年末年始、実家に帰って特に何の用事もない日には、よくそこら辺を適当にぶらついた。天気が良くて、寒さもそこまで厳しくない日が多かったから、歩いていて中々気分が良かった。息を吸ったときに、適度に冷たい冬の空気が鼻の中をスッと冷やしていくその感覚が、本当は匂いじゃないのに冬の匂いがするってみんなが言うように、少しの爽快さを覚えさせる。冬の澄んだ空気なんてふうにも言うけれど、澄んでいるという感覚は、なんとなく温かいものよりも冷たいものによって連想されやすいから、本当に澄んでいる熱めのお湯とかを飲んでも、澄んでるわあ、とか思えない気がする。でも冬の空気のほうが夏の空気よりも湿度が低く、つまりは空気中に含まれる水分が少ないはずだから、確かに温度は関係なく澄んでるっちゃあ澄んでるのか。じゃあ仮に、冬の空気と同じぐらい湿度の低いぬるい空気を吸い込んだ場合に、それを澄んだ空気と思えるのかと考えてみれば、とてもそうは思えない気がするから、やっぱり澄んでいるって感覚には冷たさもある程度必要だな、とかどうでもいいことを考えながら歩いた。どうでもいいことを考えるのと同時に、音楽を聴きながらも歩いていて、散歩中にはよく超右腕のアルバム「OBAKE IN TSUSHIMA-NAKA」を聴いた。弾きまくっているギターとそのフレーズがカッコ良く、特に「ブルー」のイントロや「インユーテロ」のアウトローなどにはグッと来る(イントロはイントロで伸ばさないのに、アウトローはアウトロじゃないの、めっちゃ日本語やなって思う)。
アルバムの「インユーテロ」から「ビール」の流れも良い。ツインボーカルのうち、「ビール」を歌っている方の、とにかくワーって声を吐き出すような歌い方が好きで、前のアルバムの「手紙」や、ゆ~すほすてるとのスプリットアルバムに収録されている「春の夜」でもそういう歌い方がされているから、それらもあわせてよく聴いた。アルバムタイトルの「TSUSHIMA-NAKA」ってなんやと調べてみれば、おそらく岡山県の津島中のことを指しているっぽく、岡山と聞いてベタにロンリーを思い出した。「OBAKE IN TSUSHIMA-NAKA」の曲には、別れや変化の憂いを歌ったものが多く、夕方ぐらいに聴いているとちょっと切なくなってくるから、ロンリーを聴くことにすると、なんとなく流れで台風クラブが聴きたくなったので聴く。自分は台風クラブのボーカルのSoundCloudにある、「ニュータウンの野郎ども」がかなり好きで、特に歌詞が良い。
「児童公園のベンチで放課後の風景担う」っていう自分自身を俯瞰した描写が好きで、それは自分の家の近くのいわゆる観光地を、こちとら近辺に住んでるもんだから普通の買い物目当てで歩いていたところ、外国人観光客たちが街並みを眺めて感心しているさまを目撃し、ああ、自分は今、あの外国人観光客たちの目には観光地の風景の一部として映っているんだな、と自分も似たようなことを思ったことがあったからだった。そう思った瞬間に、自分が街に馴染んでいるといった、ある種の帰属意識みたいな感覚を抱いて妙に嬉しくなったのを、「ニュータウンの野郎ども」を聴いたときに思い出し、さらには「風景を担う」って言葉がその感覚をピッタリと表現してくれているように感じられて痺れた。風景を担うかあ、いやホンマに担うって感じやなあ、ってマジで痺れた。でもこの風景を担うって感覚は、自分から迎えに行ったら駄目というか、迎えに行くと「担ってるわ〜」と自己陶酔みたいになってしまう。不意に思うっていうのが重要。ついでに自分は台風クラブの「まつりのあと」の最後の歌詞
明け方にそっと 通り雨降って
路上に残る熱を どぶ川に還して
踏切が鳴った 町は静まった
やっとおれは気付く 手遅れだってこと
も好きで、酔いがさめて白けて冷静になっていく心のさまを風景描写と絡めてこんなふうに描くなんて、本当に痺れる。
稲垣足穂の新潮文庫版『一千一秒物語』に収録されている「美のはかなさ」を読んでいたら、次の文章に出会った。
自分の場合は、「以前ここに居たことがある」あるいは「いつだったか此処で、まさしくこれらの人々と共に、ちょうどこれと同じことを語った」という突然感情は、同時に、「ひょっとしてこれから先に経験すること」のようだし、「それは自分ではなく、他人の上に起っていることでないか」などと思われたりする。
時折に自分をとらえて、淡い焦慮の渦の中へ捲き込む相手をもって、かつて僕は一種の「永遠癖」だと考えた。それでは不十分なので「宇宙的郷愁」に取りかえたが、この都会的、世紀末的、同時に未来的な情緒は、つとに自動車のエグゾーストの匂い、雨の降る街頭に嗅ぎつけたあのガソリンの憂愁の中に、兆していた。それからまた、青き夜の映画館の椅子で聴いた音楽の、半音下る箇所にも、それは確かに在った。『一千一秒物語(新潮文庫)』 p300
もうこのブログで飽きるほどに言っているけれど、稲垣足穂もまた、プルーストの無意志的記憶のような体験について考えている!とテンションが上がった。でも読み進めていくと、少しニュアンスが違うようにも思えた。
はて、こいつはいつぞやフィルムの中に観たのでないか? いつかの真昼、海沿いの競馬場で、人々の装いの線やひだによって織出されていた象形文字でなかったろうか? やはりこんな宵に、だし抜けにけたたましい音を立てて頭上を低く行き過ぎたエァロプレーンの紅緑燈でなかったのであろうか?
『一千一秒物語(新潮文庫)』 p305
稲垣足穂は目の前の風景に関して、どこかで見たことがあるような無数の印象を呼び起こしては照らし合わせていく。自分の思う無意志的記憶が呼び起こすハッとした感覚は、具体的な過去の一瞬が蘇るといったものだから、その点において違うのかもしれない。また、稲垣足穂の言う「宇宙的郷愁」には、過去の記憶だけでなく未来への予感も含まれている。稲垣足穂のこのような過去だけではなく未来へも向けた視線は、『飛行機の黄昏』に収録されている「横寺日記」を読んでいたときにも現れていた。
いったん帰って裏に出ると、電車道を距てた高台の木がくれに、ビァズリー描くサロメの挿絵のような赤銅色の月がせり上っている。右べりは既に輪郭があいまいだ。星図を調べて再び表へ出た。アークトルスとヴェガと北極星とで大三角形を描いてみる。小ぐまと大熊のあいだから伸びているドラゴンに注意する。海辺の町の夜更け、彼女を送ってから堀割に沿うてふらりふらり、ちょうど程よい酔心地で帰ってくる折に、初めて婉々と北天にのた打っているさまが明かにされた。この巨竜は次の機会に、自分にどんな回想をもたらせるであろうか?
『稲垣足穂 飛行機の黄昏』 p104
目の前に広がる星空を見ながらにしてすでに、この先訪れる未来のどこかで今を過去として振り返る瞬間を予感している。しかも「自分にどんな回想をもたらせるであろうか?」と、未来において振り返った今が、今この瞬間に受けている印象とはまた異なった形で思い出される予感も感じている。こんなふうに、いつか思い出すだろうと思うことは、その瞬間を思い出しやすくなる未来への種まきのようになるのだろうか。でもこれはかなり迎えに行った行為のようにも思え、"不意に"って感じが薄まるような気もするが。とはいえ、稲垣足穂は続けて下記のようにも言っており、
時に循環のリングが断たれて、僕らは不意に孤立し、茫然自失する。此処にこうしていることが実は昔なのではないか? あるいは未だ何処にもやってこない遠い先の夜のことではないのか知ら? それともこの一瞬に幾世紀かが飛び過ぎて、自分らは未来の夜に立っているのではあるまいか? おしまいには、其処は地球上でなく、星の都会の夜を歩いている誰かの話でないのかとまで、疑われてくるものだ。
『一千一秒物語(新潮文庫)』 p305
このように無数の似通ったイメージの氾濫による時間的感覚の失調が、この宇宙的郷愁をもたらしているとするならば、それが喚起される仕組みは、我妻俊樹の言う旅情のあらわれる仕組みと同じように思え、やっぱり無意志的記憶に近い感覚のようにも思える。
旅情があらわれる契機として、距離感の失調というのが考えられるかもしれない。
旅情生活者 - 57577 Bad Request
まあなんにせよ、不意に一瞬でどこか(時間的・距離的)遠くに連れて行ってもらえたら、郷愁のようなものが感じられる点は共通している。それから自分は何か自分の出会いたい文章が書かれているんじゃないかと期待しながら「美のはかなさ」を読み進めたのだが、それ以降の内容はなかなか難解でいまいち理解できなかった。また時間が経ったら読み直そうと思う。
