだが、そんな中、漫才がほんのり小松海佑っぽくて面白いなあと思ってネタを見ていた兄弟のYouTubeに、「カンガルー日和」について語られているものを発見し、そこでお兄ちゃんに「カンガルー日和」をオススメされて読んだ弟が「面白かった。そりゃあ、おれの書くネタが(兄は)好きなわけだ」みたいなことを言っていて、それをヒントに兄弟の漫才を見るときみたいなテンションで「カンガルー日和」を読んでみたら、これがなかなかしっくり来た。
話がウネウネする感じを楽しめるようになったというのか、雰囲気重視の小説をちゃんとその雰囲気を感じながら読めるようになった。それにしても小松海佑とか兄弟のネタって、面白いけど別に映像じゃなくていいというか、音だけでも十分に面白いから、いっそのことCDとかサブスクとかで音源として配信したら良いのにと思った。
自分の家でもカレーメシはもはや景色と化している。